「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

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「イサクの燔祭」

 
  イサクの燔祭
     前の記事に続いてコメントの遣り取りを記事にしました。
     一部、編集してあります。
 
 
 (創世記、口語訳)
22:1
これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。
22:2
神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。
22:3
アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。
22:4
三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。 22:5そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。 22:6アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。
22:7
やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。 22:8
アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。
22:9
彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。
22:10
そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、
22:11
主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。
22:12
み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。
 (創世22:1−12、旧約聖書)
 
 
(前の記事から)
どうしてもアブラハムを正しいと主張したいように感じられます。
 
 私は、神が人を救う条件は、人が正しいからではなく、神の前に、目いっぱい正直であることだけだ、と思っているので、
 
アブラハムは、正しい信仰だと思う行為か、息子への愛情か、迷った末に、本気で殺そうとした、そこで、神が止めた、という受け取り方をしています。狂ったというのは、まあ、そういう意味で書きました。
 
より大きな懐をアブラハムに当てはめるよりも、より大きな懐を、神に求めるべきだと思います。
 
 

アブラハムの神様への信仰は一度は儀式を失敗したけれど イサクの儀式において神様への
従順からみて正しいです。
私が認めるより前にアブラハムを儀と認めたのは神様です。聖書が証言しています。

 
神でもなくキリストでもないヨシュア様が、イスラエルの祖とはいえ、神でもなくキリストでもないアブラハムを、どうして絶対正当化するのでしょう。神は、アブラハムを支えたけれども、神格を与えたでしょうか。人間に絶対はないのです。神は、アブラハムの行為を止めたのです。
 
>旧約の神様と新約の神様は同じ存在です。
 
私、神が変わったとは書いていないつもりです。
神は、人の有り様を見て、キリストを遣わされたのでしょう。
 
変わるべきは、私たちなのです。
 
 
> 正しい信仰とはなんでしょうか?それを識別できるのは神様のみでしょう。
> 不完全な人自身では計り知れない事が多々あると思います。
 
そうなんです。人間は正しい信仰を知り得ず、決めてはならず、最終的には神に任せるべきなのです。それを弁えている、つまり、人間が不完全であるという自覚において告白し、神はそれを憐れむゆえに、信仰は成り立ちます。ですから、聖書の解釈においても、私たちは、決めつけてはいけないのです。決めつけることは、自分の説だけが正しいという言い張りになります。
 
この引用2行を、認めることこそが信仰であり、救われる条件なのです。
 
そして、そうならば、
 
>アブラハムはイサクの儀式が完了したら自ら死ぬつもりだったと思います。
 
これも解釈の一つであり、
私の、アブラハムは迷っていたとか狂っていたとか、というのも解釈の一つですが、分かったより、分からない印象のほうが強いのです。
 
使命だからと言われますが、神の使命であろうとなかろうと、目の前の息子を殺せるかどうか、神の命令だからと殺せる人は、はっきり言って、人間ではありません。
 
神についても人についても、人の解釈を訂正不能に言い張るならば、その人は、キリストを殺したパリサイ人と同じになります。そうなると、人間性を失ってゆくのです。
 
生贄とか儀式とかではなく息子を殺せないのが神への謀反であるなら、私を殺してください、という叫びの一点において、それは、私は人間です、という叫びであり、それを見ていただくしかないのです。アブラハムよりも、私たちこそが絶対の正しさを自認してはいけない、ということを申し上げたかったのです。
 
掘り下げるだけ掘り下げたところで、後は分かりません、お赦しください、と神に捧げる気持ちこそが信仰です。
 
 
(2018年07月12日)
 
イサクの燔祭については前にも書きましたが、他者の記事に触れて、やり取りがあり、さらに考えることがあり、一昨日からは、そのことを考えあぐねてもいました。こちらからの訪問が滞っています。申し訳ありません。
 
 
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