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さらなる疑問 何だか論争みたいになっています。 > アブラハムの正しさのことですが。 もう一度書いておきます。聖書は神様のみ言葉が書かれています。 聖書で論じる「義人」とは正しい人という意味なのは、 誰もが知るところですが、アブラハムを聖書では義人と証しされています。 関係聖句は知恵の書/ 10章 5節 ・・・ 知恵は一人の義人に目を留めて、/神の前にとがのないよう守り、/ わが子への情に打ち勝つ力を与えた。 ヤコブの手紙/ 2章 23節 こうして、「アブラハムは神を信じた。 それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、 そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。 < 自説が批判されて弁明が出来ないときに、聖句を引用して神の言葉だから絶対的に正しい、ということを主張するのは、偽善者やカルトの常套手段です。そこに人間として感じまた考えるという務めと努めを怠っている態度が表れてきます。 また、聖句だから絶対と言っても、それは解釈次第ということを考えないでいられることも、さらなる疑問、というより、自分の解釈を絶対とする自分信仰です。 人間であれば、神の名によって咎のない息子を殺すなどということはしない、ということが直観的に分かるのです。その感覚が麻痺しかけているのだろうと思います。Y様は、神に命令されれば自分の子供でも殺すと言っているのと同じです。 神は、人間を救うために、人間に聖書と信仰を与えられました。 人間でなくなったら信仰も救いもありません。 人は、いつも、=人間とは限りません。 人間とは思えないような人がいるのは歴史と現実から明らかです。 私が呈した疑問は、アブラハムは何故?・・と言うことです。それに答えるのに、聖句を盾にして、書いてあるから正しいというような信念を持ってしまったのは、Y様であり、教条主義に陥ったパリサイ人も似たようなものです。 なぜ、ここは謎が残る、疑問が残る、と思わないでいられるのでしょう。そのような、聖句を盾にして人間離れの自己主張を正当化したのがパリサイ人たちであり、その結果がキリストを殺すことでした。 人間なら分かるはずの愛を見出さないでいるパリサイ人を、キリストは批判しました。彼らは、神のことを考えるつもりで、人間性を失っていったのです。 Y様の過ちは、聖書には疑問の余地はなく、その正しさをご自分が分からなければならない、という強迫観念のようなものがあるからでしょう。 分からないと言える信仰を身につけないと、さらに人間離れが進むと思います。 >神格化とのコメントがありましたが、 >私はアブラハムを神格化はしていません、。 >あなたの思い込みです。 アブラハムが神格でない人間ならば、神がその人に完全な義、すなわち、絶対の正しさを与えることはない、と考えるべきです。私も、Y様も、人間という意味では、同様です。 ですから、神がアブラハムに義を与えたというのは、人間としての信仰による義認です。アブラハムに、間違いのない絶対の正しさを与えたわけではありません。したがって、アブラハムが、たとえ間違っても、神は、アブラハムを見捨てることをせず、支え続けたということです。 そういうことは、まさに、Y様が、ダビデ王などを引用して言っているではありませんか。 だから、アブラハムは神の前に正しかったという主張は、ここで崩れます。 そして私は主張しています。私たちには神の正しさが理解できないことがあると。イサクの燔祭は、その一つの例なのです。だから疑問が残り謎が残るということなのです。神のみぞ知ることだからです。 > ペテロはイエス様の救いの摂理を理解していなかったのです。 「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。 神のことを思わず、人間のことを思っている。」 とイエスさまは激しくペテロを叱りました。 イエス様は、ここで神様のことのほうが人間のことより大切なことを証言しています。 この場合 神様のこととは、救いの摂理です。 人の知でわからなくても 神様の摂理のほうが 正しいし大切ではないでしようか。 < ここに表れているのは、神の救いの摂理を自分は知っている、という慢心です。だから冒頭、論争みたいだと申しました。 ペテロはキリストの意志を理解していなかったので、先生は何を言っているんだ、と驚き慌てて諫めました。