「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

自由にも不自由にも首を絞められそうになってる糞爺のブログ (偽サイトにご注意!)

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「教会」

 
  教会
 
 
聖書からのイメージが
教えられた話が
牧師の説教と言動が
他の信徒の言動が
そして何よりも
人の言葉で表されたものが
心の偶像になりうるでしょう。
 
もう一つ
教会も偶像となりうる大きな要素です。
 
カトリックの教会の
キリストとマリアの像は
むしろイメージ感を持っていて
イメージなのだという気持ちも呼び起こすので
まだ分かりやすいかもしれません。
 
つまり像ではなく
カトリックの教会のみならず
プロテスタントの教会も
礼拝堂の物静かな雰囲気とともに
まるでここにだけ神が佇んでいそうな
雰囲気を醸し出しています。
 
礼拝堂の静けさは
静かに礼拝するためだから
実用上必要なものです。
 
家にいても祈ることは出来ますが
信徒が集うことと
いっしょに礼拝堂で
落ち着いて静かに祈ることは
信仰者にとって必要かもしれない。
 
しかしそれ以上のものを
偶像崇拝のように
信徒と求道者に与えて
神域のような領域にしたがるのが
人の因業であり罪であります。
 
現象としては人が営んでいる教会が
必要以上の権威を帯びてしまわないように
信徒も牧師も注意していなければいけません。
 
教会は
信仰以外の余計なものも
信徒と求道者に与える可能性があるということです。
 
クリスチャンというステータスは
どこか気持ちの良いものだと
教会に行くとそれを実感できると
礼拝以上の神秘を期待するところに
偶像の生まれる可能性があるでしょう。
 
教会という形と雰囲気で信仰が整うなら
信仰の弁えも節操も考える必要などありません。
しかし実際に
神殿や幕屋そして教会は
必要以上の権威をもって
服従を人々に強いてきた歴史と事実によって
教会の神秘性は要注意であり
教会の絶対性は否定されるべきです。
 
私たちは
日常の殆どを教会の外で過ごしています。
そこに神がおられ
信仰が磨かれ
祈りが捧げられ
信仰者が成長するのでなければ
信仰の意味はなくなります。
 
教会は
権威などなく
お互いの無事を確認して
祈りを共にするような集会でもよいのです。
 
いくらでも偽物が現れ得るという点を考えても
教会やそこでの儀式に
過剰の神秘性を人が付与するのは間違っていると思います。
 
信仰は祈りであり願いであると申しました。
 
教会は
祈りと願いに根差している限りにおいて
神秘的でなくても
キリストの礎に立つキリストの体なのです。
 
聖日のひととき
祈りと願いを共にする団居の中心に
キリストはいつもおられるのです。
 
 
(2018年06月18日)
 
佇む(たたずむ)
醸す(かもす)
因業(いんごう)
礎(いしずえ)
団居(まどい、円居)
 
 
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キリストの教会は祈りの家

2018/6/18(月) 午後 11:37 憩 ヨハネ 返信する

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祈りの家。コメントありがとうございます。

2018/6/19(火) 午前 7:21 st5402jp 返信する

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