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漠然とした言い方になるが、人類の歴史を原始時代まで遡り、現代に向かって眺めていると、「様々な事件によって様々なものが変わりゆく」ことが分かる。
それは政変だったり戦争だったり、あるいは自然災害…と要因は多岐にわたるにせよ、人々の考え方や価値観に影を落とし、その事件を期に少しずつ、あるいは急激に新しい方向付けが行われる。際だって大きな変遷は、パラダイムシフトとして知られる。
(わかりにくい横文字を使うのは忌避されるべきなのだがこの概念にしっくり合う日本語が見あたらない…文化的大転換とでも言うべきか)
「Wikipedia - パラダイムシフト」
私は日本にあって、2つ前に起きたパラダイムシフトは昭和20年の敗戦の日と考えている。この時期を生きた人間ではないから教えられた情報による判断になるのだが、それまで多くの国民が”この戦争は義なのだ”と考え、攻撃してくる米国を宿敵と考えていた。情報統制下に置かれていたこともあり、何も知らされないまま国民は必ず精神論をもって”勝てる”と信じていた。
やがて核実験同様な最終兵器による議論の余地ある手段によって悲劇的結末を迎え、そこで事実が明らかとなる。その日をもって日本は永遠に米国の属国となった。
(厳しい言い方かも知れないが私はこの考えを撤回する積もりはない…再度日本が米国を相手に砲火を交えて勝たない限り永遠に米国の上には立てない…敗戦国なのだから基地問題を含めて米国の言いなりとなるのは当然である)
しかし同時に敗戦により再び国民は立ち上がることを余儀なくされ、事実立ち上がった。当時から戦争を義としていた人々は考えを改めたし、元から同じ人間が殺し合うことは義ではないと考える人々も当然いた。ただ、誰もがそれまでの生活スタイルや価値観を変えることになったのは確かだろう。
さて、持って回った言い方になったがここまで言えば直前に起きたパラダイムシフトが何であるかはほぼ明らかだろう。
3.11である。
それは一年前に突然襲いかかった自然災害に起因するものであり、敗戦の日のようにそれ以前から継続していたものではない。大震災の兆候があった…などとさも専門家のような顔して後付けで唱える向きもあるようだが、殆どの人は受け入れないだろう。実際、その数ヶ月前にニュージーランドのクライストチャーチを襲った悲劇ですら、その国固有の自然災害であって連想づけて考える人は皆無だった。
(実際に関連性があるとは言えない…しかし同種の災害が日本でも起きないだろうかと考える向きがあってもおかしくはないだろう)
敗戦後、国民が立ち上がって今がある。いや、立ち上がる以外なかった。まさか”もうこの国は終わりだ”とばかりに人や国の命を消すわけにはいかないだろう。今でこそ”何で戦中は自分を押し殺して国に尽くすような行き方をしていたのだろう”と鼻で笑えるが、当時は当時で真剣だった筈だ。
環境や要因は異なれど、3.11とて同じだ。それまでの人々の暮らしぶりで大きく誤ったところは特にないように思える。しかし断定はできない。今の時代から戦中の国民を眺めれば、それは正しくないとか非常識だと思える考えや習慣があるように、現在私たちが普通に行っている暮らしぶりとて、絶対的なものではない。戦時中の理念が戦争後になって否定されるように、3.11以前の私たちの暮らしぶりが正しくないと否定されることがあるなら、間違いなくこれから数年経ってからのことだ。
3.11の後で頓に言われ始めるようになったのが「絆」である。広く言えば”人との有機的な繋がり”だ。ただしこれは忘れ去られていたものではない。元から価値ある存在だった。傍目にも絆を否定するような風潮や事件に晒され続けたために、何となく誰もが”そういうものなのか”とレベルを引き下げてしまったに過ぎない。
その前のパラダイムシフトであった敗戦日を基準に取ることには異論もあるだろうが、3.11まではそこから数十年経っている。数十年を俯瞰すると初期は極めてゆっくりと、そして平成以降の後期は極めて速いテンポで価値観や文化の変化があったからだ。
我々はその変化すべてを所与のものとして受け入れ、現在に至っている。例えば現在しているような「ブログを書く・読む」にしても然りである。かつては一般庶民が公に向かって意見するなら自費出版か新聞への投稿など、極めて手段は限られていた。これが戦時中ともなれば、自由に意見することすら許されなかった。国威を削ぎ軍の意向に反する発言があれば、憲兵がしょっ引いていく時代だったのだ。
さて、そこまで自由と利便さを与えられていながら、我々は本当に豊かになったのだろうか?
