「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

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詩と宗教・信仰

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「陰から光へ」

 
  陰から光へ
 
 
愛を知りたければ
愛のない世界の有り様を知ることだ。
 
憎しみ、恨み、嘲り、罵り、
そして言葉と肉体の暴力の世界
 
真善美を知りたいときも
同様である。
 
陰性を知ることで
その対極を想起することが必要だ。
 
陽性ばかりを見て
良かったと言っても
人間にとって
陽性の見聞きが与えるものは
弱く浅く薄くなりやすい。
 
それは恐らく
気持ちの良さを優先するからだろう。
 
 
キリストの
奇跡に彩られた愛を知っても
真似ができるわけではない。
 
いい話の
夢が叶う物語が
実話でもフィクションでも
真似をして叶うとは限らない。
 
 
真善美と愛を裏切る話は見苦しい
という気持ちと
いやだ、そうじゃない
という反対側を知りたいという気持ちを生じさせる。
 
カルトと偽善者を見ることは
彼らがなぜそう呼ばれるのかを知ることで
そうならないための道を暗示するだろう。
 
彼らに決して頷かない姿勢を学ぶなら
それだけで良き訪れといえよう。
 
真善美を描くときには
必ず悪役が登場する。
 
現実もそうである。
それも逆に福音であるのに
 
多く勘違いされて
美談ばかりを語ろうとするから
 
美談を罠として利用する者を見逃してしまう。
 
 
愛を知りたければ
感染しないための予防注射としても
愛のない世界を知ることだ。
 
そうすれば
美辞麗句で飾った話など
できなくなるだろう。
 
罪人である人間は
真善美という言葉によって
真善美らしい外套を身につけるが
それで真善美が伝わることはないからだ。
 
愛もまた同様である。
 
光だけを見ようとしても
陰のない光は地上にはないのだ。
 
陰を知って初めて
陰を変える光は光と自覚される。
 
 
(2019年05月20日)
 
頷く(うなずく)
彩る(いろどる)
 
 
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「不思議さがし?」

 
  不思議さがし?
 
 
キリストの十字架より二千年
 
今も奇跡が中心なのか。
 
驚くべき奇跡だ
ゆえに信じなさい
というのが信仰ならば
ベースとなる伝道の骨格が
カルトと同じだ。
 
キリスト信仰は
人間なら誰でも持っている心で
理解し共感できる信仰なのだから
不思議さがしからは
卒業していなくてはいけない。
 
不思議さがしではなく
現実の人間が共有できる信仰の世界であり
 
不思議さがしではないところに
キリストの負いやすいくびきはかけられる。
 
いくら不思議を探しても
奇跡をありがたがっても
そこにキリストはいないと思うのは
 
キリストから受けた最も大いなるものが
物や肉体の奇跡とは別のところで
人間の最も切ない心を揺さぶっているからだ。
 
 
 カルトや偽善者などの
 キリストを殺す群れにいる悪意の反キリスト者は、
 まるで定められているかのように
 
 教えを守って完全になれる、
 罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、
 悔い改めは神が与えるからしなくていい、
 偽善も罪だから赦される、
 奇跡を固く信じることが信仰、
 どんでん返しの奇跡で救われる、
 達しえたところがあるから聞かない、
 などと言って誘い
 
 罪を認めず嘲笑いながら
 今も魂の奇跡を超常で飾って
 一途に真実を滅ぼそうとしている
 
 その自己中心の自己顕示欲の正体を
 ときに隠し、ときに表し、
 あらゆる正直の実を枯らそうと
 丁寧語と聖書語で誘惑しては
 醜い裏の顔を垣間見せるだろう
 
 決して飽くことのない魔性のレギオンである
 
  (マルコによる福音書、口語訳)
 5:7
 大声で叫んで言った、「いと高き神の子イエスよ、
 あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。
 神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。
 5:8
 それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。
 5:9
 また彼に、「なんという名前か」と尋ねられると、
 「レギオンと言います。大ぜいなのですから」と答えた。
  (マルコ5:7−9、新約聖書)
 
