すた・ばにら

すたは現実世界の私、ばにらは気ままに野山を駆けめぐる野ウサギ…

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断捨離と去行【2】

(「断捨離と去行【1】」の続き)
 
断捨離がそれぞれ断行・捨行・離行に由来するということを前編で述べた。これはヨガの考え方に端を発しており、生活を簡素化し、人生もっと身軽になろうという理念から生まれた。
 
さて、自分は断捨離を拡張解釈し、有形なモノに限らず習慣など無形のモノも含めた。そこには自分一人の習慣ならまだしも、年賀状や忘年会など他の誰かが介在する場合は、断捨離を宣言し手を下すのはなかなか難しいだろう。
 
ここに「去行」という概念を付加してみた。もちろんそんな言葉はないし、ヨガの考え方にも恐らく含まれてはいない。だから私が勝手に定義付けてみると、
 
去行: ”涸れた”人間関係を整理すること。
 
人間関係の整理と言えば、穏やかでない表現に聞こえる。直感的には些か冷たい仕打ちではないかと映るし、絶交を意味するのかという声もありそうだ。
もっとも上の表現は熟考に熟考を重ねて何度も書き換えた
 
まず誤解のないよう断っておくが、去行は決して絶交を意味する概念ではない。関係が解消される点は同じだが、絶交とは現に自分と何らかの形で接触がある人物に対して、以後の関わり合いを能動的に遮断する明白な宣言である。去行は、既に自分と接触がなくなった人物に纏わる関わり合いを解除し、第三者と同じレベルまで戻す宣言である。
全く知らない人物にまで戻すことは出来ない…一度は関わり合った人間を”知らない人”と否認することは仁義ではない
 
絶交は何かの出来事によって、もうこの人とは関わりたくないという…という強い否定的感情を伴って発動される。何らかの形で明確な関わりがあったものを、今後は関わりたくない、関わって欲しくないという明確な宣言を行うことは、Twitterの行動様式に擬えれば「ブロック」である。
これに対し、去行は絶交ほど強い否定的感情は含まれない。以前は何らかの形で関わりがあったが、次第に疎遠となり、接触頻度が低下し、自然消滅あるいはうやむやな状態になっている関係にけじめをつけ、能動的に整理する行為で、同じくTwitterの言葉では「リムーブ(アンフォロー)」に相当する。
 
Twitterのフォローやブロックの他に、該当しそうな事例を挙げてみた:
 
・ホームページの相互リンクを解除すること。
・SNSなどのトモダチ関係を解消すること。
・接触のない人のケータイ登録やメールを削除すること。
・自分のケータイ番号やネット ID を変更すること(間接的去行)
 
リアルの世界では、既に両者の接触が皆無なら相手に働きかける形での去行は全く無用だ。実生活の人間関係は、接触がなくなれば、次に再び両者が接触するときまで最後の関係が保持される暗黙の了解がある。かつて恋人だったが疎遠になって行き来が無くなれば、お互いが永遠に過去の恋人であり、会社を退職したならかつて一緒に働いた仕事仲間は、過去の同僚である。事改めて去行を持ち出す意味がなく、蒸し返す如く宣言を行うのは精神構造を疑われるだろう。
 
他方、ネットの世界では必ずしもこの暗黙原理が働いているとは言えない。
 
かつてブログがこの世に誕生する以前は、個人のホームページが沢山あった。そこには大抵リンクページがあり、同種の趣味を持つ人やコメントを呉れた読者と相互にホームページ登録し合ったものだった。そしてこれもまた残念なお約束なのだが、お互いの行き来がなくなりリンク登録だけ残っているページが多い。中にはサイトごと無くなってしまい、クリックしてもページが存在せずバナーも赤ペケ表示がズラッと並んでいるリンク集も目立つ。訪問した人には何とも侘びしく映る。
 
ブログの普及で今やホームページの相互リンク問題自体マイナーだし、気にせず放置すれば済む問題とも言える。何よりも放置することに関して実害はない。
しかしmixiのトモダチなどのように、限定された情報の提供を許す形の関係を結び、その後相互の関係が”涸れた”場合、処遇に悩む人は少なくない。
 
ネット界でも行き来がなくなれば、大概は自然消滅とみなされる。しかし最後のような事例では、自分の ID を削除しない限り、関係は涸れていながら現に濃い関係を構築しているメンバーと同レベルで相互の振る舞いを把握できてしまう。特にmixiなどに代表される関係では、お互いが自分をどう観ているかが分からいだけに、けじめをつけたい、関係を整理したいと考える人があるかも知れない。
 
そしてこれは主観なのだが、自分は(実際どう受け止められようが)そのことを肯定的に考えている。何も最近そうなったというのではなく以前から同様の考えはあったし、後で述べるように実行もしている。ただ、最近そのことを頓に強く感じるようになったことは確かだ。
 
人間関係を深め、繋がりを拡げていくのは楽しいものだ。自分の知らない新しい世界が開けるし、自分以外の価値観や考えに触れることは有益である。何よりも”今から始まるのだ”というわくわく感は誰もが共通して抱くものだろう。
 
なべて、始まりは何でも楽しいものだ。いくら”終わりを迎える時が必ず来る”のが明らかであっても、である。別の記事でも書いたように、始まる前から既に終焉のときが懸念されて踏み出せないのは間違っていると思う。とりわけ楽しい仲間、大事な人との関係なら、いつまでも続いて欲しいと願うのが自然だろう。しかしそれと同じくらい、終わった状態が片付けられずいつまでも目に着く場所にあるのは寂寥感を助長させる。かつては赤々と燃え部屋を暖めていた暖炉の薪が燃え尽き、燃えさしが放置されているのを見れば、侘びしさのあまり片付けたくならないだろうか。
 
私が今考え、これから進めようとしていることが推測されたかも知れない。ただ、言葉足らずで誤解を招きそうな部分があると思うから、次章でその補足も含めて書いてみようと思う。
 
(「断捨離と去行【3】」に続く)

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