「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

自由にも不自由にも首を絞められそうになってる糞爺のブログ (偽サイトにご注意!)

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「伝道の資格」

 
  伝道の資格
 
   ラブ・ソナタ静岡
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28976813.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームは、韓国系の教会の動画を紹介しています。
 

冬のソナタによって一大韓流ブームが始まりました。
もうひとつのラブ・ソナタによって近くて遠い日本と韓国の和解の大きな流れが起こって、
今も続いています。そのラブ・ソナタが29回目となり、静岡で開催されました。
国と国の和解は人と人との和解から始まります。
ラブ・ソナタは人と人との和解をもたらす和解の源は神と人ととの和解であり、
それは人からではなく、神によって与えられる和解です。神の福音です。
多くの素晴らしい音楽もあります。
ぜひ視聴くだされば感謝です。
http://japan.cgntv.net/detail.php?number=2299

 
この動画の中身に問題があるかどうかは分かりません。
 
問題は、シャロームが、キリスト教の動画を宣伝しているということです。
 

人と人との和解をもたらす和解の源は神と人ととの和解であり、
それは人からではなく、神によって与えられる和解です。神の福音です。

 
こういうことを、シャロームは、言う資格があるかどうかという問題です。
 
今までのことを、まるで何もなかったかのように、言っています。
今までの問題は、何も解決も和解もしていません。
シャロームが、どういう人であるかを、ここにまとめておきます。
 
シャロームの、今までの言動(批判8年の歩み):
 
シャロームは、自身のことを元牧師だと言っています。
 
質問をすると、けっして分からないとは言わず、はぐらかしてくる、皮肉を言ってくる、讃美言葉でごまかす、返答に困ると、やたら聖句を引用して並べてくる、さらに突っ込んでみると、質問者〜批判者を、エホバの証人に似ている、自分に依存していて構ってあげないから攻撃してくる、幼少期に虐待されたから長じて虐待者となって攻撃してくるというサイコパスの特徴を当てつけてくる、などと書いて侮辱する人です。いっさい根拠を示さずに。
 
批判すると、自身のブログに、敵を滅ぼしてくださいと祈り願う聖句を載せてきました。
 
あるコメント欄で、やり取りを続けていると、状況に合わない時候の挨拶を入れてきました。そして、そのあとの私のコメントは承認しませんでした。つまり、読者に、シャロームが私を説得して退かせたと見えるような偽装を行ったということです。
 
荒らしの易坊と二人で、私を攻撃しました。そのとき、シャロームは、私がシャロームのブログに書いたコメントを、私のブログにコピペしてきました。そして、私のことを、荒らしだと決めつけました。そのとき、荒らしは、紛れもなく、易坊とシャロームだったのです。シャロームは、何をしても、非を認めず、こちらのせいにしてきます。
その頃に書いた私の記事:「いのちのパン」
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18423721.html
コメント欄はありませんが、
https://st5402jp.blog.fc2.com/blog-entry-1085.html
 
シャロームの言ったこと:
 
罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、偽善も罪だから赦される、と言って、それを訂正していません。
シャロームの詭弁:
別のときには、悔い改めをするのはシャローム自身なのに、悔い改めは神が与える、という詭弁を弄しました。これは、悔い改めていないなら、シャロームには、神の恵みも導きもないのだから、シャロームはキリスト者ではないということを自ら語っているに等しいのです。これも訂正していません。何事につけ、シャロームは、訂正不能で、自己正当化と自己中心で、訂正不能です。怖い人です。穏やかそうな筆致に騙されないようにしてください。
 
シャロームは、私のコメントをすべて削除しました。そして、コメント欄を、すべて閉鎖しています。そういう人物が、今回、キリスト教の動画を勧めているのです。信用できるでしょうか。
 
シャロームは、キリストの肉体の奇跡を、それだけは譲れないとまで言って、信じ込んでいます。そして、それを自分が救われることの根拠にしているようです。シャロームは、「超常体験です(笑)」と書いて、病気が治ったか何かの奇跡体験があった、というようなことを書いていました。何を仕出かしても、どんな罪を犯し偽善を働いても、どんでん返しの奇跡で自分は救われると信じているようです。つまり、とても単純で、短絡した信仰になっています。
 