自由は以前から存在していて、今も大きな変化はない。利便さは何事につけても常に検討され、改善されていった。便利というのは「不便ではない」「面倒でない」「楽な」「快適な」ことを意味する。化石燃料枯渇や環境汚染が心配されながら車が一向に減らないのは、それが楽で便利だからであり、ケータイをはじめとするモバイル機器が爆発的に普及したのは、いつでも確実に本人だけと関わることができる道具だからだ。そこには数十年前では成し得なかった技術的進展も寄与した。
それらは新しい利便性をもたらしたものの、元は存在しなかった新たな問題をも生み出した。便利になるということは、多くは労力や時間の削減を意味する。特に時間が削減されれば、空いた時間を他の有意義な活動にあてることが出来るはずだった。しかし本当にその通りに事が進んでいるだろうか?
多くの場合、空いた時間が他の用途に回らず、結局は今までしてきた同じことを”より多くこなす”ために消費されているに過ぎないのではなかろうか。より端的に言えば、今まで1時間かかっていた仕事が利便性の向上で45分で済むようになったのに、空いた15分が自分にとって費やしたい方面に回らず、同じ仕事を余分にこなすのに充てられているなら、あなたにとってプラスとなる要素は何もない。より露骨に言えば、有無を言わせず働かせている企業が儲かるだけだ。
あなたにも責任なしとは言えない。
企業が働かせていて抜け出せない状況の他に、あなたは欲しいものがあって、あるいは生活の質的向上を求めていて、そのためにお金を求めて空いた15分を仕事へ回すようにしているなら、結局は企業の思惑通りに進むよう荷担していることになる。生活が苦しいなら当局の責任もあろうが、今まで暮らして来られていながらなおモノを求めているなら、それはあなたの責任だ。
きりがない。
こういう連鎖は、何処かで断ち切らなければ本当にきりがない。
無用にカネを、モノを求めすぎるなら、
あなたは精神を売り渡すことになるだろう。
あなたが無限の命を持っていて、いつまでも此岸に留まって居られるなら求めるなとは言えない。あるだけ持っていても、無限の時のどこかで消費できるだろう。
しかし自明なことだが”墓場まで何も持っては行けない”のである。
おカネやモノもだが、残念ながら貴重な時間や想い出さえも。
より残酷に言うなら…
人は、死んだらすべてが終わりだ。
物心付いたときから人は誰しも理解している筈なのに、一体どうしてそんなにカネやモノに執着するのだろう…
何故いずれ手放さなければならない想い出を満喫しないのか、
有限な時間の間に楽しい経験を一杯紡ごうとしないのか、
私にはそれが不思議でならない。
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喜怒哀楽
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(「断捨離と去行【2】」の続き)
ホームページで相互リンクする仲間を増やす、mixiなどのSNSで気の合う人を探してトモダチの輪を拡げていく、facebook で級友とバッタリ出会い旧交を温め直す…我々はネットという手段を手にしてまだ数十年しか経っていない。しかしその効能を大いに認め、積極的に人やモノ、情報などあらゆるネットワークを拡大させてきた。
ネットワークに接する人間の繋がりを拡大させていくことに関して、否定的意見を唱える人は殆どいない。いや、端からそのことに話題に上せる人すら僅少だろう。人間は元から繋がって暮らすように出来ている生物と思うし、人付き合いの悪い私ですら繋がりを拒絶する生活スタイルは誤りと思っている。
他方、昔から言われている”過ぎたるは及ばざるが如し”の考えが常に念頭にある。何につけても過熱していると思われるなら一旦そこから離れ、外から冷静に眺めて検証しようと考える。あるいはわざと真逆のことを考えてみる。真逆の考えを検証して妥当性がないなら、それは否定あるいは修正される。真逆だからという理由だけで端から考えもしないのは、誤謬に陥る元と思う。
この見地に立って敢えて言うのだが、
我々はもしかすると、無秩序に
ネットワークを拡げ過ぎていないか?