 
どうして神が
カルトや偽善者の都合に合わせて
奇跡を起こしたり
教条で救いを決めたりするだろうか。
 
超常の奇跡や
神の全知全能・絶対完全・永遠不変、
これらにこだわるところに
キリストの愛は存在しない。
 
不思議の国の不老不死と超常を悦ぶ者は
現実離れしたところばかりを見て
現実に起こる魂の奇跡を見逃すだろう。
 
 
キリストの愛は
超常を表すのではない。
 
キリストの愛は
無常の現実の中に生きている。
 
主イエス・キリストは
一人一人の悲しみに寄り添うために
最も悲しい道を歩まれた。
 
それが十字架の秘跡である。
 
 
(2019年05月20日)
 
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「偏執狂」

 
  偏執狂
 
 
(私)
シャロームの転載記事です。恐らく私に当てつけているのでしょうが、ぴったり当てはまるのは、シャロームのほうなのです。そこに気づかず、正反対の気持ちで、引用していることが、逆に、シャロームの継続する異常性を示すことになるのです。
 
偏執狂とバランス病
2015年10月23日 / TAKA SAKAMOTO
本文記事引用元
https://takasakamoto.com/2015/10/23/%E5%81%8F%E5%9F%B7%E7%8B%82%E3%81%A8%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%97%85/コミュニケーションについて書きます。現在の日本社会において散見されるコミュニケーション態度について、僕の実感を元に下記の三段階にまとめてみました。
 
シャロームの転載記事です。
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28975355.html
 by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 

1.偏執狂タイプ
2.バランス病タイプ
3.責任ある個人

 
>以下、各カテゴリーについて順に解説します。
 
>1. 偏執狂タイプ
 

誰がどう見ても偏執的で妄信的なのに、その自覚が全くないタイプのコミュニケーション態度です。

 
(私)
どう考えても、罪を認めない、悔い改めないでは、キリスト信仰ではないのですが、シャロームは、それでも、預言者気取りで尊大な記事を書き続けています。
 

自分が信じている世界観・価値観を「絶対的正義」として掲げているため、世界観の異なる他者を許容することができず、攻撃さえします。

 
(私)
シャロームは、根拠がないことを指摘すると、神の啓示と聖霊の導きだから議論の対象にならないと言いました。それがシャロームの「絶対的正義」なのです。
(私)
神から導きを受けて、人間は考えるのです。そこで、受け取り方は人間にとっての問題になります。議論の対象になるのです。シャロームは、議論が出来ないし、弁明も出来ないから、また、他者の記事から、都合の良いところをもってきて、当てていますが、また勘違いもしているようです。
 

主義主張を異にする偏執狂同士で攻撃し合うケースが多いですが、これはおそらく同族嫌悪の類でしょう。このタイプとはコミュニケーションが成立しないので、僕は一切付き合いたくないし、関わることもないように気をつけています。

 
(私)
私も、シャロームとは、いっさい付き合いたくないのです。しかし、他の人が騙されることのないように警戒を呼びかける必要があるため、批判記事を書いています。
 

しかし後述する「責任ある個人」もまた、この偏執狂タイプにとって無関心ではいられない存在なので、僕もその生き方を目指す以上、偏執狂に絡まれるリスクは避けられないと考えています。嫌だけど仕方ないですね。

 
(私)
そういうことです。だから、注意を喚起する必要があるのです。
 
ついでにもうひとつ嫌なことを言うと、これも後述しますが、程度の差はあれ全ての人間は偏執狂的性格の種を抱えているというのが僕の人間観です。態度として表出までしていなくても、人って常に何かしらの妄念や排他的な思い込みに囚われてたりするものです。嬉しい事実ではないですが、自己理解も他者理解もそこから出発するしかないと思っています。
  
(私)
偏執的に、こだわるということは誰でもあるでしょう。しかし、シャロームは、一時的ではなく、私が見てきただけでも8年、恐らく実際は何十年も、訂正不能に執着していると思われます。さらに、彼の「(笑)」には悪意も感じますから、根っからの体質的なもので、自分に逆らう者に対して、弁明が出来ないものだから、反省もせず、悪意をもって、ただ排除することしか考えられないのでしょう。
 
>2. バランス病タイプ
 

これは僕が知る限り、日本で育った日本語話者の日本人に突出して多く見られるカテゴリーです。意見や主張を行う際に「偏執的に見えない」ために異常に気を遣う強迫観念的な振る舞いに取り憑かれたタイプです。僕の実感では「偏執狂」カテゴリーを抜けた日本人の大半がこのカテゴリーに留まっています。なので、僕の目には強迫観念的に見えますが、日本ではむしろ「普通」と思われていることの方が多いかもしれません。