シャロームは、人間性を、その知性と感性、そして共感を否定しています。人間として不可欠な神からの賜物を否定しています。そして、これも訂正していません。
 
シャロームは、敬虔ということを、丁寧な言葉遣いや社交の世辞と勘違いしています。だから、批判を受けることを、とんでもない異常事態と思うようです。自己中心で、人の言うことを、賛同意見以外利かない人です。やたら聖句を並べ、やたら聖書語つまり聖書に因む言葉を振り回すのも、自己満足の大嘘だと思います。
 
シャロームは、平気で嘘を吐きます。「失礼しました」と書いた後で、楽山に「負けるが勝ち(笑)」と書いたことがあります。信仰についての全部が嘘、ということもあり得る人です。
 
シャロームには、荒らしの易坊と、軟派カルトのアドラー教宣伝者である楽山との、三者の成りすまし疑惑があります。筆致が元々三者は違うのですが、ときにそっくりになることがあったからです。自己中心と訂正不能であること点が酷似しています。もし、シャロームが、荒らしの易坊と同じ人の成りすましなら、シャロームは、奇跡であろうとなかろうと、神など信じてはいません。
 
シャロームの思考は、滅裂なところがあり、理路を組み立てることが出来ないと思います。また、本を読んでもその理路を理解しておらず、都合の良いところだけ受け取って、言葉だけを振り回します。そういう人ですから、読書好きなインテリではありません。そう見せかけようとする態度が、しばしば露骨です。大方、シャロームは、自分が引用した記事や自分が読んだ本の批判対象となってしまうのですが、シャローム本人だけはそのことに気づかないのです。
 
理路また論理とかが苦手な人も、信仰の日々について日記的に書くことは可能です、しかし、シャロームは、教える立場に、ふんぞり返るように、信仰について、思想について、自分の誇大妄想的言説を披露しないと気が済まないのです。
 
シャロームは、人からもらった言葉を振り回します。例えば、アンビバレント(愛と憎しみなど相反する感情を同時に抱くこと、葛藤に結び付く、両価性)という言葉を聞くと、神はアンビバレントなお方だからとか、意味不明な、まるで神が葛藤で病んでいるようなことを有頂天で言い出します。
 
また、それだけではなく、自分で、新しい卓見でもあるかのように、実際は愚にもつかぬ造語をすることがあります。民主主義ならぬ神主主義、心身症ならぬ霊心症という具合です。それで言い表せたつもりになるのです。とても異常です。
 
シャロームは、批判対象となった自分の記事をかなり削除しています。中身は何もありませんが、人格特徴としては、自説絶対の権威主義者だと思います。自分が気持ちよくなるためには、削除、当てつけ、嫌がらせ、虚言、隠蔽、偽装、改竄、など、手段を選ばない人だと思います。中身は何もありませんが、悪い政治家と似たような性格の持ち主です。
 
また、世辞の丁寧語とは裏腹に、自分をいつも他者を教える立場に置いている傲慢な自覚があり、根拠も説得力もなく豪語したり言い張ったりの、預言者気取りとも言えるでしょう。
 

人と人との和解をもたらす和解の源は神と人ととの和解であり、
それは人からではなく、神によって与えられる和解です。神の福音です。

 
シャロームの、こういう言葉が、はたして信用できるでしょうか。
 
また、悔い改めと同様に、自分は何もしなくてもよく、神との和解も、神が与える、というお気楽な、ありがたや信仰?を書いています。
 
信仰について何も弁えなくてもよい、などというキリスト教はどこにも存在しません。
 
どれだけ、神に逆らい、神聖をけがせば、気が済むのでしょう。シャロームは、何もしないで、人間でもなくて、何か、ばらばらな生命体にでもなりたいのでしょうか。呆れます。
 
シャロームは、福音伝道に関わる資格のない人だと思います。そればかりか、福音とキリスト信仰を滅ぼす妄想的カルト信者であり、反キリストであり、カルト宣伝者そして感染源だと思います。
 
シャロームは、楽山と同じように、不都合な一切を無視して、何事もなかったかのように、世辞の挨拶などから始めて、あちこちのブログに書き込んできます。
 
その丁寧語を受け容れて、穏やかな人だと思って安心して挨拶を返し、交流し始めてしまうと、あとは、聖書語という讃美言葉や、強引な何らかの勧めをしてきます。楽山や易坊と同じように、無反省、自己中心、訂正不能の押し方で、説教をしてきますが、その中身は、キリスト信仰でもキリスト教でもないカルトですから、人格と、感性、知性を破壊するだけだと思います。十分注意し警戒して、関わらないようにしてください。
 