人との繋がりが増えすぎても重くないし、普通は邪魔にならない。多くの人は自分にとって機能しなくなった、有用でなくなった繋がりを放置し自然消滅に至らしめる。そしてまた新たに別の繋がりを求める…こういう状況になっていないだろうか。
繋がりが増えていくことは肯定するとして、その後にメンテナンスせず片付けられないまま放置される繋がりは、果たして善だろうか。それは「多くの人が疑うことなく行っている」という理由だけで、義と言える姿なのだろうか。
最初にも述べたが繰り返しておくに、去行は絶交ではない。繋がっていた手を離すことである。相手に確認を取ったのではなく、私の方から能動的に離す形になるのは心苦しいが、そこに「嫌だから」「無駄だから」という価値判断はない。数多ネット上で活動している数十万数百万のネットユーザーの関係まで戻したいという意向だけである。真に必要なら、改めて新しい関係を構築することに吝かではない。ただ、現に関係が”涸れて”おり、こうした偏狭な考えを唱える私を尚もフォローする方はいないだろう:「私の求めている関係ではない。」
何がこの考えを後押ししたかと問われれば、端的に言って「3.11」である。
未曾有の事件によって、日本人は漸く「モノより心」という本来自明な命題に気づき始めた。家族や人の絆こそ価値あるものと考え、強く求める人が増えた。
私は以前からそれを求めていたし、あの事件以後更に強まった。そしてリアルで集い合う世界では人の暖かみを強く感じられたが故に、ネット上オンリーの人間関係が如何にも軽く、空しいものに映った。
しかしそれは認識違いだった。元からネットオンリーで集い合う世界はそういうものなのである。リアルな行き来なくして、血の通った有機的な繋がりは決して有り得ない。事実として、あなたか相手の一方が ID を削除すればすべてが終了である。それを静かに受け入れられる以上の関係を期待するのは間違っている。人間、誰しも会ってなんぼのものなのである。そのことに気付き、極論と共に「ネット上の人間関係なんて所詮は使い捨て」と嘯くようになった所以だ。
遊び、ゆるやか、フワフワ、軽薄短小…それが悪いとも言えないが、恐らく我々は少しばかり程度が過ぎたのだ。少なくとも今の私には”もうお腹一杯”だ。人との関わりについて、リアルでもネットでも今後はもう少し真摯に向き合いたい。
私がネットに期待する人間関係は、コンタクトを取り続ける程度に私または私が書く記事に波長が合う方、さもなければ遠くから眺めるその他大勢に属する読者である。中途半端は「私の求めている関係ではない。」
これ以上、理由も言い訳も述べる必要ないと思う。私は次のステップへ向かうために、放置されている諸々のものをキチンと片付けたい。ネットでもリアルでも決して広くない人間関係だが、私にとって現状ベストとは言えない繋がりは、静かに整理する。
たまさかこの記事を目になさったあなたの事かも知れない(先に述べた通りネット上の繋がりある方…リアルで面識のある方は当てはまらない)が、お気づきの点があってもどうか了承頂きたい。決して冷血な奴とか思わないで欲しい。まあ、冷たいのは真だろうが、人との関わり合いを大事にしたい点は人一倍以上と自負している。そうであるが故に、数は少ないものの現に今私と繋がり、そしてこれから繋がるであろう新たな方々のために”気持ちを開けておきたい”のである。
最後に、これは今際の別れではない。扉はいつも開いている。
新しく始めるも、このまま手を離してネットの広大な海で別々に泳ぎ出すことになるのも定めと思う。今までがそうだったし、これからもそうなるだろう。
あなたは、あなたの絆を大事に温めて欲しい。
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(「断捨離と去行【1】」の続き)
断捨離がそれぞれ断行・捨行・離行に由来するということを前編で述べた。これはヨガの考え方に端を発しており、生活を簡素化し、人生もっと身軽になろうという理念から生まれた。
さて、自分は断捨離を拡張解釈し、有形なモノに限らず習慣など無形のモノも含めた。そこには自分一人の習慣ならまだしも、年賀状や忘年会など他の誰かが介在する場合は、断捨離を宣言し手を下すのはなかなか難しいだろう。
ここに「去行」という概念を付加してみた。もちろんそんな言葉はないし、ヨガの考え方にも恐らく含まれてはいない。だから私が勝手に定義付けてみると、
去行: ”涸れた”人間関係を整理すること。
人間関係の整理と言えば、穏やかでない表現に聞こえる。直感的には些か冷たい仕打ちではないかと映るし、絶交を意味するのかという声もありそうだ。
(もっとも上の表現は熟考に熟考を重ねて何度も書き換えた)
