「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

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「信仰の義」

 
  信仰の義
 
 
義というのは、正しさという意味でしょう。神の義、神義は、神の正しさ。信仰の義は、信仰の正しさですから、信仰者つまり人について言うのでしょう。言い換えると、信仰における誠実さを神によって認められる、という意味でしょうか。
 
砕けた言い方をすると、罪が赦され、心の悩みや病や傷が癒されて、信仰の道に従っている、ということでしょう。・・これは、結果かな、この辺の宗教用語には詳しくありません。失礼。
 
神の正しさではなく、人間として、神に認められる信仰の正しさ、信仰の最低限の節操や弁えと言ってきたことと、ほぼ同義として、ここでは考えてみます。
 
 (新約聖書、口語訳:ガラテヤ2:16)
人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。
 
 (新約聖書、口語訳、ローマ人への手紙)
10:9
すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
10:10
なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
 
「神が死人の中からイエスをよみがえらせた」というのが、肉体の復活のことで、それを信じられないならば、どうしましょう。それは私ですが、私は、折に触れて、祈りにおいて神に問うており、これからも問うことになります。
 
人には魔法のようで全く理解できない肉体の復活ですが、それを、神には可能とは思っても、あった、また、あると信じることの出来ない私の不信仰のために、神様は、その一点だけで、私を滅びに渡されるのですか・・と。
 
相手が神でも、いや、神であるなら、なおさら、キリストに救われた人がそうであったように、本気で言いたいことは言わなくてはいけません。
 
信仰は、一生続くのです。正直な祈りも、一生続くのです。信じられないのに、私は信じていますよ、などと、白々しいことは言えません。
 
第二段落で、結果かな、と書きましたが、人間として癒されたという結果があれば、信仰の義を、逆に考えて信仰の糧とするべきだろうと思います。私は、そういう考え方をします。
 
そこに、私にとって、肉体の復活は、今のところ、必須としては含まれていません。もちろん悔い改めの機会は福音として、常に与えられていますが、今の癒しとどう関係があるのだろう。肉体の復活について語られるのは、救いの教条ばかりに思えます。
 
私は、結果としての現在の人間の有り様が、人間として癒やされず、正されず、思想も情感も狭くなっているならば、逆に、その信仰は義ではない、という考え方をしてきたようです。つまり、現在の人の状態を見て、思想と情感が人間として変なことになっているならば、その信仰は、正しいとは言えない、変になっている、と考えます。
 
実際、言うことがステレオタイプ(紋切り型、常同的、決まり文句)になってしまうことは、よく見られます。教理や聖句そのものを述べるときには、言うたびに違っていては困るわけだから、同じでよいのですが、日常的に、またどんなときにも、同じことを言う人がいるようです。
 
信仰のつもりで同じことを言う人が、信仰において間違っているとき、見られるのは、面倒に感じると「神にお任せします」、罪を認めていないのに悔い改めもしないで「こんな私でも神は愛して救ってくださる」、など、讃美の形をとった言い逃れの方便になってしまっている場合です。
 
聖句からの癒しの言葉は、癒やされた時には本当に瑞々しい新鮮さと深みと重みをもって、人間の心と命に生きて響いてくる言葉だったのです。
 
ゆえに善い言葉だと思うからこそ、安易に使いやすい傾向が人の中に生まれて、何の感動もなく使うことがあり、それで気が済んだような気持になりやすいのです。
 
本当に癒やしを求めていた時には、人間の心も深く受け取ることが出来たのですが、そうでない場合、癒しの必要な状況がない分、ピンと来なくなっていることが考えられます。
 
そういう時には、どうしたらよいでしょう。ピンと来なくなっている自分を正直に出してゆくことでしかないでしょう。ピンと来ないのは悲しいことですが、癒しが必要なほど悲しい状況がないということでもあるのです。そういう言葉を使う必然がないのだと思います。
 
思い出してもピンと閃くのではない時には、言葉を控えるか、今後のために、知性において記憶して弁えておけば十分なのです。体験に寄り添う言葉というものがあります。
 
同じ言葉を、体験の裏打ちなしに繰り返し使っていると、
言葉の深みは失われ、言葉の重みは摩り減ってゆくだろう。
 
癒しと救いの言葉は、多く、体験に寄り添う言葉です。
 
 
(2018年02月10日)
 
閃く(ひらめく)
摩り減る(すりへる)
 
 
 
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