 
キリスト信仰は、
人が、愛と人間性にあふれた、即ち、よく感じ取り、よく考える人間になるための信仰です。
洗礼を受ければ完成するような安易なものではなく、境地でもなく、超常の魔法でもなく、
人間として成長するために、祈りに支えられた道を歩むことです。
 
 
(2019年05月21日、同日一部修正)
 
何か書き忘れているかもしれません。思い出したら、その都度、また書きます。
 
改竄(かいざん)
挨拶(あいさつ)
 
 
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「綻び」

 
  綻び
 
   他人の真似をしたら、自分の個性を見つけた!
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41542062.html
   楽山のブログ
 
 
楽山は、自分も成長し学習しているということをアピールしたいようです。
しかし、気に入らないことは無視するというアドラー教に成長はありません。
 
記事の引用
 

 
少し前のことだけど、
 
とあるブログで、
心に思ったことを
つらつら、つらつらと
すごく長く書いているのを読んで、
 
自分も真似して、
こんな風に書いてみようかな、
でもただ真似するのは面白くないから、
自分は改行はなるだけしないで、
ぎゅうぎゅう詰めにして長文を書いてやれ!
と思って書いてみたのだった。
 
そんで、
その結果はどうなったかというと、
真似したブログとは
似ても似つかない文章になりました(笑)。
 
とあるブログでは、
プライベートな事でもなんでも、
かなり率直に語っていて、
飾らない人柄が文章に出てるけど、
さすがにこれは真似できないかった。
 
他人の真似をすると
自分の個性を失うという話もあるけど、
 
自分の場合は、
他人の真似をしたことで、
自分の個性を知ることができたみたいだ。
 
 」
 
 
段落分けする必要を殆ど感じませんし、詩文を書いているわけでもないようです。
こう書けば、ぎゅうぎゅう詰めでないからという安心でしょうか。
 

とあるブログで、
心に思ったことを
つらつら、つらつらと
すごく長く書いているのを読んで、
自分も真似して、
こんな風に書いてみようかな、
でもただ真似するのは面白くないから、
自分は改行はなるだけしないで、
ぎゅうぎゅう詰めにして長文を書いてやれ!
と思って書いてみたのだった。

 
信者とアンチの共通点と相違点 (20190502修正)
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41530818.html
のことのようですが、
なぜ、自分も真似して書いてみようとか思ったのでしょう。
さらに、ぎゅうぎゅう詰めにしてまで、だらだら長いだけの文章でした。
 
それは、読者のことを考えていない、
つまり、他者のことなど考えていないからです。
したがって、実感のこもった反省も謝罪も書かないのです。
 
今回の記事を書くような切実な必要があったとも思えません。
恐らく批判されたであろうことに対して、平気であり、
何も感じていないことを書きたかっただけなのでしょう。
 
