「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

自由にも不自由にも首を絞められそうになってる糞爺のブログ (偽サイトにご注意!)

全体表示

[ リスト ]

「信仰と行為」

 
  信仰と行為
 
 
キリスト信仰は
何かをせよと命じる信仰ではない。
何かをすることが条件でも目的でもない。
何かをすることで信仰が成るわけでもない。
どんな大きいことにおいても小さいことにおいても
行為によって義認される信仰ではない。
 
十戒は戒めであるが
これを正しく守ることが出来ない人間ゆえに
キリストによる福音が伝えられる。
 
新約においても
命令形は数多く見られるが
それらの命令は目標を語っていて
救いの条件を述べてはいないことが多い。
 
ゆえに
聖書を読んで
何かが達成され
または成就されたかのような気分に浸るのは
警戒するべきことである。
しばしば信仰者によって
目標と達成は混同されるからだ。
 
そしてしばしばそこから
信仰万能感が生まれる。
これはとても俗的な浅い悟り?の境地?である。
 
さらにそこに
信仰によれば必ず幸福になる
と宣伝したい欲求が生まれる。
というより強迫観念が生まれやすい。
 
幸福という言葉は難解である。
一般的な意味での幸福が
信仰によって約束されるわけではない。
 
かといって殉教のような
一般的な意味での不幸が
信仰の幸福というわけでもない。
そこは間違えてはいけない。
 
殉教の幸福は殉教者しか知らない。
私たちに殉教の幸福は分からない。
 
殉教するときに
または死ぬときに
讃美を語るなら理解できようが、
殉教が迫っているわけでもないのに
殉教を幸福と呼ぶ資格は私たちにはないのだ。
 
神の前に
知ったかぶりの悟りを語ってはいけない。
 
神はご存知である。
私たちが知らない多くの信仰の真実を。
私たちが信仰についてさえ多くを知らないことを。
 
信仰の節操または弁えというのは
神に対する人の立場を弁えることに他ならない。
 
神の恵みを語る福音伝道においては
自分が受けたことをそっと語るか
自分の考えをそっと語るか
聖句を静かに指し示すことになるだろう。
 
何かをしなければ信仰ではない
ということが一つだけあるとすれば
それは祈りである。
祈りがなければ信仰は成り立たない。
 
しかし
いつも祈れとか
毎日、食事のとき、朝夕、寝る前など、
頻繁に定期的に祈れとかいうことではない。
そうすることで義務を果たしたわけではない。
祈りの回数で信仰は評価されるものではない。
 
祈りが必要だと感じるとき
それは既に
信仰による神からの恵みである。
 
信仰は神と人との双方向である。
 
聞いたまたは読んだ聖句によって
誰かが癒されるなら
それは人による達成ではなく
神による恵みであり信仰の芽生えである。
 
キリスト信仰は
人間が善いことをしたという理由で
救われる信仰ではない。
 
人の行為など高が知れているのであって
既に高が完ぺきに知られているところから
救いは宣べ伝えられている。
 
 
(2018年05月18日、同日一部修正)
 
弁え(わきまえ)
高が知れて(たかがしれて)
 
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
 

この記事に

閉じる コメント(6)

顔アイコン

浅い… 削除

2018/5/18(金) 午前 1:11 [ 通りすがり ] 返信する

顔アイコン

はい。浅くて申し訳ない。

2018/5/18(金) 午前 1:15 st5402jp 返信する

顔アイコン

(内緒コメへ)
情報受け取りました

2018/5/18(金) 午前 5:36 st5402jp 返信する

アーメン!

2018/5/19(土) 午前 5:06 [ ヒロ@ランの島物語 ] 返信する

顔アイコン

> ヒロ@ランの島物語さん
コメントありがとうございます。

2018/5/19(土) 午前 7:07 st5402jp 返信する

顔アイコン

内緒コメント、消えた

2018/5/22(火) 午後 10:34 st5402jp 返信する

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

開く トラックバック(0)


.


みんなの更新記事