「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

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「神のかたちと祈り」

 
  神のかたちと祈り
 
 
創世記に書かれた原罪の話は、高校のとき、実存的解釈として牧師に習ったことですが、その後、いろいろ考えても、そこは私の信仰観として変わっていません。
 
原罪は、大昔ではなく、私たちの現在の問題です。人類が共有し折々に共感するべき不完全性と相対性の信仰の芯だと考えています。
 
 (創世記、口語訳)
1:26
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
1:27
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
1:28
神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
 (創世1:26−28、口語訳)
 
神のかたちに造られた人間について下記サイトから引用してみます。
番号を付けたのは私です。
https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-image-God.html
「1.人間は神のすべてのほかの創造物の中で、特別なのです。物質(体)と非物質(魂/霊)と両方の部分を持っています
2.完全な健康体として造られ、死なないようにできていたという限りでは、神 のいのちを反映していました
3.人の非物質的な部分を指しています。それは人間を動物世界から遠く引き離し、神の意図されたとおり、”支配”するもの(創世記1章28節)にふさわしいのです
4.精神的に、人は理性のある、意志を持った者です。つまり、人は論理的に考え、選択することができるのです。これは、神の知性と自由を反映しています
5.誰でも法律を作ったり、悪にひるんだり、良い行いを賞賛したり、または罪責感を感じたりするとき、その人は人が神のかたちに似せて造られたという事実を確立しているのです。
6.神のかたちに似せて造られたということのひとつには、アダムは自由に選択できる能力を持って造られたということです。」
原罪については、
「アダムは義なる性質を与えられていましたが、創造主に対して反逆するという悪い選択をしてしまいました。 そうすることで、自分のうちにある神のかたちに傷をつけたのです。それから、その傷物のかたちをその子孫に(私たちをも含めて、ローマ5:12)受け継がせたというわけです。 今日でも私たちは神のかたちに似ています。(ヤコブ3章9節)が、罪の傷あとをも持っています。 精神的に、道徳的に、また社会的に、その効果/影響が見えます。」
これによって、2,3,4,5は、損なわれています。
 
6によって、自由意志によって、人間は罪を犯すということです。また、心の迷いや激情によっても罪を犯します。意志による判断と選択、気持ちや感情、どれをとっても人間は不完全だから罪を犯すということです。
 
それが、キリストの十字架によって、人知を超える神の業によって解決した、などという、解釈を受け入れないでください。キリスト以後の歴史と現実を見れば、また、今から先の必然を考えても、明らかなこととして、私たちは、今も罪人です。今も試みられているのです。それが人間です。神に対する信仰者という人間です。
 
神に似せて造られたという聖句によって、人間を、というより、自分を、特別であるかのように言い張る考え方を、私はキリスト信仰だとは思いません。そういう聖句の悪用は、神の位置に思い上がる梯子のような気がします。
 
 
次のような讃美が好きです。まだ知らないことを、知りたいと、神に言っていることに嘘はないのですし、それが讃美になっているからです。
 
 (詩篇、口語訳)
8:4
人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、
人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
8:5
ただ少しく人を神よりも低く造って、
栄えと誉とをこうむらせ、
8:6
これにみ手のわざを治めさせ、
よろずの物をその足の下におかれました。
8:7
すべての羊と牛、また野の獣、
8:8
空の鳥と海の魚、海路を通うものまでも。
8:9
主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、
いかに尊いことでしょう。
 (詩篇8:4−9、旧約聖書)
 
4〜6節がなければ、世辞のように、人と自分の現実からかけ離れた、当たり障りのないだけの、打ちどころの外れた鈍い讃美になります。地に遍く蔓延り正直さを欠いた言葉だけで讃美する向きの、しばしば使う聖書語に過ぎなくなります。
 
神に対して物を言うに、願いも、悔い改めも、告白も、疑問も、感謝も、讃美も、私たちは、問いかけの域を出ません。実際、導きを待つからです。神に同意を求めてはいけません。その立場にないからです。
 
神様が○○であることを感謝し讃美します、という、○○を神に当てはめることは慎むべきです。それは既に、パリサイ人が義を得られなかった話にあることです。そこに自分を高める要素があるから、自分を褒める神を自分で決めつけることと同じになってしまいます。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
18:11-12
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
 (ルカ18:11−12、新約聖書)
 
○○に、信仰、希望、愛、その他、讃美の言葉を持ってきても、その言葉だけでは抽象的であり、具体的な事柄を当てはめるならば、神の意志と行為を決めつける不遜だからです。
 
讃美しなければいけないという動機だけで讃美すれば、聖句を交えても、何やらご利益を期待している空疎な誉め言葉になるでしょう。
 
神に対して、人は問う立場でしかないのです。即ち、判断の正しさについても、同意を求めるのではなく、自分の判断と、のちにその結果を神の前に捧げて、導きを待つ身であります。努力の末に、待つ身となるのは、いつも、生涯の同伴者、キリスト・イエスの御名によって捧げる祈りに、具体的に、結びつき、また、それによるからです。
 
祈りによって神に問い、導きを待ちます。祈る言葉が見つからないときは「祈る言葉が見つからないのですが」と祈ればよいのですから、よい祈りは、正直な祈りです。
 
祈りだけは、どうしようもない具体的な必要と動機によって発動される信仰の唯一の行為であり営みでありうるのです。
 
 
(2018年03月08日)
 
梯子(はしご)
遍く(あまねく、普く)
蔓延る(はびこる)
 
 
 
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