「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

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「疑問と回答」

 
  疑問と回答
 
 
 The Gate of Heaven の Yhoshuah様(以後、ヨシュア様)より
 st5402jp さんからコメントをいただきましたので、、私の見解を書きます。
 
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/64545703.html
 という記事を書いておられます。長いので、こちらも記事に書くことにしました。
 
 
私がコメントに書いた疑問は、
「キリストをなぜ信じ仰ぐようになったのでしょう。ダビデの子孫だからではないはずです。
 今のところ私は、イサクを殺そうとしたアブラハムは本気だったと思うので、そのときアブラハムは、神への忠実と息子への愛の間で、狂っていたと思います。なぜ、代わりに自分を殺してくださいと言わなかったのか、これは長年私の疑問です。
摂理という人知を超えた神の意志ではなく、人知と情緒で分かる人間の心の流れを見るべきだと思っています。」
 

①「キリストをなぜ信じ仰ぐようになったのでしょう。」
これは コメントの主語が無いので少し意図が解りませんが、確実な事は、罪を自覚している人は自身の罪を赦してくれる存在を待ち望んでいました、そして十字架に架かってくれたイエス様を自分の救い主だと認めたからです。
神様はイエス様の十字架の後、ペンテコステを成し人々が信仰を持つための手助けをしました。
私個人の場合は、物心がついた幼児の時から、理屈なしでイエス様を受け入れていました。
聖書を読む前から既にメシア・・・・キリストを認知していました。 私に限っては理屈はありませんでした。
子供のころ どうしてイエス様が神様でメシアなの?と聞かれても 
イエス様がキリスト(メシア)なのは当たり前の事としか 答えなかった。
聖書の証言などを知っていても そういう答えをしていました。

 
教理的なことを書いておられます。
終わりの3行については、
ヨシュア様はクリスチャンホームつまりキリスト者の家庭で育ったのだろうと推測します。
 

②「ダビデの子孫だからではないはずです。」
イエス様がダビデの子孫です。
マタイ書の1章とルカ書3章にイエス様の系図が記録されておりイエス様の祖先に、どちらもダビデが記録されています。

 
ダビデの子孫ではない、と言っているわけではありません。だからといって、イエスがダビデの子孫だから感動してキリスト者になったわけでもありませんし、私が洗礼を受けようと思っていた頃、イエスの系図については、殆ど注意していなかったと思います。受洗後にマタイ書の系図を見て、信仰が深まったとも思えません。
つまり、イエスがダビデの子孫であろうとなかろうと、私はキリスト者になったでしょう。
 

イエス様を信じた理由がダビデの子孫だからとは限らないのでは?という趣旨でのコメントならば、、。そういう事は有ったし、有ると思います。系図を知らない人は多かったはずです。一部の人間しか知らなかったと思います。
多くの人が理屈で信じたのでは無く、心で感じて信じたと言うのなら その通り、あなたのおっしゃる事は正しい。

 
ここをもって合意といたします。
 

③「今のところ私は、イサクを殺そうとしたアブラハムは本気だったと思うので、そのときアブラハムは、神への忠実と息子への愛の間で、狂っていたと思います。なぜ、代わりに自分を殺してくださいと言わなかったのか、これは長年私の疑問です。」
アブラハムはイサクの燔祭を行おうとしました、それは本気です。私もそう思っています。そのうち神様が止めてくれるという安易な気持ちではなかったと思っています。狂うほど悲しい、つらい気持ちは当然有ったでしょう。
アブラハムは甥のロトの窮地を助けに行くぐらいの情のある人間でした。またほかにはソドムを神様が滅ぼそうとしたときに10人の正しい人がいたなら滅ぼさないでほしいと、とりなしをしています。
この記録からアブラハムは情のある人間だったとわかります。
イサクの前にアブラハム自身を捧げることについて、、アブラハムはイサクをささげるくらいなら、神様に自身を捧げものにすると 申し上げたでしょう。聖書は結果だけを記録したのです。

 
聖書に直接は書いてない、自分を捧げることを神に願ったかについて、ヨシュア様は、プロセスの省略であり、あったと言っておられますが、そういう解釈もあるのだろうと受け取っておきます。
 

アブラハムはこの儀式の前に動物を捧げる儀式で失敗しています、儀式を間違わなかったらイサクの燔祭は無かったのです。その責任を痛いほどアブラハムは自覚していましたから当然自身を捧げてもしかたないと思っていたはずです。そういうアブラハムの心の動きは神様はご存知です。
しかし、神様はイサクを、、と指示しました。
それは 儀式を一度失敗した本人では捧げものの条件を満たさないからです。
失敗した時。創世記/ 15章 11節
はげ鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。 と記録があります。
はげ鷹とはサタンの事です。神様への儀式が失敗した直後サタンは舞い降り儀式の捧げものを盗ったのです。
失敗した張本人自身では穢れの無い捧げ物の供えとはなりません、、だから子供のイサクを、、と神さまは指示したのです。

 
 (創世記、口語訳)
15:7
また主は彼に言われた、「わたしはこの地をあなたに与えて、これを継がせようと、あなたをカルデヤのウルから導き出した主です」。
15:8
彼は言った、「主なる神よ、わたしがこれを継ぐのをどうして知ることができますか」。
15:9
主は彼に言われた、「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山ばとと、家ばとのひなとをわたしの所に連れてきなさい」。
15:10
彼はこれらをみな連れてきて、二つに裂き、裂いたものを互に向かい合わせて置いた。ただし、鳥は裂かなかった。  
15:11
荒い鳥が死体の上に降りるとき、アブラムはこれを追い払った。
 (創世15:7−11、旧約聖書)
 