まず誤解のないよう断っておくが、去行は決して絶交を意味する概念ではない。関係が解消される点は同じだが、絶交とは現に自分と何らかの形で接触がある人物に対して、以後の関わり合いを能動的に遮断する明白な宣言である。去行は、既に自分と接触がなくなった人物に纏わる関わり合いを解除し、第三者と同じレベルまで戻す宣言である。
(全く知らない人物にまで戻すことは出来ない…一度は関わり合った人間を”知らない人”と否認することは仁義ではない)
絶交は何かの出来事によって、もうこの人とは関わりたくないという…という強い否定的感情を伴って発動される。何らかの形で明確な関わりがあったものを、今後は関わりたくない、関わって欲しくないという明確な宣言を行うことは、Twitterの行動様式に擬えれば「ブロック」である。
これに対し、去行は絶交ほど強い否定的感情は含まれない。以前は何らかの形で関わりがあったが、次第に疎遠となり、接触頻度が低下し、自然消滅あるいはうやむやな状態になっている関係にけじめをつけ、能動的に整理する行為で、同じくTwitterの言葉では「リムーブ(アンフォロー)」に相当する。
Twitterのフォローやブロックの他に、該当しそうな事例を挙げてみた:
・ホームページの相互リンクを解除すること。
・SNSなどのトモダチ関係を解消すること。
・接触のない人のケータイ登録やメールを削除すること。
・自分のケータイ番号やネット ID を変更すること(間接的去行)
リアルの世界では、既に両者の接触が皆無なら相手に働きかける形での去行は全く無用だ。実生活の人間関係は、接触がなくなれば、次に再び両者が接触するときまで最後の関係が保持される暗黙の了解がある。かつて恋人だったが疎遠になって行き来が無くなれば、お互いが永遠に過去の恋人であり、会社を退職したならかつて一緒に働いた仕事仲間は、過去の同僚である。事改めて去行を持ち出す意味がなく、蒸し返す如く宣言を行うのは精神構造を疑われるだろう。
他方、ネットの世界では必ずしもこの暗黙原理が働いているとは言えない。
かつてブログがこの世に誕生する以前は、個人のホームページが沢山あった。そこには大抵リンクページがあり、同種の趣味を持つ人やコメントを呉れた読者と相互にホームページ登録し合ったものだった。そしてこれもまた残念なお約束なのだが、お互いの行き来がなくなりリンク登録だけ残っているページが多い。中にはサイトごと無くなってしまい、クリックしてもページが存在せずバナーも赤ペケ表示がズラッと並んでいるリンク集も目立つ。訪問した人には何とも侘びしく映る。
ブログの普及で今やホームページの相互リンク問題自体マイナーだし、気にせず放置すれば済む問題とも言える。何よりも放置することに関して実害はない。
しかしmixiのトモダチなどのように、限定された情報の提供を許す形の関係を結び、その後相互の関係が”涸れた”場合、処遇に悩む人は少なくない。
ネット界でも行き来がなくなれば、大概は自然消滅とみなされる。しかし最後のような事例では、自分の ID を削除しない限り、関係は涸れていながら現に濃い関係を構築しているメンバーと同レベルで相互の振る舞いを把握できてしまう。特にmixiなどに代表される関係では、お互いが自分をどう観ているかが分からいだけに、けじめをつけたい、関係を整理したいと考える人があるかも知れない。
そしてこれは主観なのだが、自分は(実際どう受け止められようが)そのことを肯定的に考えている。何も最近そうなったというのではなく以前から同様の考えはあったし、後で述べるように実行もしている。ただ、最近そのことを頓に強く感じるようになったことは確かだ。
人間関係を深め、繋がりを拡げていくのは楽しいものだ。自分の知らない新しい世界が開けるし、自分以外の価値観や考えに触れることは有益である。何よりも”今から始まるのだ”というわくわく感は誰もが共通して抱くものだろう。
なべて、始まりは何でも楽しいものだ。いくら”終わりを迎える時が必ず来る”のが明らかであっても、である。別の記事でも書いたように、始まる前から既に終焉のときが懸念されて踏み出せないのは間違っていると思う。とりわけ楽しい仲間、大事な人との関係なら、いつまでも続いて欲しいと願うのが自然だろう。しかしそれと同じくらい、終わった状態が片付けられずいつまでも目に着く場所にあるのは寂寥感を助長させる。かつては赤々と燃え部屋を暖めていた暖炉の薪が燃え尽き、燃えさしが放置されているのを見れば、侘びしさのあまり片付けたくならないだろうか。
私が今考え、これから進めようとしていることが推測されたかも知れない。ただ、言葉足らずで誤解を招きそうな部分があると思うから、次章でその補足も含めて書いてみようと思う。
(「断捨離と去行【3】」に続く)
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これはさすがにローカルSNSで書くわけにはいかない。特に私が後半部の「去行」とでも言える概念を持ち出せば、誤解されトモダチを失うことになりかねない。