 
(私)
シャロームは、自身は社交の世辞を言うことで、やさしい人格のつもりでいるのです。しかし、実体は、自身の妄想的確信について、無根拠な自己中心の救われ妄想なのに、反省も訂正もする必要を感じず、批判者を、カルト呼ばわり、依存者呼ばわり、サイコパス呼ばわりしてきました。
(私)
そして、今回は、偏執狂呼ばわりを加えています。これで、ますます批判の動機が増し加わることを考えないのです。
(私)
シャロームは、いつも、その場その時の、憂さ晴らしをしてくるだけで、何の反論にも弁明にもならないわけです。つまり、シャロームは、理路が成り立たない人なので、反論も弁明も議論も出来ないのです。にもかかわらず、自己主張だけは、自尊の勢いだけで、豪語してきたのです。卑怯でしかない。
 

具体的に言うと、このタイプは何につけ「言い切る」ということをしません。相手の反応を伺いながら話し、語尾を和らげて更に相手の反応を伺い、そこで同意を得ると一気に勢いづいて断定に踏み切ります。あるいは相手のネガティブな反応を確認すると、あっさりと自分の意見を妥協したり引っ込めて「調和」に駆け込みます。

 
(私)
シャロームの、世辞の挨拶など真実の追求に社交を用いる姿勢、信仰は人それぞれ、だから人の言うことを受け取らない姿勢、などが、それに当たります。しかし、信仰の真実を求めるうえで、社交、世辞、などは意味がなく、また、あまりに外れた信条を、そのままにすることは、他者への影響を考えれば、してはいけないことです。
 

それだけでなく「自分の主張とは別の考え方もあることを自分はちゃんと認識しており、それはそれで敬意を持って受け入れている」ことのアピールにも余念がありません。じゃないと「偏っている」と思われるからです。偏っていること以上に、偏っていると思われることが問題なのです。

 
(私)
それが、シャロームの、信仰は人それぞれ、ほっといてくれ、という考え方です。この考え方は、逆に思考停止を招いて、他者にも思考停止を強いることになります。自分は気を遣っているのに・・で正当化されてはたまりません。キリストはただ御一方です。著しく違ってはならず、違いを正すには話し合うしかありません。それを、全然してこなかったのが、シャロームであります。
 

要は「仲間外れ」になりたくないのです。また、偏執狂タイプが名実ともに「絶対主義者」であることと比べると、このタイプは逆に徹底した相対主義者に見えます。しかしそれは見かけの話で、実際には「相対主義者の皮を被った、抑圧された個人」であることが多いです。

 
(私)
この望ましくないあり方・考え方は、自他未文化や日本教に通じるところです。協調性のつもりが、差異を受け容れてなどいない人なのです。シャロームが典型ということになるでしょう。
 

よって実際には多様性や他者との差異を受け入れるだけの器を備えていないため、「尖った意見」を口にする「責任ある個人」を前にすると激しく動揺します。

 
(私)
このように、シャロームが、分別なく、自分が斬られているにもかかわらず、お構いなしに、当てつけ記事をぶつけてくることに表れているのです。
 

その動揺が「尊敬」や「憧れ」に転じて前向きに作用した場合、その人のコミュニケーションは「責任ある個人」型への変化に向かいます。一方、動揺が「不安」や「嫉妬」に転じて後ろ向きに作用した場合、自分を変化させるのでなく相手をバランス病ウイルスに感染させて抑圧の中に引き込もうとします。

 
(私)
バランスのために、自分の意見を引っ込める習慣のことでしょうか。シャロームは、バランスという言葉が好きなようで、以前、よく書いていました。シャロームのバランスは、文句を言わないことであり、批判をしないことであり、何も進歩のないことを意味しているのです。
(私)
シャロームは、何かを追求しようという意志はなく、ただ、自分が言い得たと自己満足することだけが目的だと思います。
 

残念ながら日本の社会環境で育った人間の殆どはバランス病に感染します。本当に嫌なんですが、僕も患者の一人です。何らかの意味で「日本」という環境から離れるとウイルスが働かなくなって快方(解放)に向かいますが、「日本」に身を置くとウイルスが餌を得て増殖し、再び感染度が高まります。このウイルスが最初に奪うのは「表現の自由」ですが、やがて感染者の生命力そのものを蝕んでいくので、非常に危険です。