ここはアブラハムとは違って、キリストを理解していなければこうなるだろうと人間ならば分かるところの、とても人間的な反応です。ここにも、人は間違ったけれども、神は見捨てず支え続けたところの、ペテロという使徒の姿があります。 神は、完全な義を、人に与えることはありません。全能者は、神のみだからです。 > イサクを捧げよと命令したのは創造主である神様です。 実行するかしないかは 人には自由があります、 アブラハムは自身に自由裁量があり、思案の上で成そうとしました。 あなたがイサクの燔祭が、人として正しくないと考えても 神様が指示したことを人である、あなたの口で 間違っていると決めつけるは、どうなのでしょうか? < 私は、私の解釈を決めつけたのではなく、疑問だから疑問と書いただけです。アブラハムが迷った狂ったというのも、そのような意味だと既に書きました。 Y様が読んだと言った私の記事に 「私の、アブラハムは迷っていたとか狂っていたとか、というのも解釈の一つですが、分かったより、分からない印象のほうが強いのです。」 >聖書の理解において私は私のブログのみで書いていますから、 >特別な事を除いては他者のところに行って自分の理解を押し付けることはしません。 >あなたにも押し付ける事はありませんし、そのようにコメントしたこともありません。 言論ですから、押し付けられないのは当たり前です。 しかし、Y様は、押し付けることはないと言いながら、 >私の今回の見解は聖書が証ししたことです。 と言って、解釈の無謬性を聖化して、記事を公開しているわけです。 それを見て、私は疑問を呈しているわけです。 私のブログはコメント承認制ですが、迷惑と荒らし以外は、ほぼ承認しています。議論も可能ですが、私は、分からないことは分からないと言います。保留にすることもあるでしょう。 コメント欄を賛同か誉められることのために設けて、それ以外は押しつけだと思っておられるのでしょうか。 > 神様はこの世に生まれた者、 私を含めすべてに自由意思を与えてくれていますから、 私は自由に思考し私のブログで記事にします。 それは誰にも止めることはできません。 < 自由と自分勝手を混同しています。しかもその根拠に神を宛がっています。 神の前に、神を根拠にしての自分勝手は通用しませんし、 それは最も忌むべきことです。 一般に、公開された言論の自由には責任が伴うことを承知してください。 信仰者としては、 人には自由があるが、それは神が何かを期待して与えたものである ということを考えてください。 神は、完全な聖書の知識を、人に与えることはありません。全能者は神のみだからです。 だから、気張らなくてもいい、という恵みでもあるのですが、 そこを弁えないで、ほっといてくれ、と言わんばかりに、誰にも止めることはできない、と言い張るなら、もはや、Y様の解釈と信仰観は、自己満悦の境地から、神様以外誰も止められないところへ行くのでしょうか。 誰にも検証されない独り言ブログを書きたいのでしょうか。それが信仰に適うと思うのでしょうか。 以前、私が批判してきた偽善者に似てるような気がします。その、私が偽善者と判断した者は、信仰は人それぞれと言い張って、コメントを削除し、さらにコメント欄を閉鎖し、キリストは一人であることを忘れて、何をやっても赦される無罪妄想を宣伝していたのです。 その者には複数のHNを使って、従えば丁寧、反対すれば罵詈雑言の機関銃、といった攻撃を何度も仕掛けてきた荒らしの疑いもかかっています。彼は、今も時々現れます。Y様は、そこまで異常ではないと思っていますし願っていますし祈っています。 この間の事情を知ったら、その荒らしからの、そそのかしがあるかもしれません。上の豹変ぶりを念頭において、一応、ご注意願います。 >アブラハムは迷っていたというのも解釈の >一つですが、 > 分かったより、分からない印象のほうが強いのです。」 >とのことですが、上記に記した聖句をもういちど > お読みください。 Y様は、もう面倒になって、 それで分からないなら見込みない・・とかの 少し悪意の加わったお見捨て発言のようでもありますが、 Y様は 自分は読んでいるから分かっていると言いたいような感じもして、 それにしても キリスト者に聖書を読めというのは・・意味不明と言っておきます。 前にY様が書いていたところの >イエス様の裾をひっぱるようにすがりついても問題ありません。 >はしたないようでも、そういう切迫した信仰の方が良いと私は思います。 >必死の思いで願いに願う、泣いて泣いてメシアに祈る事も、私は非難しません。 