ブログ記事は、書いた本人が能動的に取り下げない限り、基本的にはいつまでもネット界に遺り続けます。
読者の方がこの記事を今の日付より何年後、何十年後に初めて接したなら別として、現時点では今月11日に起きた東日本大震災により、日本全体が大いに動揺しています。
事実としてテレビやネット上のニュース記事の9割以上が関連内容を取り上げ、一般人のブログ記事も大震災関連のものが目立ちます。
そんな状況にあって、私は一昨日ローカルSNSにこの記事を提出するまで、一貫してその話題には触れずにいました。ここYahoo!ブログでも災害のあった11日直後も淡々と平常通りの連載記事を書き続けていました。
ニュース書庫でも話題になっている記事を取り上げ、論評することが多いのに全く話題が上がって来ないことを不自然に思われたかも知れないし、たまたま訪問なさった方の中には、最近の記事がどっぷりと娯楽に浸かったテーマ踏査関連ばかりで「今の時期に不謹慎ではないか」と感じた読者もあったかも知れません。
なお、一部で被災地域の方が不快を感じるかも知れない表現が含まれ得ることをご了承ください。
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大震災やそれに纏わる多くのニュース記事に接して、私が全く何の反応もしていない訳ではありません。ネットでは悲惨な現状を伝える内容はともかく、ぬるい当局の対応、国難に臨んで協調性を欠き場違いなイベントをゴリ押ししようとする団体、言葉足らずの説明で無用な混乱を煽っているマスコミ記事も目立ちます。
そういう記事では静観どころか、むしろ Twitter やニュース記事コメントで積極的に批判あるいは非難の意見を述べています。(自分の主張には責任を持つ観点からこのブログIDと同一のものを使っている)
私も日本人ですから、仁義を尊びます。弱い立場の人間が捨て石同然に扱われ、カネや権力を有する人間が保身をはかったり、協調を乱し無用な混乱を惹起させるような行為や事件が横行するなら、看過したくありません。
しかしこれまでは一連のニュース記事に直接コメントすることはあっても、私のブログでは今までのスタイル - 記事リンクを貼って私見を述べる自前のブログ記事を書く - を取らずにいました。日々あまりに多くの事件が起きるので追い付かなかった、書く気が起こらなかった、今書かない方が良いと思った等々理由は複数ありますが、最大の理由は無頓着や無関心に起因する放置ではなく、熟考した末の能動的な自重によるものです。
この記事を書いている25日現在にあって、最大の懸念材料とされる福島原発に関しては今なお不安定な状態であり、既に大震災発生から2週間が経過しながら、なお事態を制圧し人間の制御下に置けているとは言い難い状況です。どのような形であれ、最終的には99%最悪の事態は回避されるでしょう。そうであっても本当に大変なのはこれからというのは容易に想像つきます。
被災地は少しずつ物流が回復し、必要な食糧や資材が届き始めています。物流経路の復旧は早急に進められているものの、個別にはまだ全く手つかずも同然で、町村丸ごとが失われ、行方不明者数も未だ正確には把握できていません。
現在は阪神淡路大震災のときにもあったように、まだ志願者が被災地へ出向いて協同して復興に尽力する…という前の前の段階です。
記事を書く私は西日本に在住しており、うちの家族も含めて被災地周辺に住んでいる親戚や大事な友達は誰も居ません。マイナスの影響と言っても資産として保有している株式の評価額が大きく毀損されただけ(それはそれで私にとっては大問題)で、直接的な被害は皆無です。
そのため日々被災地の深刻な状況や、都心部での計画停電や買い占め騒動の話を聞いても実感が湧かず、どこか他所の国のことのように思えてしまいます。
現地の様子はニュース記事で把握できても、すべてが語られているわけではありません。表に出ないだけで筆舌に尽くしがたい凄惨な事件や光景がある筈です。
殆ど現状を知らず、まして災害とは全く無縁なこの場所に我が身を置きながら、どうして関連地域の話題について軽々しく語れるでしょうか。仮に何らかの批判的記事を書けば、たとえそれが正論でも現場を見ない人間が語ることに違和感を覚える読者があるかも知れません。まして全くの気まぐれや、単純なヒマ潰し的話題として関連記事を書くなら尚更のことです。
このことはネット上のブログ記事などだけではなく、日常においても当てはまると考えています。今や日本全国何処でも知った人と顔を合わせれば、ほぼ間違いなく大震災の事が話題に上るでしょう。それも「よく雨が降りますね」の如く、お互いの身に降り掛かる深刻な事態ではなく、単なる話のネタとして。
話題に上せて被災地を悼み、今の段階で可能な支援を行っても、今のところそれ以上は何もできません。私たちが替わることはできないし、現地での復旧活動はまだ求められている段階ではない…そもそも容易に行けるほど近くもない。
そうなれば大震災について語るも、他人事のような話のネタに終始するか、真摯に話しても建設的で前向きな意見を創り上げなければ、最後には無力感を味わわされるだけになります。
