「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

自由にも不自由にも首を絞められそうになってる糞爺のブログ (偽サイトにご注意!)

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「苦楽」

 
  苦楽
   前の記事を考えて
 
 
苦しい楽しいは
結局は主観です
 
しかしながら
主観であることをもって
本人の受け取り方次第といってしまうのは
本人の受け取り方に
外部が関わっていることを無視する暴論であります
 
本人の受け取り方を変えることで
凌げる場合もあるでしょうけれど
それを教えるだけでは
荷を負わせて荷を下ろす
という個人の成長だけに頼ることになり
私が時々言うところの片落ちになります
 
苦楽には因果があり
それは内在的なものだけではなく
他者との対人関係
生きている環境
社会と政治などなど
内部だけでなく外部の
様々な要因が絡んでいるのが人生です
 
信仰者が悟りによって平安を得るとしても
時々の平安を得るとしても
外部のことに鈍感であることは望ましくなく
もちろん限界はありますが
外部の因果にも思慮が及ぶようにしたいものです
 
信仰者が政治を考え
政治活動をすることに自由であってほしいと思います
しかし前にも述べたように
自らの政治活動にキリストの名を冠してはなりません
私たちの正義も主観であり不完全であることを
誰よりも知っているべきなのがキリスト者だからです
 
 
受け取り方を含めて
外部の状況を考えることは
意見を言う側と言われる側の両方に必要です
 
といっても
自己の内部だけでも重苦しいのに
ということもあるでしょう
 
信仰という心の解放と救済は
ここでも様々の重苦しさからの解放として
思慮の束縛を解き
外部に目を向けるためのステップとも言えるでしょう
 
 
救いを目的としながら
心を束縛し
活動を束縛するような教条は
自己満悦の境地から
どこへ出て行っても束縛しか与えないでしょう
 
キリストが解放しようとしている束縛を
改めて束縛するような信仰であってはいけません
 
解放とは
自由に飛躍できること
 
AならばBという論理だけでは
決して語れない飛躍は
直感または直観によって
説得力をもたらすことがあります
 
理屈として間違っていないような気がしても
どこか人間離れしていたり
どこか臭かったりする感覚を大事にしたいです
 
その場合
感覚から生まれた意見は検証が必要になりますが
私の見すぼらしい経験からは
言葉に尽くせない場合もあり
後で理路がついてくる場合もあります
 
 
楽なときには鈍感で
気づかなかったことが多いのだろう
 
苦しいときには救いを求め
悲しいときには癒やしを求め
刺激に敏感になり
気づきやすく傷つきやすい
 
幾分か楽なときにも注意して
信仰の弁えと思慮を忘れぬように
悲しい人を思いやれるように
思いを新たにしながら
この地上の一日一日を生きたいと思います
 
 
(2018年04月17日)
 
凌ぐ(しのぐ)
 
 
 
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本質を語っているなんて思わないほうがいいと思います
というのは、本質だ、本質的なことだ、と言っても
訂正不能にしてはいけないという自覚が大事ということです。
訂正不能にした信仰は何が起こっても、
起こったことを信仰に合わせようと、詭弁を作り始めるからです。
経験ですが、そういうサイトを約6年間批判してきました。

2018/4/17(火) 午前 8:15 [ st5402jp ] 返信する

人の本質、心を見つめなければ心理には
辿り着けないですよ。
これは絶対と言い切れます。
釈迦や親鸞が厳しい修行をどれだけ繰り返そうと
私の心は変わらない、と気付き、
その心を捉え真理を悟らされたように
私もそうであり、また導く上でも
それ以外には気付きに会えないのを知り
皆さんを導き、信じるのではなく
仏に信じさせられる信心を獲得する道を
実行して、数多くの結果を出して居るからです。
私はこのネットの広い世界ならば
心理に至った方とも出会えるかと思いましたが
いまだに会えた方は1人のみ、それも私と同じ
母から教えを請うた方でした。
誤解を恐れず言いますが、私は迷い法を求めてはいません、
いつかあなたが言った伝え手として、
法を語っているのです。

2018/4/17(火) 午前 8:45 [ こうさん ] 返信する

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>人の本質、心を見つめなければ心理には
>辿り着けないですよ。
>これは絶対と言い切れます。

人間にとって絶対と言える命題は
「絶対は絶対にない」ということだけだろうと思います。

絶対は神のものです。
人が絶対だと言う先には
同語反復の無限ループが待っているということが
既に聞いたような言葉の
似たような感じの繰り返しになってゆくでしょう。

2018/4/17(火) 午前 10:23 [ st5402jp ] 返信する

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>仏に信じさせられる信心を獲得する道を

信じたのではなく、信じさせられた
という言い方も、前にも言われたような気がしますし、
それはまた、カルトの自己正当化の論法でもあります。
神が聖霊が、という、させられ体験は、
私が何度も書いてきたカルトの口上なのです。

