「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

自由にも不自由にも首を絞められそうになってる糞爺のブログ (偽サイトにご注意!)

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  「目標と達成」コメント(3)
 
 
私や仲間が至らされたのは
自分でそうなったのではありません。
 人は自分では気付けないのです。
 本当の自分の姿、心に気付けない。
それを気づかせてもらうのです。
 私が仏様の気付きの力、智慧の光明へと
導けるのもその理にかなった教えを
説いているからです。
まず、自分が救われた身にならなければ
叶わぬことです。
だから私は知らされた こうであったのだと
説くのです。
 
2018/4/15(日) 午前 4:18 [ こうさん ] 返信する
 
 
>私や仲間が至らされたのは
>自分でそうなったのではありません。
> 人は自分では気付けないのです。
> 本当の自分の姿、心に気付けない。
>それを気づかせてもらうのです。
 
気づかせてもらったら、自分も今は気づいているのではないかと思います。
自分で気づくのと、それはどう違うのかとも思います。
しかしそれよりも気になるのは
 
> 私が仏様の気付きの力、智慧の光明へと
>導けるのもその理にかなった教えを
>説いているからです。
 
自分が理に適った教えを説いている
という自覚に確信を持っておいてよいものかどうか・・
理に適ったというのは自分が元々持っていた考えと合致した
という場合もあるのではないかとも思います。
 
2018/4/15(日) 午前 4:56 [ st5402jp ] 返信する
 
>まず、自分が救われた身にならなければ
>叶わぬことです。
>だから私は知らされた こうであったのだと
>説くのです。
 
キリスト教系のカルトも
自分は救われた、だからあなた方も救われる
という言い方はするでしょう。
 
このように超常に救われたという体験が確信になると
一歩間違えるとカルトに結び付きやすいので、
私としては、自戒するとともに、
いつも弁えていたいことは
自力はもちろん、他力であっても、
救いを受けた自分を絶対化しないことなのです。
それを今まで記事に書いてきたような気がします。
それを神学者の人から聞いた言葉ですが
信仰の相対性と言うそうです。
人間は絶対ではないことからの相対性
=非絶対性と受け取っています。
 
2018/4/15(日) 午前 4:57 [ st5402jp ] 返信する
 
永続的に何かを持っているわけではない無常の世界では、
私の信仰の義も、
固定ではなく確信でもなく
ただ、今はそれが理に適って正しいと思っていて
ただ、今はそれが善いものだと思うから
伝えているに過ぎません。
 
間違っていると誰かに指摘されることがあって
それに納得して節を修正または変える日が来るかもしれない
という可能性を除外しないでおく必要があると思います。
少なくとも私はそうです。
 
2018/4/15(日) 午前 4:58 [ st5402jp ] 返信する
 
節(誤)→説(正)
 
私にも、これが間違っているはずはない、と思うことはあります。
それこそ、これが間違っているなら、自分は信仰か命を捨てるしかない
とさえ言えるほどのものです。
しかしながら、今の段階で、よりよい説があるかどうか、
私には分からないはずです。
もし、よりよい説があるなら、
その説によって私も慰められるのだろうと信じる以外にないでしょう。
 
2018/4/15(日) 午前 5:06 [ st5402jp ] 返信する
 
 
自らが信じようとする信仰は
 おっしゃる通り絶対の安寧は得られません。
しかし、神仏が誓われた法で救われた身には
疑いもなければ、信じることさえも
 ないのです。
いついかなる時も私と共に神仏がいることを
分からせ、見せてくれているからです。
それが絶対の安寧なんですよ。
 私のブログに紹介した記事にある
広島の僧侶、ブログにいらした
 カーさんのパパさん、
そして、ママ友の千波ちゃん
古くからの友人の最近信心叶った彼女、
 皆、こうして紹介しても差し支えない
 のはその身に仏様を宿し、
 揺るぎない安寧を私と共にしているからです。
 信じる自力の信仰は時に幸福感に包まれても
 いつしかまた信じる努力を必要として、
なかなか辛いものですが、
 親鸞聖人の説く絶対他力をこの身に受けたなら
決して消えることのない安寧を味わえます。
それは先に語ったように、1人の信じるという
信仰ではなくなるからです。
こんな私との交流が、1つでも
僅かでも貴方の信仰の肥やしになれば
幸いです。
 
2018/4/15(日) 午前 6:44 [ こうさん ] 返信する
 
 
>自らが信じようとする信仰は
> おっしゃる通り絶対の安寧は得られません。
>しかし、神仏が誓われた法で救われた身には
>疑いもなければ、信じることさえも
> ないのです。
>いついかなる時も私と共に神仏がいることを
>分からせ、見せてくれているからです。
>それが絶対の安寧なんですよ。
 
「神仏が誓われた法で救われた身」である人間が
なぜ「いついかなる時も私と共に神仏がいる」
であると言えるのでしょうか。
自分を救うのが自分ではなく神であるならば
なぜ神の都合によることを
自分に引き寄せてしまうのでしょうか。
 
なぜ一人の人間の経験に過ぎないのに
いつも「分からせ、見せてくれている」と
神の行動のあり方を決められるのでしょうか。
どうして絶対ではなく無常の存在が
自分の安寧を「絶対の安寧」と言ってしまうのでしょう
というようなことを
キリスト者としては考えるのですが、
・・分からないです・・
 
2018/4/15(日) 午前 7:45 [ st5402jp ] 返信する
 
キリスト信仰の場合、この一点、つまり
神は絶対から信仰は絶対から自分の信仰は絶対へと走って、
人間の不完全性の分別を外したばかりに
自分信仰の誘惑に堕ちてゆきそうな人がいますから、
私は、ただ人間であり続けるように書き続けています。
 
こうさん様の安らぎが邪悪だと言っているわけではないのです。
 
救われている身で、いつも、見せてくれる、絶対、という言葉で、
まだこの地上にいて、まだ天国も極楽も知らないのに、
確信の強さに任せて絶対の世界を断定されることに抵抗を覚えます。
 
2018/4/15(日) 午前 7:57 [ st5402jp ] 返信する
 
 
(2018年04月22日)
 
 
 
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お早うございます!(←早いわ) ◯です^ ^

今回の記事も大変興味深かったです。有り難うございます(合掌)。

此方のコメント欄をお借りして恐縮ですが、個人的私事都合予定により、原稿がまだ完成しておりません(汗)←一回ノートに書き出してから毎回記事を打っているんです〜☆) ずれ込む事をお許し下さい。

2018/4/22(日) 午前 4:34 [ ] 返信する

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>◯さん

○様のペースで構いませんので・・。

2018/4/22(日) 午前 5:13 st5402jp 返信する

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