本当に何も感じない人が書いた平板な文章のようです。
 
書き方を間違えたのなら、何らかの罪悪感や羞恥心があるはずですが、
それらを持ち合わせていないために、乾燥した言い訳に終始します。
まるで、他人事のように。
 

そんで、
その結果はどうなったかというと、
真似したブログとは
似ても似つかない文章になりました(笑)。

 
だから、笑いごと、冗談の書き方で、済ませられると思っているわけです。
真実を伝えようという意志など無かったということでしょう。
 

とあるブログでは、
プライベートな事でもなんでも、
かなり率直に語っていて、
飾らない人柄が文章に出てるけど、
さすがにこれは真似できないかった。

 
楽山には、率直さがないのが特徴です。
したがって、飾ったり、婉曲的な罠を仕掛けたりはあっても、
じっくり考えることがなく、しんみり悲しむということもないのです。
 
恐らく楽山は、深い気持ちを表出することを、
楽山は愚かなことと考えているのでしょう。
実際は、楽山の精神では、できなくなっているのです。
 
そうして、自分の中でだけ成り立つ言い訳をひねり出して
ここに書いています。
それ以上深いところまで、思考も心情も及ばないわけです。
 

他人の真似をすると
自分の個性を失うという話もあるけど、

 
それは自覚次第なのですが、容易ではありません。
他人に成りすますことを常套手段としているためでしょうか。
実に、抵抗もなく、気楽に書いています。
 

自分の場合は、
他人の真似をしたことで、
自分の個性を知ることができたみたいだ。

 
他人の真似をして自分の個性を知る
と言っています。
 
あくまで自分は自分として
他人の言動を受け止めることでしか成長はないのです。
 
「他人の真似をしたことで、自分の個性を知る」
 
安易な書き方です。
 
普通、これでいいだろうか、この書き方で伝わるだろうか、
他者の受け止め方を真面目に考えるものですが、
 
安易な見方しかできない人は
人間関係も安易に考えるのでしょう。
 
他人の真似って、
他人の気持ちや筆致や理路や文脈構成、
そんなに分かるものでしょうか。
 
自分の個性、これこそ、
知る、などと言う言葉で表して、
できた、などと言えることなのでしょうか。
 
一生の課題と言ってもいいようなことを、
楽山は、気に入らないことは無視してゆく信条のために、
極めて、気安く書いている、ということを見逃さないでください。
 
たまたま、ではなく、これが、楽山の本質であり、人生の考え方なのです。
 
実際は、
他人の真似をすることも難しく、
自分の個性を知ることは、さらに、難しいのです。
うっかり、知る、とか、できた、とか言えないことなのです。
 
それらは、洞察力を要するからです。
 
楽山は
真似をすることも安易にやってきて、
自分の個性についても反省がないので分かりもしないのに、
 
いつものように、まるで、気楽に、成りすますように、
いい加減な筆致で、いい加減な心性を露呈しています。
 
楽山、易坊、シャロームの、同一人成りすまし疑惑、
奇しくも、楽山自身が、強めているようです。
 
真剣に考えるべき問題を、ボンヤリ言語で、ごまかし、
理路においては、贔屓の片落ちの理路で、仲間ぼめをして、
破綻百出なのに、無反省無頓着に、
また、作戦を練り直したかのように書いてくることで、
その度に、本人の気づかない綻びが明らかになってくる経過です。
 
何事も、他人事のように書き、自身の問題として考えない
という、薄膜のような思慮と情性で、短絡した結論めいたことを書くけれど、
真剣味も説得力もなく、こう書けばいいだろうという安易な筆致によって、
シャロームとの類似性が、また、濃くなっています。
 
言い分けはしても、決して後悔をしない体質だから、
学習も成長もなく、自分の都合よさだけを中心とする個性となるために、
感情が薄く、思慮が浅くなるのは当然で、
 
気に入らないことは無視する、
 
という、アドラー教という軟派カルトの辿る末路なのです。
あるいは、そのようにしか生きられないから、
身勝手中心のアドラー教を作ったのかもしれません。
 
そのために、快と不快だけの、つまり、笑いと怨念だけの情性となり、
それを無視してゆく信条なら、感情も思慮も必然的に浅くなります。
 
そうして、無反省、無感動、冷酷、自己中心、
それをごまかすボンヤリ言語ということになります。
 
切実な情感と共感の欠如と、深い思慮と洞察の欠如、この二つが、
人のことを我が身のように深く感じることも考えることも出来なくなっている
という楽山の特徴であることに何ら変わりはありません。
 
決して近づいてはいけない人だと思います。
 
 
(2019年05月21日)
 
綻び(ほころび)
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「陰から光へ」

 
  陰から光へ
 
 
愛を知りたければ
愛のない世界の有り様を知ることだ。
 
憎しみ、恨み、嘲り、罵り、
そして言葉と肉体の暴力の世界
 
真善美を知りたいときも
同様である。
 
陰性を知ることで
その対極を想起することが必要だ。
 
陽性ばかりを見て
良かったと言っても
人間にとって
陽性の見聞きが与えるものは
弱く浅く薄くなりやすい。
 
それは恐らく
気持ちの良さを優先するからだろう。
 
 
キリストの
奇跡に彩られた愛を知っても
真似ができるわけではない。
 
いい話の
夢が叶う物語が
実話でもフィクションでも
真似をして叶うとは限らない。
 
 
真善美と愛を裏切る話は見苦しい
という気持ちと
いやだ、そうじゃない
という反対側を知りたいという気持ちを生じさせる。
 
カルトと偽善者を見ることは
彼らがなぜそう呼ばれるのかを知ることで
そうならないための道を暗示するだろう。
 
彼らに決して頷かない姿勢を学ぶなら
それだけで良き訪れといえよう。
 
真善美を描くときには
必ず悪役が登場する。
 
現実もそうである。
それも逆に福音であるのに
 
多く勘違いされて
美談ばかりを語ろうとするから
 
美談を罠として利用する者を見逃してしまう。
 
 
愛を知りたければ
感染しないための予防注射としても
愛のない世界を知ることだ。
 
そうすれば
美辞麗句で飾った話など
できなくなるだろう。
 
罪人である人間は
真善美という言葉によって
真善美らしい外套を身につけるが
それで真善美が伝わることはないからだ。
 
愛もまた同様である。
 
光だけを見ようとしても
陰のない光は地上にはないのだ。
 
陰を知って初めて
陰を変える光は光と自覚される。
 
 
(2019年05月20日)
 
頷く(うなずく)
彩る(いろどる)
 
 
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「不思議さがし?」

 
  不思議さがし?
 
