「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

自由にも不自由にも首を絞められそうになってる糞爺のブログ (偽サイトにご注意!)

全体表示

[ リスト ]

「人の善」

 
  人の善
 
 
人間は
自分の行為の因果を
限られた時間と空間において判断して
善悪の判断をしている。
 
実に人間の関われる時空は限られている。
 
これが既に
人間の善悪判断の不明を表しており
人間の罪の原初だということを知るべきである。
 
このように考えると
人間の罪は
人間が善を行わず
あるいは
行えないために犯す罪だけではない
ということは明らかであり
 
人間の罪が
人間が存在すること自体に
不可避的に不可分的に犯してしまう
という不完全の本質である。
 
人間にとっては
善も
また義も
人間存在の本質において
正確な判断が出来ないものである。
 
したがって
善を施した
あるいは義を表した
という判断は厳密にはあり得ないことになる。
 
厳密すぎる話かもしれないが
神との違いを明確にするうえで
欠かすことは出来ないのである。
 
では信仰者は
善行ということについて
どうしたらよいのだろう。
 
聖書をもっと読んで
神の御心に沿うようにするべきだろうか。
否である。
この言い方は
人間は全知全能になるべきだ
と言うのに等しいからだ。
 
どれだけ聖書を読んで考えても
神の御心の立場になることは不可能である。
人間の時空は限られたままだ。
人間の視野は限られたままだ。
 
では
善悪の判断をしてはいけないのだろうか。
否である。
 
判断は否応なしにしているのであり
判断せずに生きることは不可能だ。
 
神の前に何を捧げるか
という問題である。
 
良い供え物を捧げようとするのは、
良い供え物を捧げることが出来る
という思い上がりだ。
 
私たちは不完全を捧げるのである。
そのまま捧げるのである。
 
それが
神に対する人間の不完全の告白になる。
罪の告白になる。
 
罪というと
いつも身に覚えがあるわけではない。
 
罪について身に覚えがなく
むしろ小さい善行を施したつもりの日は、
そのことを
不完全ながら及ばずながら
良かれと思って為しましたと告白し
以後の導きを乞う祈りになるのだろう。
 
気持ちよく祈るということは
打ち明けて隠し事や飾りのない気持ちであって
心に蟠りのない祈りである。
 
善行を施して良い気持ちという祈りではない。
それはパリサイ人の祈りである。
 
キリスト信仰は
人間を徹底して不完全の位置に置き
その弁えにおいて厳格であるが
それゆえに
人間の出来すなわち能力や実績については
何も救いの条件とはせず
むしろ
そのような当為、道徳、行為、戒律の縛りから
解放するために与えられると言ってもよいだろう。
 
根底にある人間の本質を
神との比較において
悟らせ弁えさせようということだから
キリストの慈愛は深く
善なる行為そのものを条件としない分
キリストのくびきは軽いのである。
 
 
(2018年06月01日、同日一部修正)
 
蟠る(わだかまる)
当為(とうい)≒ 「べき」の付くような意味の言葉。
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
 

この記事に

閉じる コメント(1)

顔アイコン

記事とは関係ない政治の:
ABsが外国の首脳に語ることと、国民に語ることは、ほぼ同じような美辞麗句だ。外国の首脳はリップサービスを受け取りながら、中身がないことを承知だからほとんど問題にしない。日本国民は、無視できない数の人が、良さそうな感じだからと真に受けて票を入れるのだろう。

2018/6/1(金) 午後 0:55 st5402jp 返信する

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

開く トラックバック(0)


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2018 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事