「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

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  批判(8)パリサイ人
 
   批判対象記事:「パリサイ人とは。」 2018/7/25(水) 午前 5:48
    by Yhoshuah (以後、ヨシュア氏、あなた、彼)
    
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/64558882.html
 
 
現代のパリサイ人と、私が言うのは、聖書の言葉にこだわり、人間離れして、信仰者に災いをもたらす人たちのことです。ところが、そのパリサイ人を弁護するような記事を書いている人がいます。
 
>よく クリスチャン同士の会話でパリサイ人という言葉がでます。
>あの人はパリサイ人のようだ、など、、。
>それは良くないたとえで使われています。
 
間違っているのでしょうか。
 
>しかし 詳しくパリサイ人を知っているひとは少ない。
>パリサイ人とは?
>イエス様に敵対し、イエスさまを 十字架につけた首謀者たちの中にいた。
>他にはイエスさまを尋問し陥れようとした人という理解があります。
>他、聖書を文字通りで理解して律法のために律法があるような思考に
>なっていた人たち。 律法で民に重荷を課せた人たち。
>その程度が 悪くはないけど ふつうのクリスチャンの理解でしょう。
 
非凡なクリスチャンの自覚の誰かにとっては、間違っているのでしょうか。
 
>パリサイ人は当時 ユダヤ教の一派で 非常に有力な教派でした。
>民衆には 非常に人気があって 大祭司にさえ言い逆らっても
>民衆が支持するほどでした。
 
有力な教派だから何なのでしょう。民衆が支持して、キリストは殺されました。
 
>だから今のクリスチャンが思っている?のはただの思い込みで、
>嫌われものではなかったのです。逆に尊敬されていました。
>それから、、サドカイ派と違い パリサイ人は霊魂の不滅を信じていました。
 
嫌われ者ではないと思います。でないと民衆は扇動できないからです。
つまり民衆の支持というのは、当てにならないということです。
 
>だから イエス様をサンヘドリンの議員ニコデモが夜 訪ねて来た時 
>霊の話の中でイエス様は教師でありながらそんなことも知らないのかと言いました。
 
ニコデモは、私も例外として記事にしていますが・・弔いにも来たようだし・・。
 
>パリサイ人は断食も週に二回もしていましたし、十一献金も欠かさない人達でした、。
>聖書についても暗記しているほどです。
 
キリストの、パリサイ人と取税人の祈りの話を思い出します。義とされたのは取税人でした。
 
>議論の中で、イエスさまのおっしゃった聖句を即座に理解していました。
>理解してるがゆえに イエスさまの言葉の方が正しいと退散しました。
>つまり 律法的にはすばらしい信仰をしていたのです。
>(表面的には、。)
 
表面的には信仰で、実質は神に背いていたのがパリサイ人です。
 
パリサイ人についての聖句を、一部、下に引用していますが、パリサイ人は、陰謀によって、キリストを殺しました。
 
イエスさまの言葉の方が正しいと退散したのなら、そういうことは起こらないはずでしょう。
そういう愚かな人を批判しています。
 
表面的には律法的に素晴らしい信仰をしていた、というのは、褒める理由になりません。表面的であったからこそ、パリサイ人は、神に背く者だったのです。ヨシュア氏は、似たような、儀式や筋書きを大事にして、人間性を疎かにしているのでしょう。残念な人々では済まないのがパリサイ人です。
 
>だから、そう簡単に他人をパリサイ人と言うのは簡単では無いです。
>自分がパリサイ人より優れていなければ他人をパリサイ人のようだ、
>と揶揄(やゆ)する資格もありません。 
 
パリサイ人が、キリストの敵であったことは否定できません。つまり、パリサイ人に、知識があったからと、否定を緩めてしまうこと自体が、キリストに反するとは考えないのでしょうか。
 
したがって、パリサイ人は、パリサイ人でしかなく、パリサイ人よりも優れていることは、パリサイ人の延長にはないのです。
 
>しかし、パリサイ人らは肝心な事ができませんでした、。残念な事でした。
>キリストが来ていたのにそれがわからなかったこと。
>目の前にイエス様がいるのに 認めなかったことです。
 
それが一番大事なことなのです。そこで信仰があるか無いかが分かれる、
というのが福音書ではないのでしょうか。
それこそ、まさに、残念なことでした、では済まない話なのです。
 
>ある日イエス様は弟子にこういいます。
>マタイによる福音書/ 5章 20節
>律法学者やパリサイ人の義に勝らなければ天国には行けない!
>パリサイ人らに勝る義でなければとは、、たいへんな事です。
>でも 義とは究極的には 
>『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛すこと。』 と
>『隣人を自分のように愛すこと。』です。とイエスさまはおっしゃった。
>決まり事の律法は大切だが、それよりもっと大切な事だということです。
>簡単ではありませんが できない事はありません。
>そのように していこうと心に刻むことはできます、そこからが信仰です。
 
もう一度、申し上げますが、ここまでの話で明らかなように、パリサイ人の義に勝ることは、パリサイ人の延長にはないのです。
パリサイ人は、どこまでも否定されるべき存在でしかありません。
 
まるでパリサイ人に勝るか匹敵することがヨシュア氏には出来るつもりだから、こういうことを言ってしまっているように思われます。
 
この記事を読んだとき、私は驚いて、マタイ書のパリサイ人についての記事を見てみました。全部ではないが、23章など、引用してみます。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)12:14
パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。
 (マタイ12:14、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:7
偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、
15:8
『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
15:9
人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。
 (マタイ15:7−9、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)15:13
イエスは答えて言われた、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。
 (マタイ15:13、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)22:15
そのときパリサイ人たちがきて、どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと、相談をした。
 (マタイ22:15、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)23:13
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。
 (マタイ23:13−15、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)23:25
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。 23:26盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。
 (マタイ23:25、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
23:27
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。
23:28
このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
 (マタイ23:27−28、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)23:33
へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。
 (マタイ23:33、新約聖書)
 
ここまで引用して、うんざりしました。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:17わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
5:18
よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19
それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
5:20
わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。
 (マタイ5:17−20、新約聖書)
 
キリストは、律法を成就するために、パリサイ人とは全く違う伝道をしました。パリサイ人が出来なかった洞察によって、その慈しみを惜しむことなく罪に苛まれている人々に施したのです。
 
ヨシュア氏は、恐らくキリストの洞察や情感そして救われた人々との共感を受け取ることができないのでしょう。だから、パリサイ人に未練のような、半分評価するような、甘い考えを持ってしまったのだろうと思います。
 
ヨシュア氏の言説に惑わされないでください。パリサイ人と同種の偏った知識と思考でパリサイ人に勝っても、信仰は決して成り立ちません。信仰は、パリサイ人の信仰の延長線上にはないからです。イエスがキリストだと分からなかったのは、まさに、パリサイ人がパリサイ人の信仰しか持てなかったからです。
 
使徒パウロもパリサイ人でしたが、パリサイ人であることを否定して、パリサイ人としての自分を捨てて、悔い改めたから、使徒と呼ばれるようになりました。パリサイ的な考え方は、根こそぎ否定して悔い改める対象でしかないはずです。
 
ヨシュア氏の言説には決して惑わされないようにしてほしいと思います。神の知を追って、人の知を疎かにしていると思います。彼は、神と人の決定的な違いが、実感としては、何も分からないでいるのでしょう。彼はキリスト教の伝道者ではないと思います。
 
 
(2018年07月30日、同日一部修正)
 
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