 
キリストの十字架より二千年
 
今も奇跡が中心なのか。
 
驚くべき奇跡だ
ゆえに信じなさい
というのが信仰ならば
ベースとなる伝道の骨格が
カルトと同じだ。
 
キリスト信仰は
人間なら誰でも持っている心で
理解し共感できる信仰なのだから
不思議さがしからは
卒業していなくてはいけない。
 
不思議さがしではなく
現実の人間が共有できる信仰の世界であり
 
不思議さがしではないところに
キリストの負いやすいくびきはかけられる。
 
いくら不思議を探しても
奇跡をありがたがっても
そこにキリストはいないと思うのは
 
キリストから受けた最も大いなるものが
物や肉体の奇跡とは別のところで
人間の最も切ない心を揺さぶっているからだ。
 
 
 カルトや偽善者などの
 キリストを殺す群れにいる悪意の反キリスト者は、
 まるで定められているかのように
 
 教えを守って完全になれる、
 罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、
 悔い改めは神が与えるからしなくていい、
 偽善も罪だから赦される、
 奇跡を固く信じることが信仰、
 どんでん返しの奇跡で救われる、
 達しえたところがあるから聞かない、
 などと言って誘い
 
 罪を認めず嘲笑いながら
 今も魂の奇跡を超常で飾って
 一途に真実を滅ぼそうとしている
 
 その自己中心の自己顕示欲の正体を
 ときに隠し、ときに表し、
 あらゆる正直の実を枯らそうと
 丁寧語と聖書語で誘惑しては
 醜い裏の顔を垣間見せるだろう
 
 決して飽くことのない魔性のレギオンである
 
  (マルコによる福音書、口語訳)
 5:7
 大声で叫んで言った、「いと高き神の子イエスよ、
 あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。
 神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。
 5:8
 それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。
 5:9
 また彼に、「なんという名前か」と尋ねられると、
 「レギオンと言います。大ぜいなのですから」と答えた。
  (マルコ5:7−9、新約聖書)
 
 
どうして神が
カルトや偽善者の都合に合わせて
奇跡を起こしたり
教条で救いを決めたりするだろうか。
 
超常の奇跡や
神の全知全能・絶対完全・永遠不変、
これらにこだわるところに
キリストの愛は存在しない。
 
不思議の国の不老不死と超常を悦ぶ者は
現実離れしたところばかりを見て
現実に起こる魂の奇跡を見逃すだろう。
 
 
キリストの愛は
超常を表すのではない。
 
キリストの愛は
無常の現実の中に生きている。
 
主イエス・キリストは
一人一人の悲しみに寄り添うために
最も悲しい道を歩まれた。
 
それが十字架の秘跡である。
 
 
(2019年05月20日)
 
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「偏執狂」

 
  偏執狂
 
 
(私)
シャロームの転載記事です。恐らく私に当てつけているのでしょうが、ぴったり当てはまるのは、シャロームのほうなのです。そこに気づかず、正反対の気持ちで、引用していることが、逆に、シャロームの継続する異常性を示すことになるのです。
 
偏執狂とバランス病
2015年10月23日 / TAKA SAKAMOTO
本文記事引用元
https://takasakamoto.com/2015/10/23/%E5%81%8F%E5%9F%B7%E7%8B%82%E3%81%A8%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%97%85/コミュニケーションについて書きます。現在の日本社会において散見されるコミュニケーション態度について、僕の実感を元に下記の三段階にまとめてみました。
 
シャロームの転載記事です。
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28975355.html
 by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 

