台風21号

大風を
受ける木立の
(音)
 ねに畏れ
(根)

10月25日に日本列島を通過した台風21号。
各地に爪痕を残しましたが、その台風の通過後の朝、晴れてはいるものの強風のまだ残る中に近所の雑木林へ散策しに行ったところ、大風を受ける欅の、轟音とその木々の姿に、思わず畏敬の念に打たれて立ち尽くしてしまいました。
天地の躍動の真ん中に立たされた小さな自分を、守ってくれているような木の存在に、何か憧れのようなものも感じたのでした。

あの音のあの迫力を、録音で上手に表現できたらいいのになと、今は漠然と考えています。

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さえずりが
ヒナのせがみに
替わる夏

今年の初夏につくった句なのですが、最後の「夏」の言葉がなかなか見つからずにいました。
その季節の中にいると、それが当たり前なので、「替わる頃」とか「替わる候」などという言葉を当ててみたのですが、どうもしっくりこなかったのは、それがいったいどの季節なのかがわからなくなってしまうからなのでした。
夏が終わり、秋が感じられるようになってはじめて、「単純だけどわかりやすいかな」ということで「替わる夏」にしてみました。

主にはメジロの声を中心に聴いているのですが、こんな風に季節の移り変わりを感じた今年は、渋谷から練馬の石神井台というところに引っ越しをしました。

音の環境も、空気の感じも変わって、これから益々楽しくなりそうです。

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うたごころ、絵ごころ

「うたごころ」って何だろう?「絵ごころ」ってなんだろう?
そんな話題を相方としてみました。

相方曰く「うたごころがあると、上手に、美しく相手に届けることができる」
それもうなずけます。

ではそもそも、何を「うたごころ」「絵ごころ」というのでしょうか。

人は生まれた瞬間から(もしかすると、お腹の中にいるときからかも)何かを聴き、何かを見ています。
実はその時から、「うたごころ」「絵ごころ」は身についているものではないのかなと思うのです。

でも生まれつき「聴こえない人」「見えない人」に「もうたごころ」や「絵ごころ」はあるはずです。

そう考えると、この中で一番のキーワードは「ごころ」=「心」になるでしょう。

聴いて感じた「こころ」。見て感じた「こころ」。触って感じた「こころ」。嗅いで感じた「こころ」。噛んで感じた「こころ」。エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ。。
外からの刺激に対して、自分が何をどう感じたか、それを感じる「こころ」は私たちの生きる大きなエネルギーになるのだと思います。
そして、その「こころ」を大切に育てることが、「成長」という言葉につながるのだと思います。

では、「聴いて感じるこころ」を育てるとは、一体どういうことなのでしょうか。

ここで、一つ取り上げたいのは、「精度を上げる」ということです。
人の感覚は、生まれた時から、様々な現象により、様々な刺激を受けていきます。
一つの現象から光が放たれ、音が放たれ、香りが放たれ、そしてその現象を触ることもできるかもしれません。
その一つ一つの刺激の感覚を受けて、一つの現象を「知る」ことができます。

そうやって自分の外(外界)の現象を細かく感じていくことで、生きる術をも体得していくのです。

そして今度は、その「自分が感じた感覚」を誰かと共有するために、自分が現象を引き起こすようになります。
音を発するようになり、それが「言葉」に変化したり、様々に形を変えていくことでしょう。
感じたままに手を動かすと、地面に線が現れたりしてその軌跡がまた、絵画のようなものなど、様々に変化していくはずです。

そしてそれを聴いた人が、何を感じるでしょうか。見た人が何を感じるでしょうか。
そうやって人と人が、感覚をすり合わせて、精度をさらに上げていくと、楽しさや嬉しさがどんどん倍増していくようになるではありませんか。

