「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

自由にも不自由にも首を絞められそうになってる糞爺のブログ (偽サイトにご注意!)

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「超常を呑みこむ者」

 
  超常を呑みこむ者
 
 
アブラハムに
咎のない息子イサクを燔祭として捧げるように
命令した神は、
本気で息子を殺そうとしたアブラハムを止めた。
 
神は、アブラハムを、止めたのである。
 
このことから
人間が読む限りにおいて
神は本気でイサクを殺すことを望んではおらず
正しい神は
間違っているからこそ
本気で息子を殺そうとしたアブラハムを止めた
という見方しか出てこないのである。
 
しかしながら
愚直に命令を守ろうとして
人間離れしかけてしまったアブラハムを憐れんだ神は
見捨てることをせずに赦し
かつ人としての信仰の義をアブラハムに認めて
その後も彼を愛し導き続けた
という見方しか
人間ならば出来ないはずなのである。
 
しかし、教条主義であろうか、
神のなさることはすべて正しく
それは神が導いたアブラハムも正しいのであって
間違っているなどと言ってはならないと
聖書を
儀式と命令の冷たい非人間の筋書きでしか追えない者は
まるで首を横に振り続けるかのように
人の言うことに耳を貸さず
人間アブラハムを聖化し続けるのである。
 
 
自分の解釈以外には目も耳も閉ざし
強迫的に言い張りだけに専念する信仰は
最近まで長らく批判してきた偽善者と同じように
偽りの神の平安を唱えるでしょう。
 
それは
当然のように不都合な刺激を
鈍麻したゆえの常同の意志と行為をもって
あるいは
鋭い拒絶の刃物をもって
次から次に斬り捨てて見ないでいるのですから
自己防衛機制の作る安穏に過ぎないのでありますが、
今のところ事なきを得ているだけで
それを神の平安と呼ぶのでしょう。
 
信仰にも言論の自由はありますが
 
言論の自分勝手はあってはならず
他者を無視して
賛同者だけに説明して満悦して
自閉のうちに発信だけしてゆく信仰はありません。
 
それは、まさに、
パリサイ人の偽善の訂正不能の信仰と同質であります。
 
自説だけを信じて呑みこんでいる信仰は
もはや神とも双方向ではなく
反省も悔い改めもなく
同じ信仰の常態だけを保持しようとするのだから
そこに信仰の成長はなく
インプットを拒む人間の必然として
神とは違う人の不全がそのまま猛進すれば
自らを破壊する方向にしか向かないからです。
 
その破壊の方向で
神の教えとキリストの救いを宣べ伝えるならば
他者を巻き添えにする破壊であります。
 
一人は
とぼけた応答を繰り返し
一人は
滅びてもよいと言うほど
自らを空しくして見せながら
何故か自分が間違っていることだけは
可能性さえ受け入れないのです。
 
私も
40年以上を
主イエス・キリストの恩寵の下に
祈りの信仰によって
絶対孤独から救われてきた人間として
滅びてもよいと言えば不遜であることを自覚しながら
この命がこの地上から取り去られる時までは
懸命なる思いを伝える信仰者でありたいのです。
 
私が説き
かつ求めることは
アブラハムは正しいと決めつけることではなく
また
アブラハムは間違っていたと確定することでもなく
つまり
自分の解釈を言い張ることではなく
人間ならば
アブラハムが正しいということには
疑問を抱かざるを得ないことをもって
聖書のイサクの燔祭の話を
人間には正しさが理解できないこととして
いつの日か新しい納得が得られるまでは
分からない箱または疑問の箱に入れて
保留することであります。
 
それが神に対して恐れを知る者の
神を決めつけないで生きる唯一の道だからです。
 
 
(2018年07月25日)
 
咎(とが)
燔祭(はんさい)
恩寵(おんちょう)
 
 
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