1.偏執狂タイプ
2.バランス病タイプ
3.責任ある個人

 
>以下、各カテゴリーについて順に解説します。
 
>1. 偏執狂タイプ
 

誰がどう見ても偏執的で妄信的なのに、その自覚が全くないタイプのコミュニケーション態度です。

 
(私)
どう考えても、罪を認めない、悔い改めないでは、キリスト信仰ではないのですが、シャロームは、それでも、預言者気取りで尊大な記事を書き続けています。
 

自分が信じている世界観・価値観を「絶対的正義」として掲げているため、世界観の異なる他者を許容することができず、攻撃さえします。

 
(私)
シャロームは、根拠がないことを指摘すると、神の啓示と聖霊の導きだから議論の対象にならないと言いました。それがシャロームの「絶対的正義」なのです。
(私)
神から導きを受けて、人間は考えるのです。そこで、受け取り方は人間にとっての問題になります。議論の対象になるのです。シャロームは、議論が出来ないし、弁明も出来ないから、また、他者の記事から、都合の良いところをもってきて、当てていますが、また勘違いもしているようです。
 

主義主張を異にする偏執狂同士で攻撃し合うケースが多いですが、これはおそらく同族嫌悪の類でしょう。このタイプとはコミュニケーションが成立しないので、僕は一切付き合いたくないし、関わることもないように気をつけています。

 
(私)
私も、シャロームとは、いっさい付き合いたくないのです。しかし、他の人が騙されることのないように警戒を呼びかける必要があるため、批判記事を書いています。
 

しかし後述する「責任ある個人」もまた、この偏執狂タイプにとって無関心ではいられない存在なので、僕もその生き方を目指す以上、偏執狂に絡まれるリスクは避けられないと考えています。嫌だけど仕方ないですね。

 
(私)
そういうことです。だから、注意を喚起する必要があるのです。
 
ついでにもうひとつ嫌なことを言うと、これも後述しますが、程度の差はあれ全ての人間は偏執狂的性格の種を抱えているというのが僕の人間観です。態度として表出までしていなくても、人って常に何かしらの妄念や排他的な思い込みに囚われてたりするものです。嬉しい事実ではないですが、自己理解も他者理解もそこから出発するしかないと思っています。
  
(私)
偏執的に、こだわるということは誰でもあるでしょう。しかし、シャロームは、一時的ではなく、私が見てきただけでも8年、恐らく実際は何十年も、訂正不能に執着していると思われます。さらに、彼の「(笑)」には悪意も感じますから、根っからの体質的なもので、自分に逆らう者に対して、弁明が出来ないものだから、反省もせず、悪意をもって、ただ排除することしか考えられないのでしょう。
 
>2. バランス病タイプ
 

これは僕が知る限り、日本で育った日本語話者の日本人に突出して多く見られるカテゴリーです。意見や主張を行う際に「偏執的に見えない」ために異常に気を遣う強迫観念的な振る舞いに取り憑かれたタイプです。僕の実感では「偏執狂」カテゴリーを抜けた日本人の大半がこのカテゴリーに留まっています。なので、僕の目には強迫観念的に見えますが、日本ではむしろ「普通」と思われていることの方が多いかもしれません。

 
(私)
シャロームは、自身は社交の世辞を言うことで、やさしい人格のつもりでいるのです。しかし、実体は、自身の妄想的確信について、無根拠な自己中心の救われ妄想なのに、反省も訂正もする必要を感じず、批判者を、カルト呼ばわり、依存者呼ばわり、サイコパス呼ばわりしてきました。
(私)
そして、今回は、偏執狂呼ばわりを加えています。これで、ますます批判の動機が増し加わることを考えないのです。
(私)
シャロームは、いつも、その場その時の、憂さ晴らしをしてくるだけで、何の反論にも弁明にもならないわけです。つまり、シャロームは、理路が成り立たない人なので、反論も弁明も議論も出来ないのです。にもかかわらず、自己主張だけは、自尊の勢いだけで、豪語してきたのです。卑怯でしかない。
 

具体的に言うと、このタイプは何につけ「言い切る」ということをしません。相手の反応を伺いながら話し、語尾を和らげて更に相手の反応を伺い、そこで同意を得ると一気に勢いづいて断定に踏み切ります。あるいは相手のネガティブな反応を確認すると、あっさりと自分の意見を妥協したり引っ込めて「調和」に駆け込みます。

 
(私)
シャロームの、世辞の挨拶など真実の追求に社交を用いる姿勢、信仰は人それぞれ、だから人の言うことを受け取らない姿勢、などが、それに当たります。しかし、信仰の真実を求めるうえで、社交、世辞、などは意味がなく、また、あまりに外れた信条を、そのままにすることは、他者への影響を考えれば、してはいけないことです。
 