それで次のように考えるに至りました:
離れた地に住む私たちも災害について
過度に言及しない方が良いのでは。
テレビでもネットのニュースでも、今は殆ど大震災関連の話題ですから、テレビまたはパソコンの前にずっと居座り、考えもなく画面を眺めていると、いくらでも関連する記事が送りつけられてきます。殆ど明るい材料がなく、震災とそれが引き金となって起こった原発関連の深刻な状況です。
問題意識を持つことは重要にしても、間断なくネガティブな情報を浴びていれば、知らないうちに受け手まで気持ちが沈むのは充分あり得ることです。それは好ましくない事だし、災害に遭われた方々も望んでいないはず。
更に言えば、それは自分だけの問題ではない…私がここで考えもなく大震災関連のブログ記事を日々書き散らせば、読者にまでネガティブな気持ちを伝播させてしまうかも知れない。
それ故に無関心、無頓着を決め込んでいると誤解されるかも知れないのを承知で、ローカルSNSでもこちらのブログでも、今の今まで触れることを避けてきました。
同時にリアルの世界でも、出会った人に自分から大震災の話を振らず、世間話的にその話題を振られても軽く流すようにしていました。
このことについて、たまたま仕事先で訪問したお宅とその話をしました。
玄関での立ち話だったものの、どうあるべきかの熱い意見交換になりました。
仕事の訪問先で「何もしない優しさ、話題に上せない心遣い」について話し合った。
苦境に立たされている人を見ると励ましたくなるし、重い病気をして入院したと聞けば、すぐにでも見舞いに行きたくなる…
それは必ずしもベストな振る舞いとは言えない場合があるのではなかろうか…
入院と聞けばすぐ足を運ぶ人が多いけど、本人は化粧もしていない自分のあられもない姿を見せたくないかも知れない…
そんな状況でも見舞いに来られたなら追い返すことはできない。例えば手術直後で身体が弱っているなら、元気でピンピンした友達が来て声高に話されたら、健康を損ねた我が身を嫌と言うほど思い知らされ、落ち込む人もいるだろう…
病気と聞きつけたから即お見舞い…と条件反射的に振る舞うのではなく、むしろそっとしておいた方が良い場合がある。
それと同じくらい、私たちがこれ以上何もできないならば、大震災の件についてあまり話題に上せることなく、静かにしておいた方がいいのかも知れない…
今回の大震災から、そのような話になりました。
手を差し伸べたくとも、どうしようもできない部分があります。下手に同情して励ませば、人によっては逆に鬱な気持ちを増幅させてしまいます。要りようなものを個人的に送るにしても皆が一斉にそうすれば、物流に悪影響を与えます。
「大変そうだよ」「そうみたいだねー」と他人事みたいに世間話ネタで話してネガティブな気持ちを増幅させるくらいなら、始めから話題に上せないのが思い遣り。何かしようと闇雲に動いて足を引っ張る結果になるくらいなら、始めから何もしないでおくのが優しさという意味。
こうして、立ち話ながら私たちは次のような共通合意に至りました:
「何もしないでおく」という優しさもあるのでは…
立ち話をしたその方(20代女性)は、去年のこと出産されました。その時の体験として、出産時に友達が励ましに来て気持ちは嬉しかったけど、正直それどころじゃなく人の気も知らずに…とムカついたと話してくれました。
はからずも昨日、大震災で計画停電が実行され、お店が営業できず閑散としているところに自粛ムードが追い討ちを掛ける旨を伝えるネット記事に、こういうコメントを見つけました。
> 私は被災者の一人です。
> このようなニュースを見聞きするたびに日本全体の将来を不安に思います。
> 被災地以外にお住まいの方は、どうかお願いです。普通の生活を送ってください。
「赤坂の”板前寿司”、震災後の客数半減−ランチ限定セットも販売中止」
この読者のコメントがすべての被災者に完全一致する想いとは言いきれないものの、殆どの方が肯定する意見でしょう。経済を支えよう…とばかりに、無理やりあちこちへ外食するのは妥当だけれども持続性がない…かと言って不要不急なものだけでなく必需品まで切り詰めるのを大勢で行ってしまえば、消費全体の冷え込みを誘うでしょう。
未曾有の国難に臨みながら、冷静さを保ち普通の生活をすることの
何と難しいことか!
「何もしない」イコール「無頓着・無関心」という呪縛、そのような目で見られているのではないかという負い目…
しかしそれを理由に、形ばかりの同情やいっときの支援で終わるのでは、何もしないでいた自分を否定するための自己満足と大差ないのかも知れません。
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書きたいだけ書いて、ここで手が止まりました。
毎度ながら冗長な記事だけど、言葉が足りず誤解を与えるかも知れないなら、どれほど長くなっても自分の気持ちの中にあるものは言葉を選びつつすべて吐き出すポリシーなので、これほどの長きに至りました。