実際、やや極論で人間味のない主張となるが、不真面目な気持ちで書いている積もりはない。
なお、気の向くままダラダラ何編か書き連ねる予定なので本編を【1】としておいた。
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断捨離(だんしゃり)。
去年か一昨年くらいに、その奇妙な語を頻繁に耳にするようになった。
(ただし「去行」は後で説明するように私が全く思い付きで作った言葉である)
最初にこの言葉を知ったのは、東京在住のローカルSNSメンバーのブログ記事だった。さすがは情報の発信源に近いと、片田舎な山口よりホットだなーと思われたものだった。
我々の周りにはあまりにもモノが溢れている。断捨離とはヨガの断行・捨行・離行の考えを取り入れ、不要なものを断ち、捨て、モノへの執着から離れることを意味するとされる。
「Wikipedia - 断捨離」
私はこのようなマスコミによって半ば人為的に広められた造語にはあまり与しないのだが、この概念はこれからの時代によく呼応しているように思われるし、更に拡張して自分流の解釈をしている。
有形なモノはもちろん、無形のモノ(概念・習慣)の”断捨離”は、生活の簡素化に直結している。無闇やたらと今まで持っていなかった新しいモノや、さほど重要とも思われない習慣を自分の生活空間に存置させると、便利さよりも弊害の方が上回る場合もある。
しかし多くの人はそれほど頓着しているとは思われない。「別に深く考えていなかったから」「誰もが普通にしていることだから」というのが主な理由である。
多くの人が普通に持っているにもかかわらず、この記事を書いている現時点で私独自の考えで生活空間から排除した有形なモノを全く思い付くまま書いてみた:
・テレビ
・新聞
・週刊誌や雑誌
・腕時計
・シャンプー
最初の3つは情報源に関するものである。いずれもインターネットがあるから実生活になくても特に不便はない。テレビは最新のニュースに触れるのには好適だが、私にとってはテレビを置く場所をとられ、更に受信料という七面倒くさい問題に煩わされるデメリットの方が大きい。まして教育的な番組に乏しく、そして今後もそういう番組が造られる可能性が薄ければ、「終わったメディア」と映る。
テレビが無いなら付随して新聞も必要ない。紙資源の無駄であり、ゴミ出しの手間を考えればタダで配達してやると言っても要らない。
(最寄りのスーパーのチラシだけ配達してくれれば足りる)
週刊誌や雑誌も場所を取るというだけで生活空間から排除したい理由に足りる。書籍は必要だとは思う。いくらネットで調べて同じ情報が見つかるとは言っても、パソコンの前まで行って所定の操作をしなければならない。書籍はパッと開くだけだから明らかな優位性が認められる。なくなることがないメディアと思う。
(しかし場所を取るというデメリットは確かにあるので私は本を買わない)
腕時計は時間に縛られたサラリーマンならともかく、私には全く必要ない。時間を知りたいならケータイの時計で充分である。腕に装着すれば重たいし鬱陶しい異物だ。何より腕時計が招く弊害は、人と会合しているとき目を遣るあの醜悪な仕草だ。時間が気になるならハッキリ会話に上せれば良いのであって、話している最中チラチラ時計を見る人は帰りたいのだろうと解釈されるし、それなら思わせぶりな態度ではなくキチンと言えば良いのにと思ってしまう。
シャンプーは身体にも環境にも悪い。そもそも髪を洗うのではなく、洗うべきは頭皮だ。本当は頭皮の脂も必要だから分泌されるのであって完全に除去するのが必ずしも身体に良いとは言えない。しかし脂が付いたままだと埃が付着しやすく不潔だし、臭いで他人に不快感を与えるから頭を洗うのである。その目的だけなら顔や身体を洗う石けんで足りる。そう広くもない風呂場に石けん、シャンプー、リンス、トニック…等々あれこれ置くメリットを感じない。
(もっともこれは女性にも必ず当てはまるとは言いきれない)
全く思い付くまま書いてみたが、自己流に解釈された断捨離は”以前はあったものを排除する”に留まらない。”今以上に必要性の薄いモノを増やさない”ことも含まれる。巷ではiPhoneを始めとするモバイル機器が人気を博しており、猫も杓子もといった感じがあるが、正直まったく興味がない。それはさしあたって今の自分の生活に必要ないからである。人が持っていようが人気があろうが、要らないものは要らない。タダで呉れてやると言っても断るだろう。これ以上、自分の生活に厄介なモノを導入したくない。
(ただ、吟味した結果真に生活に必要だと判断されればそのときに導入するだろう…人が持っているからなんて理由で持つというのが断捨離の精神に反する)
自己流に拡張解釈された断捨離は、有形のモノに限定されない。習慣など無形のモノに対しても適用される。