>実行して、数多くの結果を出して居るからです。

短い人間の生きる時間の中の、
そのまた一部で成り立ったことが
広い世界に通じると言うように
恐れもなく真理?と言ってしまうのです。
心の理つまり心理と言い換えても、
それこそ人間の心理は絶対ではないのですから。

2018/4/17(火) 午前 10:23 [ st5402jp ] 返信する

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> 私はこのネットの広い世界ならば
>心理に至った方とも出会えるかと思いましたが
> いまだに会えた方は1人のみ、それも私と同じ
>母から教えを請うた方でした。

人から教えを受けた心理のどこが絶対なのでしょう。

> 誤解を恐れず言いますが、私は迷い法を求めてはいません、
>いつかあなたが言った伝え手として、
> 法を語っているのです。

私が言った?・・分かりません。
少なくとも私は
悲しみの尽きない世にあって
悲しみを感じなくなる法よりは
悲しみを経て知る愛のほうを愛します。

2018/4/17(火) 午前 10:24 [ st5402jp ] 返信する

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教えは数々あるでしょうが、
人間に絶対を勧めないでください。
「絶対」というその一点のみによって
へりくだる姿勢を失ったゆえに
神に愛される理由を失い
間違いを訂正できずに壊れてゆく人を見てきましたから。

2018/4/17(火) 午前 10:45 [ st5402jp ] 返信する

迷いにあるあなたには理解できないでしょう。
それは仕方ないことです。
しかし、あなたが否定したことは
釈迦や親鸞が心理に至った道理さえ
否定することになりますね。
法は至った伝え手により導かれ
仏、神仏により目覚めさせられるのであり
最後は人の力によるものではありません、
また、あなたが学ぶ教えも人が伝え続けているもので
神仏から直に聞けはしないのです。
釈迦今現在説法と母や私が語るのは、
信心に導く法を語るのは 一人一人に
ついてられる仏が、信心成した者の
口や頭を借り今の言葉で語るのだと教えられました。
今もお釈迦様はそうしてお説法をされているのだと。
それをカルトというならばそれでいいでしょう。
しかし、あなたはどなたかを導けていますか?
生きるこの世において、魂のきゅうさいにおいて。

2018/4/17(火) 午前 10:55 [ こうさん ] 返信する

ここは貴方のブログですから
これ以上は語りますまい。
語ったところで今の貴方には理解できません。
この場をお騒がせしたこと
ご容赦ください。

2018/4/17(火) 午前 11:17 [ こうさん ] 返信する

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>迷いにあるあなたには理解できないでしょう。
>それは仕方ないことです。

私を迷いにあると決めつけていますが、
おっしゃるとおり私は迷いの中にあります。
だから、神に愛されるためには
信仰が必要ということになります。
これがキリスト信仰の大前提であり避けられないことです。

>しかし、あなたが否定したことは
>釈迦や親鸞が心理に至った道理さえ
>否定することになりますね。

釈迦も親鸞も私はよく知りませんが、
釈迦は神相当としても、
親鸞は迷わないことを教えたのでしょうか。
悪人は迷わないのでしょうか。
迷わなくなったとき
既に善人の意識になってしまうのではないでしょうか。

2018/4/17(火) 午前 11:30 [ st5402jp ] 返信する

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> 法は至った伝え手により導かれ
>仏、神仏により目覚めさせられるのであり
>最後は人の力によるものではありません、

導きと目覚めを私はそんなに区別できませんが、
こうさんさんは、まるで何かの仕組みのように
段階を追って分かるし分けられると言うのでしょうか。

>また、あなたが学ぶ教えも人が伝え続けているもので
>神仏から直に聞けはしないのです。

もちろん神から直に聞いたことはありません。
生きている間、聞くことはないでしょう。

> 釈迦今現在説法と母や私が語るのは、
> 信心に導く法を語るのは 一人一人に
> ついてられる仏が、信心成した者の
>口や頭を借り今の言葉で語るのだと教えられました。

2018/4/17(火) 午前 11:31 [ st5402jp ] 返信する

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「信心成した者」というのが
人に人の信仰の成立と正当が分かるという意味になります。
この地上で誰がそういう資格を持ちうるのでしょう。
信仰の成否を見る目が絶対になってしまいます。
この絶対は、人が見なした絶対です。

> 今もお釈迦様はそうしてお説法をされているのだと。
>それをカルトというならばそれでいいでしょう。
>しかし、あなたはどなたかを導けていますか?
> 生きるこの世において、魂のきゅうさいにおいて。