それだけでなく「自分の主張とは別の考え方もあることを自分はちゃんと認識しており、それはそれで敬意を持って受け入れている」ことのアピールにも余念がありません。じゃないと「偏っている」と思われるからです。偏っていること以上に、偏っていると思われることが問題なのです。

 
(私)
それが、シャロームの、信仰は人それぞれ、ほっといてくれ、という考え方です。この考え方は、逆に思考停止を招いて、他者にも思考停止を強いることになります。自分は気を遣っているのに・・で正当化されてはたまりません。キリストはただ御一方です。著しく違ってはならず、違いを正すには話し合うしかありません。それを、全然してこなかったのが、シャロームであります。
 

要は「仲間外れ」になりたくないのです。また、偏執狂タイプが名実ともに「絶対主義者」であることと比べると、このタイプは逆に徹底した相対主義者に見えます。しかしそれは見かけの話で、実際には「相対主義者の皮を被った、抑圧された個人」であることが多いです。

 
(私)
この望ましくないあり方・考え方は、自他未文化や日本教に通じるところです。協調性のつもりが、差異を受け容れてなどいない人なのです。シャロームが典型ということになるでしょう。
 

よって実際には多様性や他者との差異を受け入れるだけの器を備えていないため、「尖った意見」を口にする「責任ある個人」を前にすると激しく動揺します。

 
(私)
このように、シャロームが、分別なく、自分が斬られているにもかかわらず、お構いなしに、当てつけ記事をぶつけてくることに表れているのです。
 

その動揺が「尊敬」や「憧れ」に転じて前向きに作用した場合、その人のコミュニケーションは「責任ある個人」型への変化に向かいます。一方、動揺が「不安」や「嫉妬」に転じて後ろ向きに作用した場合、自分を変化させるのでなく相手をバランス病ウイルスに感染させて抑圧の中に引き込もうとします。

 
(私)
バランスのために、自分の意見を引っ込める習慣のことでしょうか。シャロームは、バランスという言葉が好きなようで、以前、よく書いていました。シャロームのバランスは、文句を言わないことであり、批判をしないことであり、何も進歩のないことを意味しているのです。
(私)
シャロームは、何かを追求しようという意志はなく、ただ、自分が言い得たと自己満足することだけが目的だと思います。
 

残念ながら日本の社会環境で育った人間の殆どはバランス病に感染します。本当に嫌なんですが、僕も患者の一人です。何らかの意味で「日本」という環境から離れるとウイルスが働かなくなって快方(解放)に向かいますが、「日本」に身を置くとウイルスが餌を得て増殖し、再び感染度が高まります。このウイルスが最初に奪うのは「表現の自由」ですが、やがて感染者の生命力そのものを蝕んでいくので、非常に危険です。

 
(私)
ということで、シャロームの、主張のあり方は、バランス病ウイルスが支えてきたのだろうという推測が成立します。もちろん、ウイルスは比喩ですが、シャロームの感染と伝染性は、笑えない問題となるでしょう。しかも、命と人生に関わることだから、今の段階で、批判することの必要性を新たにしています。
 

僕がこのブログを遠い地球の反対側の内陸国で作って最初の幾つかの記事を書いたのは、自分が帰国後に再感染することを見越して抗体を打っておくためでした。その後帰国して案の定ウイルスが活発化しているので、頑張って対抗しているところです。

 
>3. 責任ある個人
 

このカテゴリーこそ、円滑で生産的で、何より自由なコミュニケーションのために人が目指すべきところです。このタイプの人の特徴を一言で言えば「議論ができる」ということです。つまり多様性や意見の相違などは自明の前提で、その上で自らの責任で意見を明確に表明します。それに対する反応はあくまで次の段階で起こることだとして、「まず顔色を伺う」「まず空気を読む」ということはしません。まず自らの立ち位置を表明し、その上で反応を待ったり、あるいは待たずに行動を開始します。

 
(私)
シャロームは、本を読めない人で、今までも、自分が斬られていることに気づかずに、賛同して、読んだつもりになっていました。日本教についてもそうでした。推測ですが、なぜ、上の文章を転載したのでしょう。シャロームは、ひょっとして、上の文章を悪い例と受け取って私に当てつけたつもりでいるのではないかと思います。読書と言い、この転載と言い、自分で墓穴を掘っているシャロームです。
 