・年賀状
・お歳暮、お中元
・忘年会と称しての呑み会
実はこれらの排除は、断捨離なんて言葉が生まれる十数年も前からやっていた。ただし断っておくことに、このことは年賀状を出すことやお世話になった人へのご挨拶が並べて無駄なものと考えているわけではない。要はその内容である。
多くの人が未だに年の瀬を前に大量の年賀はがきを買い求め、親戚や友人宛ならともかく、会社の上司や同僚へのお座なりな賀状書きに無駄な時間を費やしている実態がある。「仕事で世話になった人には出すべきだ」という、訳のわからない呪縛に捕らわれ、何を書けば良いかと頭を悩ませ、書くことがないと嘆き、挙げ句には面倒だから印刷屋に頼んでバサッと刷ってもらったものに宛名だけ手書きして投函する。受け取った相手は抽選番号の発表までは取りあえず保管しているが、外れと分かった時点で正月前にしか人目に触れない賀状差しへ葬られるか捨てられるかである。時間と紙資源の無駄であり、こういう馬鹿げた習慣もまた20世紀へ置き去りにすべきだった。
しかし賀状を一切書かないと宣言するのは困難だろう。ましてお歳暮やお中元、そして忘年会も排除となると、人間味がないとか言われる原因にもなるだろう。それがモノの排除たる断捨離と違い、相手が存在することだからだ。自分の判断だろうが、相手に違和感や不快感を与えることも有り得る。
さて、私はこのブログ記事の中に「去行」という訳のわからない造語を忍ばせた。これは決して積極的に提唱されるべきものとは思われないが、常軌を逸しない範囲で必要なのではないか…と最近思い始めたある断捨離の一形態である。
(「断捨離と去行【2】」に続く) |

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欲しい情報は伝えずに隠し、芸能人のゴシップとかしょうもないネタや害悪となる情報ばかり伝播する民放や出版社。私が常日頃から彼らを「マスゴミ」と揶揄し、如何に嫌悪しているかは今までの記事で想像つくだろう。
身の回りを流れゆく情報は取捨選択すべきものであり、積み上げるものではない。無駄に多すぎる情報は私にとって害悪に他ならず、普通は軽く受け流す。それでもなお首を突っ込んでくる”お節介な情報”は、積極的に排除にかかる。
なるべく”無用な情報に毒されないクリーンな生活”を構築しようとしているのに、つい先ほど”情報の押し売り”がやって来て静寂を乱された。私にはそのようにしか見えないのだが、彼らは本気であり、一般には新聞の販売促進員と呼ばれる人々のようである。このやり取りが些か痛かったので、晒し記事を書いておこう。
なお、例によって相互の理解不足や勘違いはあれど、虚偽は一切書いていない。つい数十分前に玄関先で起きた事件である。前回の事件でも同様のことは書いたが、今回は自分に全く非があるとは思わない。より積極的に言えば、全面的に相手が悪い。如何にも時代錯誤で迷惑極まりない営業手法であり、いい加減にしろよと言いたい気分である。
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呼び鈴が鳴った。
ドアを開ける前に定番の言葉を発する。「どちらさん?」
独り暮らしを始めてから、習慣づけるようになった。野山時代は自分だけでなく親などに用事があるかも知れないから無条件に応対せざるを得なかったのだが、今やすべて私個人への用件だから、ドアを開ける前に必ず誰何する。
訪問販売と思しき来客でも、大抵はまともに応対する。ただし新興宗教の勧誘だけは名乗った途端、ドアすら開けず追い返す。彼らを相手にしていたら、話を切り上げさせるまでに1時間は優に潰されてしまう。当の本人は至って真摯に説明しているので、追い返すのが忍びない。そうなるから応対しないのである。
さて、訪問者は新聞屋だった。
どのみち大した用事でもなかろうが、何かの調査モノかも知れず、無碍に追い返すのも気が引けてドアを開けた。
見たところ30代くらいの若造だった。彼は私がドアを開けるや否や、すぐにお得意の営業トークをまくしたて始めた。
相手に押し切られ、望まない契約を受け入れてしまうヤワな私ではない。要らないものは絶対に要らない。第一、テレビが無い家に新聞など必要あるものか。私にとってはそれだけで勧誘をきっぱり断ち切る決定打と考えていた。
「うちテレビないから新聞読まない。要りません。」
しかしそこでスゴスゴ退散しないあたり、そこそこやり手な販売員なのかも知れない。
すかさず彼は反撃してきた。
「いえ、テレビがなくても新聞とるって方いらっしゃいますよ。」
「要らんって。ニュースはネットで視る。役立つの広告のチラシ位やんか。」
そう言ったら、水を得た魚の如く彼は元気付いた。
「そう、そう!チラシ!それですよ!ご主人…分かってらっしゃいますね。」
あのなあ。それって持ち上げた積もりなのかよ?