 
(私)
ということで、シャロームの、主張のあり方は、バランス病ウイルスが支えてきたのだろうという推測が成立します。もちろん、ウイルスは比喩ですが、シャロームの感染と伝染性は、笑えない問題となるでしょう。しかも、命と人生に関わることだから、今の段階で、批判することの必要性を新たにしています。
 

僕がこのブログを遠い地球の反対側の内陸国で作って最初の幾つかの記事を書いたのは、自分が帰国後に再感染することを見越して抗体を打っておくためでした。その後帰国して案の定ウイルスが活発化しているので、頑張って対抗しているところです。

 
>3. 責任ある個人
 

このカテゴリーこそ、円滑で生産的で、何より自由なコミュニケーションのために人が目指すべきところです。このタイプの人の特徴を一言で言えば「議論ができる」ということです。つまり多様性や意見の相違などは自明の前提で、その上で自らの責任で意見を明確に表明します。それに対する反応はあくまで次の段階で起こることだとして、「まず顔色を伺う」「まず空気を読む」ということはしません。まず自らの立ち位置を表明し、その上で反応を待ったり、あるいは待たずに行動を開始します。

 
(私)
シャロームは、本を読めない人で、今までも、自分が斬られていることに気づかずに、賛同して、読んだつもりになっていました。日本教についてもそうでした。推測ですが、なぜ、上の文章を転載したのでしょう。シャロームは、ひょっとして、上の文章を悪い例と受け取って私に当てつけたつもりでいるのではないかと思います。読書と言い、この転載と言い、自分で墓穴を掘っているシャロームです。
 

反応に対しても自分の責任(responsibility)で対応します(対応しないという対応も含む)。また「議論ができる」というのは「応答」(response)ができるということでもあります。「応答」するためにはまず相手という他者の声を聴いて、理解できていなければいけません。つまり相手の話を落ち着いて聞けるということです。

 
(私)
私は、シャロームの意見を、今は、記事かコメントなので、落ち着いて読むように努めています。もちろん、キリスト信仰から、あまりに外れているわけだから、腹の立つこともありますが、感情はコントロールして批判記事を書いています。十分ではないかもしれませんが、罵詈雑言を言います、という前置きも、その一つです。
(私)
それでも、最近では・・馬鹿じゃないの・・と書いたこともあり、しばしば、きつい比喩を使ったり、感情的文言を入れたりするのは、シャロームには、殆ど理路は通じないからです。私は、理路を扱うのは苦手ですが、努力することは、ある程度、できます。シャロームは、読んで理路を理解したり、書くときに理路を組み立てたりが、全くできない人だと思います。
(私)
私のガス抜きという意味もあります。ある時期から、批判はシャロームを変えることではなく、うっかりシャロームに騙されることのないように、読む人一般に、危険があることを知らせるためという目的になっています。
 

「落ち着いて」というのがポイントで、聞いている途中で相手の話の「偏り」が気になって口を挟んで「フォローを入れる」とか「バランスを取りに行く」みたいなことをしません。落ち着いて話を聴いて落ち着いて考えられるので、相手の意見と自分の意見を冷静に比較して取捨選択します。変えるべきところを変え、貫くべきところ貫くということにおいても、自分の責任で判断して実行します。もちろんそれが「正解」になるとは限りませんが、「失敗」のリスクと責任も自分のものとして捉えているので、構いません。そもそも「正解」なんてないからこそ自分の責任と判断で決定し、行動するのです。

 
(私)
これは、私が努めていることであります。そして、一方、
シャロームが全くできていないことで、する気もないことです。
 

以上三段階です。これは必ずしもどれか一つののタイプに100%収まるという種類のものではありません。例えば偏執狂タイプについて言えば、既に触れたように「人間は程度の差はあれ誰もが偏執狂的性格を抱えている」というのが僕の基本的な人間観です。「どれくらい偏執的か」というよりは、「己の偏執的側面をどれくらい客観的に認識しているか」によってコミュニケーション態度の個人差が生まれます。また、同じ人でも状況や相手によってタイプの変化が起きます。なので、「自分はどのタイプか」と単純に考えるのでなく、例えば全体を100あるいは10とした場合に、この3つがそれぞれどの程度の割合を占めているか、という発想で考えた上で、「責任ある個人」が圧倒的優位な状態に近づけていくようにしています。

 
(私)
シャロームは、言論の責任を一切取ったことがありません。言い放って終わりという人で、それが通るならお気楽ですが、その異常な態度は、重要なテーマほど、存在してはいけないものなのです。
 