このことを是と判断したことによって、 私は、分かります、分かります、アブラハムの正しさ、分かります、 と言うのではなく、自らの命と人生に関わることとして、 正直に、私は分からないですと、 神に駄々を捏ねるように言うことをしているのです。 私たちは、私たちの正しさを神に見ていただくのではありません。 神に見せられるような立派な正しさを、神は人に与えてはいません。 全能者は、神のみだからです。 神は既に見ておられるのだから、私たちは、祈りにおいて、 私たちの修正可能な判断を、自ら捧げて見ていただくのです。 そして、現象として成り行きの中で、自分を修正してゆくのです。 それを経験の中で練習していないと、少なくとも読んでいないと、 信仰は、独善の自分信仰へと、凝り固まってゆきます。 キリストに救われた人々は、出会ったときに、口を開けば当時の聖書語で、アダムは、アブラハムは、ダビデは、などと言ったでしょうか。否です。 今のキリスト者は、人に会ったときに、口を開けば聖書語で、十字架、贖い、など教理の言葉を語って、それで言い得たと思いがちなところがあります。 人間性と人間の現実問題を無視して信仰を語ったことにはなりません。信仰生活という現実において、私たちに必要なのは、罪と悔い改めと赦しと癒しであり、それがあるゆえの愛の気づきであり導きと救いであります。人間の実感から離れてはいけません。 (2018年07月13日、同日一部修正) 咎(とが) 適う(かなう) 無謬性(むびゅうせい)=誤りのないこと 宛がう(あてがう) 豹変(ひょうへん) 教条主義(きょうじょうしゅぎ) =状況や現実を無視して、ある特定の原理・原則に固執する応用のきかない考え方や態度。 https://www.google.co.jp/search?source=hp&ei=HrlGW9LLIoH88gWcsKmoBQ&q=%E6%95%99%E6%9D%A1%E4%B8%BB%E7%BE%A9&oq=%E6%95%99%E6%9D%A1%E4%B8%BB%E7%BE%A9&gs_l=psy-ab.3..0l7.1323.9408.0.10204.20.17.3.0.0.0.121.1896.0j17.17.0....0...1c.1j4.64.psy-ab..0.20.1931...0i4k1.0.n7UWJSLxtCE(コトバンクより) にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
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記事とは関係ない政治の:
40歳代と、それより若い世代は、親世代も戦争経験がないために、詭弁臭さと胡散臭さに対する免疫がないから、言葉に対して疑う姿勢が乏しいのかもしれない。美味しい言葉を、実体がなくても、パーティー感覚で、乗りで真に受けたしまう傾向があるのではないか。もちろんすべての若者というわけではないが・・。
2018/7/13(金) 午前 1:15
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受けた(誤)→受けて(正)
2018/7/13(金) 午前 1:15
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聖書って誰が書いた?
神さま自ら書かれたのか?
2018/7/13(金) 午前 3:00 [ アルファ ] 返信する
ログインせずに書き込んでいるこのアルファは、前から、このブログの邪魔をしている荒らしです。易坊、tensoba、さらに多くのHNを使っています。shalom という偽善者も、この人ではないかという疑いがあります。そそのかされないように気を付けてください。
来た場合は、スクリーンショットしておいたほうがいいでしょう。
2018/7/13(金) 午前 9:09
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私は聖書を誰が書いたのか知りません。荒らしアルファは、誰か人が書いたとか言って知識を披露したいのかもしれません。何度も、荒らしの知識らしいことに振り回されましたので、今では、すっかり信用しなくなっています。その旨伝え、退場を指示したのに、まだ書いてくるところが、荒らしらしい欠損なのでしょう。
ただ、読者には警戒情報を書き、スクリーンショットしておくだけにします。
2018/7/13(金) 午前 9:14
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