こうさんさんは、何人か救われたと言われていました。
こうさんさんには
この狭い時空の無常の中で救われたかどうか分かる
というのが信じられません。

成果比べなら、私は徹底的に負けるのでしょう。
何故なら、私は慰められてはいますが、
私のどこが正しかったか、どこが間違っていたか、
私が救われたのかどうかは、
生きている間に確定することではないからです。

2018/4/17(火) 午前 11:32 [ st5402jp ] 返信する

勝ち負けではありません。
そういう理解できない心にして頂けると
話しているのです。
信心成したのがなぜわかるか?
私のもとで信心成した方の心持ちも
包み隠さず語っています。
皆、仏様をその身に宿してることに
気付かされています。
それが揺るぎない安心をもたらすのですよ。
仏はただ慈悲あるのみなんです。

2018/4/17(火) 午前 11:44 [ こうさん ] 返信する

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>勝ち負けではありません。

ではなぜ
「あなたはどなたかを導けていますか?」と
こちらの能力を尋ねるのでしょう。
勝ち負けでないなら優劣ですね。
まあ私は劣でいいですけど。

> 信心成したのがなぜわかるか?
> 私のもとで信心成した方の心持ちも
>包み隠さず語っています。
> 皆、仏様をその身に宿してることに
>気付かされています。

「包み隠さず」は絶対とは言えません。
神やキリストや聖霊が
自分の中におられるという人がいます。
神が人の中に?いると決めつける?
神秘を自分と結び付けたがる人がそう言いたいようです。

2018/4/17(火) 午後 0:16 [ st5402jp ] 返信する

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>それが揺るぎない安心をもたらすのですよ。
> 仏はただ慈悲あるのみなんです。

仏さまに文句は言っておりませぬ。

キリスト信仰においても安らぎを得ることはありますが、
しかしながらそれが神が与えた安らぎかどうか
決めつけてはいけないと私は主張しています。
決めつけるといろいろなことで、これも、
神秘を自分に結びつけたがる人が出てくるからです。

人は神秘に弱いようですが、
神秘は神の秘密です。

2018/4/17(火) 午後 0:17 [ st5402jp ] 返信する

だから、その身になるまでは
分かりませんよ。
貴方にも神仏は共にいらっしゃいますよ。
ただ人は自分では気付けない。
それを気付かせてくれるのが神仏なんですよ。
母や私はシェルパのような者です。
ただの案内役、道に迷わぬように
法に迷わぬように案内をするのみ。
その方との会話の中に心を開く鍵があり
最後は仏様が心を開いてくれます。

2018/4/17(火) 午後 0:27 [ こうさん ] 返信する

貴方が自分の心の動きを見れるのは
教えを聞き、神仏が教えの鏡を与えてくれたから
その鏡に映る自分の心がわかるようになった
とは思いませんか?
法に触れる前から自分の心が見えましたか?
神仏が言葉となり貴方の中に法の鏡となり
貴方の心を教えている、鏡は神仏なんです。
実際にもっとハッキリと存在を知ることとなりますが
鏡を見ただけでもわが身に宿る神仏を感じれませんか?

2018/4/17(火) 午後 0:49 [ こうさん ] 返信する

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あのぅ、私は確かに迷う者とは言いましたが
慰められているとも言いましたように
今以上の気づきは
キリストからと熱望しておりますので
仏さまには申し訳ないが
と言っていいのか悪いのか、
この辺でお開きにしてくださいませ。
ちょうどよく記事2つ分になりましたので。

2018/4/17(火) 午後 0:52 [ st5402jp ] 返信する

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先ほど言いましたが私もこれ以上は語りません。
また、宗旨替えを求めてもいませんよ。
自由な発言をお許し頂きありがとうございました。 削除

2018/4/17(火) 午後 0:59 [ こうさん ] 返信する

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>貴方が自分の心の動きを見れるのは
>教えを聞き、神仏が教えの鏡を与えてくれたから
> その鏡に映る自分の心がわかるようになった
> とは思いませんか?

すみません。神仏という言い方も微妙ですが、
私はキリストの心が知りたくて考えブログを書いています。

> 法に触れる前から自分の心が見えましたか?

すみませんが、
こうさんさんのおっしゃる法に
私は触れていないと思います。

> 神仏が言葉となり貴方の中に法の鏡となり
>貴方の心を教えている、鏡は神仏なんです。
> 実際にもっとハッキリと存在を知ることとなりますが
>鏡を見ただけでもわが身に宿る神仏を感じれませんか?

すみませんが、
こうさんさんの言う神仏には申し訳ないですが、
私はキリストだけ身近に感じていたいのです。
付き合ってくださってありがとうございます。

2018/4/17(火) 午後 1:00 [ st5402jp ] 返信する

このコメントのやり取りを転載させて頂きました。
このやり取りから また何かを学んで頂けることを
願ってやみません。

2018/4/17(火) 午後 3:56 [ こうさん ] 返信する

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