また自らは「責任ある個人」として意見を発信する準備ができていたとしても、相手がバランス病優位タイプの場合、それを踏まえた表現を選ばないとコミュニケーションが立ち行かなくなることが多々あります。これはカウンセリングの場において特に気をつけていることです。但し要注意なのは、バランス病に合わせたコミュニケーションを行うと、そこを突破口にしてウイルスが自分の側に感染してくるリスクが非常に高いことです。

 
(私)
シャロームに都合の悪い内容ばかりの記事でした。恐らく、シャロームは、無条件に無根拠に、自身を責任ある個人と位置付けて、この記事を転載したのではないかと思います。だとすれば、ここにも、シャロームの、とんでもなく妄想的な自意識があるということになります。
 

補足しだすとキリがないので今回はここまでにします。「責任ある個人」として自由に表現し、一度きりの人生をしっかり命燃やして生きたいものです。

 
(私)
シャロームは、本を読んでも理解していない、理路がない、共感性がない、悲しむ心情を持たない、罪悪感も羞恥心もない、ということが今までに明らかになっており、彼の信条?は、キリスト教ともキリスト信仰とも、全く逆であり、他罰的な自己中心の権威主義者であり、その根拠は神ということになっている、という、とんでもない人です。言論の責任など負う気はなく、全く「責任ある個人」としては失格であります。
(私)
シャロームを自立した個人などと思ってはいけません。
間違ってもシャロームの影響だけは受けないでください。
人生と人格を破壊される危険が大です。
 
 
(2019年05月19日、同日一部修正)
(2019年05月20日、一部修正)
 
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「忍ばせる者」

 
  忍ばせる者
 
   批判対象:楽山ブログ
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013
   楽山のブログ
 
 
(私)
相変わらずのボンヤリ曖昧言語で、ほのめかすようにすり込んできます。
カルトや荒らしや偽善者やサディストというのは、
詭弁として、誰もが当たり前に肯定することに、さりげなく結びつける
という細工をしてきます。4つの記事について批判します。

 
 先に進むことができる人
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013
 

某カルトを見ていると、
教団の外の人(一般人や批判者)と交流し、
 対話を重ねることができる信者は、
やがては退会して次のステージに進み、
教団の外の人は敬遠して、
 仲間内でかたまりたがる信者は、
そのまま教団にとどまり続けることが多いようだ。

 
(私)
外に出る人は退会し、
仲間と付き合う人はとどまり続ける
と言っています。
 

必ずそうなる
 というわけではないだろうが、
 少なくとも自分の見聞の範囲では、
そういう傾向はあるようだ。
人とのつながりは、やっぱり大事だなと思う。

 
(私)
人とのつながりは大事、という誰もが肯定しそうなことにつなげています。
怖いことです。カルトにとどまり、カルトの仲間と付き合うことを暗示しているのです。
 
 
 夢と希望
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41541315.html
 

あんまり
空想ばかりなのは
困りものだけど、
あんまり
現実的過ぎるのも
つまらない。

 
(私)
極端な例を挙げて、それはいけないが・・と、安全アピールしたうえで、
空想の世界に生きることを暗示します。こういう刷り込みのようです。
 

それだと、
夢や希望を持てず、
元気が出なくなりがちなので。

 
(私)
空想しないと、元気や夢が持てず、元気がなくなると言っていますが、
楽山の言う空想は、非現実からカルトへの道だということを忘れるべきではない。
 

世の中には、
そうならない人もいるかもしれないけど、
自分の場合はそういう感じかな。

 
(私)
「過ぎるのもつまらない」「夢や希望」「元気」「感じかな」
前から言っているボンヤリ言語の特徴です。
楽山は、そういう感じではなく、気に入らないことは無視する、
という自己中心のアドラー教を、宣伝し、伝染させる人です。
 

心が干からびてしまわないように、
夢と希望は大切にしたい。

 
怖い誘導です。「夢と希望」という言葉で肯定を促しながら、実際は、
空想の世界からカルトへの道を否定すると、心が干からびるという話になっています。
 
 
 当たり前のこと
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41541324.html
 

最近は、
人を批判するのは避けたい
という気持ちが強まっているけれども、

 
(私)
批判が全くの詭弁であったことを、批判するのは避けたいと言って、
しっかり整っている自分をアピールし、正当化したいようです。
 

自分には、どうも、
これはなかなかに難しい。

 
(私)
楽山の難しさは、悪口を婉曲的に言うのを止めないことでしょう。
彼の書く文章を読むと、気持ち悪く、どこか痒くなります。
むしろ、だましなれた年長者の臭いがします。
 

