「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

自由にも不自由にも首を絞められそうになってる糞爺のブログ (偽サイトにご注意!)

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「臨在と偶像」

 
  臨在と偶像
 
 
神に会いたいか、と言われると、あまり会いたいとは思わない。旧約を読めば、人が、神に出会うことには、多く、恐れおののくようなことが伴うからです。
 
再臨のキリストに会いたいか、と言われると、既に地上においても癒しや慰めを得ていることや、祈りにおいて感じるキリストのイメージ通りではない可能性もあったりしたら、と考えると、どうかな・・・、というところです。
 
いずれにしても、神または再臨のキリストに、面と向かって会うことがあったら、恐らく圧倒されて従うことになるのでしょうか。少なくとも、普段の意識ではないような気がします。
 
このことは、終末か、死後か、いずれにしても、超常の話ですから、私の想像に過ぎないのですが、ここで弁えとしては、絶対者に人が直接会う、ということの推測です。
 
 
この地上で、祈る時に、キリストを感じたいと思っています。でも、本当のキリストかどうか、厳密には分かりません。私が守ろうと努めていることは、すべてを見抜かれる存在を前にして、人間としても、目一杯、本気で本音の祈りをすることです。
 
祈りの話なのです。だから物や肉体の奇跡や超常の話ではないのです。私という人間の話です。心に思い描くキリストは、本当のキリストかどうか、まだ知らないという前提でなければいけないと思っています。目に見るように神を見ることは地上では出来ないのです。
 
地上の人として、不完全な人間として、罪人としての自覚においては、心に思い描く神またはキリストは想像に過ぎず、偶像ということになります。思い描いた神かキリストのイメージを本物だと信じ込んで常に仰ぐなら偶像崇拝です。
 
敬虔であろうと思うなら、祈りは、偶像という想像の不完全を通して、神またはキリストに捧げるものだという自覚が必要です。地上の人として考える限り、その態度の有無が、驕りのない敬虔な信仰の有無になる、としか考えられないのです。
 
念のために・・
神に、キリストに、祈っていない、ということにはなりません。
 
私たちが、神にキリストに祈りたい希望を、神はキリストはご存じのはずですから、思い描いた偶像がどうであっても、真の神も真のキリストも祈りを聞いておられる、という信仰なのです。
 
ですから、偶像だからと気安く語るように祈ってはいけないのは当然であり、私たちは、真の神に真のキリストに本気で祈ることになります。思い描いている神かキリストのイメージが本物とは違うと申し上げているといっても、それは、神の執り成しに任せるということです。
 
私たち人間がしょっちゅう思い描く想像上の神と、臨在しておられる真の神とは違うということを申し上げています。ここは弁えておかないと、好きなように心に思い描いた偶像を、本物と思い込み信じ込むことになるでしょう。
 
思い込みの偶像であるという自覚を持てば、真の神を見ることが出来ず偶像しか思い描けない自分の祈りにおいて、より低い立場で、謙ることが出来るでしょう。そこから敬虔が生まれることになります。
 
思い込みを真の神と信じ込んでしまうと、いつの間にか、友達のように神にもキリストにも聖霊にも接している自分を信じてしまいます。それは偶像崇拝であり、決して臨在ではありません。
 
今日も神の啓示を受け聖霊と交わりキリストから慰めを頂きました、などと聖なる直接の体験を語るのは信仰ではないのです。祈りのとき静かな雰囲気に酔ってしまいやすい人は、人としての弁えが必要です。私たちが信仰だからと、よかれと思っていることも、偶像にも、罪にも、なってしまうような世界が、人の世界です。
 
原罪という言葉がありますが、ある行為が罪だから行わなかったよ、という考え方が出来ないのが原罪の典型だと思います。つまり原罪から逃れることは出来ず、それが人間という存在の有り様なのです。それゆえに、一生のあいだ、繰り返し、罪を赦していただくために、悔い改めの告白の祈りが必要なのだ、ということでしょう。
 
 
神を信じる、その神に祈る、単純なように思えますが、私たちが、罪深く不完全な人間であることを弁え、人間の限られた力量の立場から考えれば、以上のようなことが明らかになると思います。それを含めて、私たちの信仰は、私たちが不完全な分、絶対ではなくなり、それを信仰の相対性と呼びます。その自覚が信仰における人間の側の弁えと言えるでしょう。
 
信仰の相対性を弁えることによって、信仰に支障をきたすことはありません。むしろ、より低い自覚から本気で祈ることは、キリストの共感と愛に気づくことを助けるでしょう。
 
信仰が絶対だという信じ込みは、様々の自己の都合による曲解から独善を、さらには妄想、さらには狂信を生みやすいのです。夢のように思うことはあっても、夢気分を作ってはいけません。
 
私は、信仰の正しさと、そこに関わる神の意志について、見える、分かる、知っている、守る、という立場の人々を、キリスト者とは呼んでいません。そこから、罪人の自覚も、神を恐れる敬虔な態度も、生まれるとは思えないからです。
 
 
(2018年03月14日)
 
謙る(へりくだる、遜る)
 
 
 
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閉じる コメント(2)

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すみません、「メッセイージ」が分からないんですけど・・

2018/3/14(水) 午後 11:24 st5402jp 返信する

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分かりました。いちばん上の「メッセージ」をクリックですね。

2018/3/14(水) 午後 11:33 st5402jp 返信する

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