この”ご主人”って言い方、俺はとっても嫌いなんだよ。
俺が主なのは間違いないけど、基本は”お客様”だろうが。
(その他の業種の方にも参考までに…初めての客にかける言葉は”お客様”であるべき。目の前の相手に対していきなり”御主人”や”奥さん”は非常識の部類)
「チラシなら親元で手に入る。要らねえって。ゴミになるだけやんか。」
「お読みになった後の回収もうちが責任をもって引き受けます。」
そう言って書きかけの契約書の端に「(古紙回収)」と付記した。
本気なのだろうか?
うちのアパートは古新聞も一般ごみと一緒に随時回収するはず…それをわざわざ別便で回収だけに来れば、コストに見合わないのでは…
更に彼は契約に導くための新聞屋の常套手段を持ち出してきた。
「それから、これをどうぞ…」 洗剤、お手ふき、手提げバッグの中から次々と出てくる。それを次々と私に押し付けてきた。
メーカー品の箱入り洗剤の市販価格は300円程度。仕切りでもまず200円とかにはなるまい。それを3つも4つも気前よく渡してくる。昔は銀行とかも似たようなことをやってきたが、今は精々ポケットティッシュ一袋がいいところ。私からすれば、もはやそれだけでこの業界の収益構造がどうなっているのか大いに疑問を感じる。
「こんなことしてまで…お宅、儲けになんの?」
彼は正直に、新規の契約数が欲しいと言ってきた。とにかく新規をとってきてナンボの世界らしい。契約しさえすれば、時期が経って解除しても一向に構わないらしい。
「そういう訳なんで…お願いします。無料にしておきますから。」
彼は手元にある契約書の申込み期間に「22年10月から23年3月まで6ヶ月」と書いた。その上で、6ヶ月以上となった「以上」の部分を抹消して言った。
「ホントに期間内だけでいいです。6ヶ月経過後の継続とかは一切されなくて構いませんので…」
「ホントに無料なんだね?間違いないね?」
彼の説明からは、とにかく新規契約者数を確保したいがために、無料期間中だけでも構わないから契約して欲しいという風に解釈された。今どきそんな捨て身な営業で成り立つのだろうかと思いつつ、申込書に判を押した。かつての銀行チャンだって、新規顧客数を増やすのに躍起になり、無理やり口座を作らせたものだったし…
押印した途端に彼はえびす顔になって、トークを続けつつ更に契約書に必要事項を書き込み続けた。
しかしトークに誤魔化されず、彼の書きこんだ諸々の情報を見逃さなかった。
月額購読料 \3,200-
おい、さっそく話が違うじゃないか。
最初は確かに「無料でいいですから」と言ったはず。新規契約数のために無料でもいいからとにかく講読してくれってんじゃないのかい?
彼に説明を求めた。
彼の返答は、無料講読できるのは10月と11月の2ヶ月だけで、12月から3月までの4ヶ月は普通に購読料がかかるという平然としたものだった。むしろ、最初からその積もりで説明してきた筈だと主張した。
ああ、そうなの?
