「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

自由にも不自由にも首を絞められそうになってる糞爺のブログ (偽サイトにご注意!)

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「待ち望むために」

 
  待ち望むために
 
 
信じて待つ
待ち望むということ
 
これは
生きるのに不可欠なものが
いつの日か成就することを
強く待ち望むこと
 
すなわち
決して否定できない希望であります
 
思い込んで信じ込んでしまう
ということは
待つことの出来ない者が
待ち望む姿勢を持たない者が
成就を先に決め込んで
祝福だけを語って
希望を多幸気分にすり替えてしまうことです
 
そういう傾向だけなら
多くの人に起こることもあります
 
しかし常時思い込み
信じ込んで人に語ることは
人格を破壊してゆきます
 
何故なら思い込んだ分
思い込んだことによって
希望し期待するという可能性を捨ててしまい
その分だけ正常な努力や思いや気持ちや情感を
抑制しさらに押し潰して
健康で活発な人間の反応性すなわち活性を
きわめて夢想的な心性に置き換えてしまうからです
 
そして架空の成就を気分だけ作り上げて
それを神の平安とか
神との合一や一体化などと言って憚らないのです
これほど神聖の領域に対する冒涜はありません
 
ここまで行ってしまうと
正常な人間の反応が出来なくなり
不自然であることにも気づかなくなり
不自然が迫るときには不快になり
一切を人のせいにするでしょう
 
パリサイ人が
救われることを律法の教条に求めて
訂正不能に思い上がって
批判者であるキリストを殺すことに酷似しています
 
救いが成就していないことは
現実と歴史が証明しています
 
救いを手早く気安く見せたがる自己顕示欲があり
感じ取ることや考えることの努力が面倒なために
短絡して現実救済を吹聴したいだけの動機なので
主張することには調子だけがあって根も葉もないのです
 
私たちは
調子に乗ってお祭り騒ぎをする者たちではありません
超常の救いを金の像のように持て囃す者たちではありません
 
私たちは待ち望む民です
信仰がその忍耐を求めてくること知っています
だから悲しみにも耐えるのです
主の御名によって耐えるのです
 
 
(2018年04月09日)
 
潰す(つぶす)
憚る(はばかる)
冒涜(ぼうとく)
持て囃す(もてはやす)
 
 
 
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閉じる コメント(9)

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記事とは関係ない政治のコメントです。
これだけ次から次に不祥事と疑惑の出てくる政権はいまだかつてありません。しかもこれだけ追い詰められても、まだ答弁するときに、相手をなめているような笑いをへらっと浮かべる sorry ABは、唯一の根拠として、国会で通ったから、また、証拠がないから、ということを盾としているようです。この2つ、民主主義の根拠にはなりません。疑惑については、疑われたABsが晴らすべきであって、証拠がないは根拠になりません。何故なら疑惑は疑惑のままだからです。国会で通ったからは、それこそ数を頼んだ暴挙であります。

2018/4/9(月) 午後 1:36 [ st5402jp ] 返信する

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政治の続き
詭弁だけで乗り切ろうとしているABsの胡散臭さを多くの人が感じるようになることを願ってやみません。ABsに、まるで御恩と奉公のように付き従うお味方たちは、ABsが倒れ、また、縛につくときには、一緒だということを忘れてはなりません。大舟に乗っている気でいるなら、それは砂の器に過ぎません。

2018/4/9(月) 午後 1:41 [ st5402jp ] 返信する

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政治の続き
ABsには、もう何を言っても無駄なのかもしれません。上に書いたようなことから、何を言われても、まともに答える気はなく、言い張れば何とかなると思って、不感不応、せせら笑いを決め込んでいるのかもしれません。この前代未聞の政治の乱れと国民に対する裏切りに対しては、真実を語る者が増えることを期待するしかないのでしょう。もうこの国はあきらめるしかないのでしょうか。

2018/4/9(月) 午後 1:47 [ st5402jp ] 返信する

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>救いが成就していないことは
現実と歴史が証明しています

いつも不思議に思うことですが、キリスト教の救いって、何からの救い?
未信者である私にはさっぱり。

2018/4/9(月) 午後 6:16 tensoba 返信する

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私にとって恩恵と言えるものは、辛うじてではありますが、絶対孤独から解放であり、祈る相手がいるということです。それは、そのまま、神に対する正直を旨としているので、神と人の違いを意識するとともに、反省にもつながります。
救いの最終的終末において、神なる善が支配すると言われても、いつのことか分からない終末を讃美する気にはなれません。
私は、キリストという御方が二千年前に人と関わったこと、そのときの共感に、忘れられないほどには、救われていると思っています。

2018/4/9(月) 午後 6:45 [ st5402jp ] 返信する

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私のような者は、怯えが酷くて、するべき、せねばならぬ、しようとおもう、できなかったらどうしよう、などということに恐れを抱いて、全部自分で考えること悩むことに耐えられなくなります。何もかも自分で考えて自分でして、ということが極端に重荷で、絶望的にさえなります。加えて年を取ってくると、出来ない出来ない・・が増えてくるからなおさらです。
慰めでもいいから、弱い自分の力の及ばないところを背負ってくれる御方がいることを願い信じて祈ることが出来るということが福音になっているのでしょう。

2018/4/9(月) 午後 7:00 [ st5402jp ] 返信する

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これも記事にするつもりです

2018/4/9(月) 午後 7:01 [ st5402jp ] 返信する

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仏法では、
お前には出来んぞ、叶わんぞ、
だから私がおるぞ、全て片付いておるぞ
気付け。
と、言われています。
あるがまま、そのままを救うぞ
救っておるぞ と。 削除

2018/4/9(月) 午後 8:10 [ こうさん ] 返信する

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あるがまま、悪人ゆえに、というところなど聞いておりましたが、私が高校のときに行って、結局、洗礼を受けた教会の牧師さんが、親鸞の教えはキリスト教に似ているといってたのを思い出します。

2018/4/9(月) 午後 11:24 [ st5402jp ] 返信する

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