批判は止めようと思いつつも、
ついつい
批判的なことを言ってしまうのだから情けない。

 
(私)
楽山は、事実の一部の都合の良いところだけを取って、全体の結論とし、そこから、当てつけの悪口を言いますが、一度も、批判も議論も、成り立ったことがありません。シャロームに似ています。
 

ただそれでも、
相手の身になって考えるというのは、
むやみな批判を抑制する効果はあるように思える。

 
(私)
楽山は、相手の身になって考えることは、私の知る限りありませんし、シャロームと同様、共感性には著しく欠けているようだから、できないと思います。最初から、敵味方を分けていたようです。シャロームは味方、私は敵、という前提でしか説明できないことをしてきました。だから、詭弁が露骨になるのです。
 

相手の立場であれば
そういうことを言うのもしょうがないとか、
もし自分が相手と同じ立場にあったら、
同じことを言ったり、したりするだろうとか、
そういうことを考えていると、
人を批判し、裁こうとする気持ちはしずまるみたいだ。
こういうことは、
昔から言われていることだし、
誰もが知ることだろうけれど、
改めてその価値を知らされた気がする。

 
(私)
批判の代わりに、ボンヤリ言語によって、「みたいだ」「気がする」と、
当てつけ、ほのめかし、暗示、という陰湿な手段で、悪口を刷り込もうとしています。
 

やっぱり
当たり前のことって、大事なんだな。

 
(私)
このように、当たり前のことに、自己中心とボンヤリ言語のカルトを結び付けるのです。
本当に、気持ち悪く、怖い人です。
 
 
 もの忘れ
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41541336.html
 

最近はどうも
記憶力の低下を
実感させられることが増えてる。
人の名前を思い出しにくいとか、
お使いを頼まれても、
メモがないと買い忘れするとか…。

 
記憶の低下から何を言いたいかと思えば、
 

記憶には、
さっさと忘れた方がいいこともあれば、
きちんと覚えておくべきこともあるだろうし、

 
忘れたほうがいいこと:
今までの記事とコメントから、気に入らないことでしょう。それが楽山のアドラー教です。
覚えておくべきこと:
今までの記事とコメントから、アドラー教の自己中心の勧めでしょう。そして今回は、ボンヤリ言語の詭弁の刷り込みに専念しているようです。
 

脳みそが自動的に両者を区別し、
忘れるべきことは忘れ、
覚えておくべきことは覚えておくような
つくりになっていたら、よかったのになあと思う。

 
「よかったのになあ」で、何を伝えたつもりでいるのでしょう。
 

そういえば、
三浦綾子の本で、
年取ったクリスチャンの話が書いてあったのだった。
書名は、例のごとく忘れてしまったけど、
そのおじいさんは、認知症で、
みんな忘れてしまいましたが、イエス様のことだけは決して忘れません
と言っていたという話。

 
こういう感じで、自分のために、人の話を利用するわけです。
本当にそう思っているかどうかは別です。
 

自分はクリスチャンではないし、
特定の宗教を信じているわけでもないが、
それでも、この話は心にしみたのだった。
こういうところは、信仰がある人はいいなと思う。

 
楽山は、もちろんキリスト者ではありません。そればかりか、楽山は、キリスト教も、宗教全般も、馬鹿にしていると思います。だから真面目に批判しても、意に介さず、何を言われても平気で、シャロームと同じですが、不感不応の境地から笑えるし、答えないでいて、弁明もしないで、書くだけは書き、言うだけは言う、ということが出来るのでしょう。
 
楽山、易坊、シャロームは、同一人の成りすまし疑惑があります。
 
今回のように、書けば書くほど、疑いが深まるばかりです。
 
ネットには、こういう人が、いっぱい、いると思ってほしいです。くれぐれも、だまされないように。
 
彼の書く文章を読むと、気持ち悪く、どこか痒くなります。
むしろ、だましなれた年長者の臭いがします。
だから、やさしげなボンヤリ言語が気持ち悪いのかもしれません。

 
 
(2019年05月19日、同日一部修正)
 