反応に対しても自分の責任(responsibility)で対応します(対応しないという対応も含む)。また「議論ができる」というのは「応答」(response)ができるということでもあります。「応答」するためにはまず相手という他者の声を聴いて、理解できていなければいけません。つまり相手の話を落ち着いて聞けるということです。

 
(私)
私は、シャロームの意見を、今は、記事かコメントなので、落ち着いて読むように努めています。もちろん、キリスト信仰から、あまりに外れているわけだから、腹の立つこともありますが、感情はコントロールして批判記事を書いています。十分ではないかもしれませんが、罵詈雑言を言います、という前置きも、その一つです。
(私)
それでも、最近では・・馬鹿じゃないの・・と書いたこともあり、しばしば、きつい比喩を使ったり、感情的文言を入れたりするのは、シャロームには、殆ど理路は通じないからです。私は、理路を扱うのは苦手ですが、努力することは、ある程度、できます。シャロームは、読んで理路を理解したり、書くときに理路を組み立てたりが、全くできない人だと思います。
(私)
私のガス抜きという意味もあります。ある時期から、批判はシャロームを変えることではなく、うっかりシャロームに騙されることのないように、読む人一般に、危険があることを知らせるためという目的になっています。
 

「落ち着いて」というのがポイントで、聞いている途中で相手の話の「偏り」が気になって口を挟んで「フォローを入れる」とか「バランスを取りに行く」みたいなことをしません。落ち着いて話を聴いて落ち着いて考えられるので、相手の意見と自分の意見を冷静に比較して取捨選択します。変えるべきところを変え、貫くべきところ貫くということにおいても、自分の責任で判断して実行します。もちろんそれが「正解」になるとは限りませんが、「失敗」のリスクと責任も自分のものとして捉えているので、構いません。そもそも「正解」なんてないからこそ自分の責任と判断で決定し、行動するのです。

 
(私)
これは、私が努めていることであります。そして、一方、
シャロームが全くできていないことで、する気もないことです。
 

以上三段階です。これは必ずしもどれか一つののタイプに100%収まるという種類のものではありません。例えば偏執狂タイプについて言えば、既に触れたように「人間は程度の差はあれ誰もが偏執狂的性格を抱えている」というのが僕の基本的な人間観です。「どれくらい偏執的か」というよりは、「己の偏執的側面をどれくらい客観的に認識しているか」によってコミュニケーション態度の個人差が生まれます。また、同じ人でも状況や相手によってタイプの変化が起きます。なので、「自分はどのタイプか」と単純に考えるのでなく、例えば全体を100あるいは10とした場合に、この3つがそれぞれどの程度の割合を占めているか、という発想で考えた上で、「責任ある個人」が圧倒的優位な状態に近づけていくようにしています。

 
(私)
シャロームは、言論の責任を一切取ったことがありません。言い放って終わりという人で、それが通るならお気楽ですが、その異常な態度は、重要なテーマほど、存在してはいけないものなのです。
 

また自らは「責任ある個人」として意見を発信する準備ができていたとしても、相手がバランス病優位タイプの場合、それを踏まえた表現を選ばないとコミュニケーションが立ち行かなくなることが多々あります。これはカウンセリングの場において特に気をつけていることです。但し要注意なのは、バランス病に合わせたコミュニケーションを行うと、そこを突破口にしてウイルスが自分の側に感染してくるリスクが非常に高いことです。

 
(私)
シャロームに都合の悪い内容ばかりの記事でした。恐らく、シャロームは、無条件に無根拠に、自身を責任ある個人と位置付けて、この記事を転載したのではないかと思います。だとすれば、ここにも、シャロームの、とんでもなく妄想的な自意識があるということになります。
 

補足しだすとキリがないので今回はここまでにします。「責任ある個人」として自由に表現し、一度きりの人生をしっかり命燃やして生きたいものです。

 
(私)
シャロームは、本を読んでも理解していない、理路がない、共感性がない、悲しむ心情を持たない、罪悪感も羞恥心もない、ということが今までに明らかになっており、彼の信条?は、キリスト教ともキリスト信仰とも、全く逆であり、他罰的な自己中心の権威主義者であり、その根拠は神ということになっている、という、とんでもない人です。言論の責任など負う気はなく、全く「責任ある個人」としては失格であります。
(私)
シャロームを自立した個人などと思ってはいけません。
間違ってもシャロームの影響だけは受けないでください。
人生と人格を破壊される危険が大です。
 
 
(2019年05月19日、同日一部修正)
(2019年05月20日、一部修正)
 
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