その「楽しさや嬉しさ」をイメージできることが、相方の言うところの「うたごころ」「絵ごころ」っていう言葉なのかもしれないなって、思ったりします。

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響き工芸のコンセプト

ここで響き工芸の不動のコンセプトについて書き綴ってみたいと思います。
それは、演奏家・作曲家つまりは音を出す存在と、音を受け取る存在である聴衆とを、最適に、一番気持ちよく繋げるための良き橋渡しとなるべく、かかわり合い、技術を磨いてその技術を惜しみなく提供することにあると思っています。

それは、PA・SRの技術も然りですが、録音に関しても同じことだと思っています。
録音とは、時空を超えた聴衆への積極的なアプローチの手法であり、正確に演奏家や作曲家つまりは発音者の状況を伝えるためのよき道具(媒体)となりうるものだと信じています。

音を楽しむこととは、発音者と受音者(聴衆)とのコミュニケーションが成立して初めて成就するものであろうと考えます。
大自然の音に耳を傾けることと、自然の一部である人間の発する音に聴き入ることとは、私は同等のことだと感じています。
そのことを信じて、時空を超えた聴衆またはその場にいる一期一会の聴衆に発音者たちの心の奥底までを伝えられるサポートができれば、これに勝る光栄はありません。

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鐘の音

先日、狂言の大蔵流、山本則俊さんシテの「鐘の音」を舞台袖からですが、拝見していました。

太刀に黄金の飾りをつけたいと望んだ主人が太郎冠者に「付け金の値(つけがねのね)」を鎌倉に行って聞いてくるようにと命じました。
ところがそれを「撞き鐘の音(つきがねのね)」と思い込んでしまった太郎冠者は「鐘の音がなんの役に立つのだろう」と不審に思いながらも鎌倉へ行って様々な寺の鐘の音を聴いて「うむ、音も響きも建長寺の鐘がもっとも成人の祝いにふさわしい!」といって主人のところに戻ります。
この報告を受けた主人はカンカンに怒ってしまいますが、仲裁の人が入り、その後太郎冠者がその鐘の音を題材に謡と舞を披露して、主人は「これこそ成人の祝いにふさわしい」となり一件落着。という話なのです。

勝手な解釈ではありますが、この話、主人もおそらく言葉が足りなかったのでしょう。もしかすると「付け金」とは「太刀につける飾りの黄金」という意味のことだけではなかったかもしれません。
そしてそれは、ことばの共有の話でもありますが、ここではイメージの共有が成り立っていなかったことになります。(そこにはいろいろな要因があったことでしょう)
しかし太郎冠者は不審に思いながらも様々な鐘の音を聴いているうちに「鐘の音をお祝いに使いたいという主人の心の豊かさ」をきっと想像するようになっていったのではないでしょうか。
だから喜び勇んで主人に伝えたのです。「建長寺の鐘が一番です!!」
ところがそうではなかったのです。主人もカンカンですが、太郎もガッカリです。きっと「こんな心豊かな主人に仕えて嬉しいなぁ」くらいに思っていたのでしょう。
則俊さん演じる太郎冠者の、ふてくさりようといったら、、
しかし仲裁人のワンクッションのおかげで、太郎は自分の体験したことを謡と舞に仕立て上げます。
これが本当に見事でした。

音とはもともと自然に耳に入ってくるものです、しかも「ただ(無料)」で入ってくるものです。
その「ただの音」を芸術に昇華させ、値打ちのあるものに仕立て上げたこと、そして主人の目を開かせて「太刀に金の飾りをつける」というありふれたお祝いではなく、もっと心豊かなお祝いの仕方があるということに気づかせたこの太郎冠者の涙ぐましい「言い訳」に感動しました。

私自身のやりたいことも、この太郎冠者のように「何でもないただの音」をいかに誰かと共有し心を動かすような「かたち」に仕立て上げられるかということだなぁ、と改めて感じ入りました。
「鐘の音」は何度も見ている狂言ですが、こんな風に感じたのは初めてです。

これは勝手な解釈なので、狂言の古典的な解釈とは異なりますことを改めて記しておきます。

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