アブラハムが儀式で失敗したと言われるのは、鳥は裂かなかった、ということでしょうか、こういう儀式について、私は、あまり関心がないです。ヨシュア様は、アブラハムが自分を捧げないことの根拠としておられるようです。
 
自分を捧げてはならないときに、正しい信仰のために息子を捧げるというのは、本当に正しい信仰なのでしょうか。そこをアブラハムの正しさとしておられることには、未だ疑問を禁じ得ません。仮に私なら、それなら私を滅ぼしてください、と叫んだでしょう。
  

④「摂理という人知を超えた神の意志ではなく、人知と情緒で分かる人間の心の流れを見るべきだと思っています。」
摂理は神様の人の救済計画です、しかし 神様のみで実行されるのではなく、自由意思を持った人間が召命されて行うのです。神様は人をロボットの様には扱っていません。人の自由意思で神様のみ心を行うか行わないかは決まるのです。
ですから人の情とか心とかが関係します。それは当然のことです。
何より 神さまというのは 愛の神さまですから 人の無限倍の愛や情があります。
神様は無機質な機械的な存在ではありません。
アブラハムのとりなしやダビデの願いも受け入れました。
もし 神様が人間をロボットのように扱っていたら、摂理は一瞬で完了しています、
しかしそれでは本当の救いにはならないのです、人の自由な裁量権の上で人自身が神様の導く道を歩むかどうか、、なのです。そうでなければ 救われた事、赦された事の感謝や喜びが無いからです。
神様は人の喜びや幸せな姿を見て善しとされ共に喜ぶ存在であり人格的(位格的)な存在なのです。つまり、我らの創造主である父神様は理や法則だけの存在ではなく、人で言えば人格的な存在なのです!
だから、神様は人の悲しみも喜びも、つらさもわかってくださる慈愛的存在です。

 
人間が信仰者になるということ、これは教理や節理の話に感動したからでしょうか。私が、そういったものに感動したことがないからかもしれません。神の摂理も、信仰の教理も、人の言葉で語られて感動したことはありません。
 
悲しみや喜びは、その言葉ではない本質によって心を動かされました。キリストの慈愛も、千の言葉や解釈の理屈を受けたとしても、ダイレクト以外には伝わりようがないのです。キリストが直に、というのが不遜であるなら、聖書の話からダイレクトに、ということだと思います。
 
では、それはどうやって?、という話になると、神とキリストと聖霊の、神聖なる領域の話になるので、人間である私は言葉もなく、控えるしかありません。
 
ヨシュア様の文章を読んだ感想としては、一連の回答は、全体に旧約聖書の儀式などの解釈を根拠としておられるようで、旧約の神の正しさを強調しておられるようです。人間の心の問題は、それも大事だからと、何か別扱いになって付記されているかのような印象です。私としては、そこに信仰がなければ何もない、という思いがあります。
 
解釈は、五目並べのようなもので、因果を明らかにしてゆく一種の理路ですが、その、いかなる段階においても、実際には、神の心と人の心は交わっていて、その延長線上に、心が反応して、例えば私などのような、キリスト者も生まれてきます。
 
人の頭の不完全と、人の心の不完全を、憐れんで汲み取る神の心は、解釈の正しさを追求し主張することだけでは、理解するのは困難のように思えてなりません。
 
多くのキリスト者は、解釈を中心に、旧約の神についても新約の神についても、その正しさを理解しようとします。
 
そうして、毎日、教理を唱え、神の正しさを讃美して、改めて考えることや新しく感じること、すなわち、知性や感性を、固定してゆく向きを、昔はリアルにおいて、今はもっぱらネットにおいて感じてきました。
 
何ゆえ新約が必要になったか、パリサイ人などが、心で理解せず、心を理解せず、固まってしまったからでしょう。パリサイ人の偽善は、まさに、私たちの問題だろうと思っています。
 
旧約の神が間違っているとは言いません。しかし、私がキリスト信仰の記事を書くときには、もう一つのスタンスで、ずっと書いてきています。
 
それは、人間にとって、神には理解しがたいところがある、分からないところがある、というスタンスです。これは、分かったという固定をしないスタンスでもあります。
 
人間には理解できないことが多いゆえに、キリストが遣わされた、という考え方をしています。それも含めて、神の救済計画だろうと思っています。
 
この、分からないと言える信仰は、この世で起こる様々な出来事についても、人間が神の御心を分かろうとしても、どうしても分からないことがあるという見方に通じてきます。
 
前の記事で、ヨシュア様が書いておられたこと
 
>イエス様の裾をひっぱるようにすがりついても問題ありません。
>はしたないようでも、そういう切迫した信仰の方が良いと私は思います。
>必死の思いで願いに願う、泣いて泣いてメシアに祈る事も、私は非難しません。
 
このような、神に、キリストに、食い下がるような姿勢が赦されるのは、人間が不完全で神の計画を理解できないことや神の御心を分からないでいることもあるのだということを、神が既にご存知だからでしょう。
 
このことが神の全知を表しており、人の不完全を表しており、神の人に対する愛を表しています。それは、これからも表れてくるであろうことです。そういう意味で、私は、神の全知を表すことより、神の全知が守ろうとする人の義としての、人の不完全の自覚を表すことに集中してきたような気がします。失礼いたしました。
 
 
(2018年07月11日、同日一部修正)
 
汲み取る(くみとる)
 
体調がすぐれず、あちこち痛くて、倦怠感もかなりあって、記事を書くことも、無駄に疲れますし、・・なんか私のPCの反応も、2017年6月の時ほどではないけど、また遅くなってきて・・、こちらからの訪問も、なかなか思うに任せません。申し訳ありません。
  
 
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