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「不可視の世界」

 
  不可視の世界
 
 
前の記事「人の復活」を修正しているときに
不可視、つまり目に見えない世界について感じたことを
ここに書いてみたいと思います。
 
視覚だけでなく五感で直接感じることの出来ないこと
善悪、真偽、是非、正否、などを
さらに、神、キリスト、その業(わざ)と御心を
私たちは、心の中で判断しています。
 
 動物にはできないことです。
 
これら不可視の世界の事柄は
ことごとく信仰に関係しているので重要です。
 
私たちは真の神を相手にすることが出来ない
ということを書きました。
 
つまり、神も聖霊も目に見えません。
キリストさえも目に見えません。
 
極言すれば
私たちは確かな事実を見てはいないのです。
 
私たちは受け取ったものから
感性と知性をもって
直感と思慮をもって
真実そのものではなく
確からしさを追い求めているのです。
 
ですから確実なことというのは
神の御手にはあるのでしょうが
私たちの手にはありません。
 
私たちが真実に生きるためには
方向や内容を含めて
確からしさを求める続ける必要があります。
ゆえに信仰は境地ではなく道なのです。
 
そのことを無視して
真理を得たと固定して訂正不能にすることは
まさに動物的行為なのです。
 
 人としての形を持って生まれながら
 固定することを信仰?としたばかりに
 見かけだけ穏やかな人間を装いながら
 言動が本能的な動物に成り下がった者もいます。
 
確かな、揺るがない、しっかりした信仰?、
これらは地上において信仰ではありません。
できないことを出来ているつもりだからです。
 
不確かで、揺さぶられ、しっかりしていない、
そういう自分を知っているのが信仰者です。
 
あるとき真実について私たちが到達するのは
ある程度の確からしさを持つと私たちが判断したところの
不可視で不可知の時と所に過ぎませんが、
そのことが大事なのは
その先に
より確からしいところへと向かうための学習過程であるからです。
 
不十分ながら今はそれでよい
さらに成長するのだから
という希望なのです。
 
 (ピリピ人への手紙、口語訳)
3:14
目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
3:15
だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。
3:16
ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。
 (ピリピ3:14−16、新約聖書)
 
目標を目指して、と書いてあるように、道は半ばだということです。
今そう言われていることは、これからも、達するべきところがあるということです。
二千年後の私たちも、道半ばだということです。
だから、神の賞与を得ようと、努めているということです。
 
全き人たち、というのは、信仰者として、人間として望ましいということです。
これ以上はない、という全きことは、神においてしか成就されていません。
 
さらに、達しえたといっても、人間の場合、
それは放っておくと腐敗してゆくということでもあります。
それが人間の罪の性質であります。
 
だから道を進み続けるべきことを教えているのだと思います。
 
 この聖句を、
 自らの訂正不能に固定した境地の正当化と絶対化に使う者がいます。
 達しえたのだと。神の恵みだと。
 しかし、その者は、さらに達しえたところを見せたことがない。
 今の自分を完全だと見なしているに過ぎないのです。
 
私たちは、真理に生きているのではありません。
真理を持っておられる神への信仰を希望として生きています。
 
不可視の世界は、不可知の世界であります。
知っておられるのは神様だけです。
 
カルトだけではなく、しばしば大きな勘違いがあります。
真理と真実は神のものという自覚が希望として与えられているのに
真理と真実に生きているつもりになることです。
 
さらに、全き神に自らをなぞらえてしまうことがあります。
そうなると、あるいは、自分には全き神がついているという自覚になると、
いつも上から豪語する信仰者〜預言者気取りになってしまいます。
 
地上を生きる人間として望ましいのは、
いつも神に従う自覚ではなく、
神のようでもなく、神に従ってもいない自覚があり、
ゆえに、神の導きを受け入れられる土の器として、
いつも成長しようと努め続ける人間です。
 
キリスト信仰は自力で悟りの境地を獲得する信仰ではありません。
だから、厳しい修業とは別の、シンプルな弁えを要求します。
 
また、キリスト信仰は、固定していいような悟りの境地を
神によって与えられ守られる信仰でもありません。
 
信仰が、不可視の自覚から神の不可知と自らの不完全の自覚に気づき、
教える立場ではなく学ぶ立場を持ち続けることが
敬虔という神の前の正直につながり、
温もりと潤いを受け取る器となります。
 
そのことだけが
神の恵みと導きを受け取るための信仰者たる条件だろうと思います。
 
 
(2019年05月19日)
 
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