じゃあ…決まりだ。
契約書破棄
カネ払わなくちゃなんないのなら、要らねえよ。誰が読むもんか。
タダで配達して、読んだ後は古紙の回収まで面倒みてくれて、お情けに洗剤たら布巾たらよこすから判をついてやったまでだ。ホントに読む気なんざ全くねえよ。それこそ、地域の特売を掲載した折り込みのチラシに目を通すだけ。新聞本体の方は恐らくまったく読まずに玄関先へポイ置き。それで上等だからと泣きつかれたから、判をついたまでだ。
判を押した契約書を千切り取り、回収させた。
当たり前だ。こちらが名前と印鑑捺印したものを相手の手元に渡す必要などない。なまじ残せばロクなことにならない。
洗剤など彼の放った諸々の釣り餌は全部突き返した。
彼は結構頭に来ていたようで、もうこの地区は訪販しませんからなどと捨て台詞を残して退散して行った。
署名捺印まで漕ぎ着けておきながら破棄されて、さぞかし悔しかったのだろう。
いい気味だ。
世の中そんな甘っちょろいもんじゃねえんだよ。そもそも最初からダメだ、要らねえよって言ったじゃんか。”営業は断られてからが勝負”とか、昭和の遺物みたいな精神論で動いてるから痛い目に遭うんだよ。
貴重な時間を潰されて腹立たしかったろうが、まあ訪問した相手が悪かったってことで勉強して出直せや、若造め。
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…とまあ、こういう展開だったわけだ。
今どき、新聞の勧誘を受けて有り難かったとか役に立ったという話があるのだろうか。聞こえて来るのは、殆どが執拗で嫌らしい勧誘話ばかり。真偽の程は分からないが、”宅配便です”などと虚偽を名乗ってドアを開けさせ、新聞購読の勧誘を始めたなどという強者も居るらしい。
今回の営業マンはそこまではやらなかった。まあ、そこまでやっていたら当然の如く最寄りの営業所に苦情をネジ込むまでだが。
一般論として彼にも語ってやったのだが、今や訪販は死んだも同然である。
随分と昔、前会社を辞めて暫くそのような営業活動をやったことがあるのだが、十年近く前ながら、訪問販売は殆どの家で迷惑がられた。それ以前に個別の付き合いがあったお宅ですら、明白に嫌な顔をされた。
今から思えば当然だ。営業マンの態度が真摯とか誠意あるとか、そんなのは一切関係がない。要らないものは要らない。ただそれだけである。
考えてもみるべきだ。無作為に取り出した一軒のお宅がまさに今、どこか良い情報を届けてくれる新聞屋が居ないか考えていて、訪問販売してくれる営業マンを待ちこがれていた…なんて確率は、宝くじの一等当選よりもずっと低い。あとは営業マンの押しやプレミアムにどれほど消費者が乗せられる(つまりは「騙される」)ことで、若干確率の数値が上乗せされる程度である。
そんな効率の悪い行為は、もはや業務とは言えない。殆どの人が好ましく思わず、むしろ迷惑がっている実態があるなら、押し売りの部類である。クーリングオフ制度があるから、今も何とか許容されているだけだ。その制度がなければ、アポなしの訪問勧誘・販売は法律によって明確に禁止されるべきだろう。
一般的な世論にもっとも早く接すべき新聞屋たるものが、自らの情報配信事業に関してこれほどに鈍感であるならば、真実を語らないとか情報を歪曲させているとの謗りを受けるのも、あながち無節操な批判とは言い切れないのではなかろうか。
【追記】(9/25, 17:10)
この書きかけ記事を公開しようとした昨日昼のこと、こないだの若造とは別行動と思われた同新聞販売員がやってきた。
(暑くて玄関のドアを半開きにしていたため応対せざるを得なかった)
同じ会社の社員で営業所も同じと思われたので、彼には申し訳ないが、講読勧誘話を遮って、先日あったことについてすべて暴露して差し上げた。
この記事の写真にも使った契約書の控えは、先日朝のゴミ出しで捨ててしまっていた。しかし名前はうろ覚えしていたので、年齢や背丈格好などを伝えておいた。
彼は平身低頭し、当然講読勧誘どころではなくサッサと帰っていった。先日押し掛けた若造よりは年上に見えたので、彼の上司かも知れない。
彼が営業所へ帰ったら、あの若造は強引な勧誘手法について上司にさんざっぱら油を絞られる…ことは多分、ないだろう。
恐らく、一緒になって話のネタにでもしていることだろうか。
「Yクン。こないだ君はZ地区へ言ってギリギリの所で勧誘を断られたそうだな。」
「そうなんスよ。酷いヤツで…契約書にサインして判までついておきながら、そこで『カネは払えねえ!』なんて意味不なことほざいてやがんで…」
「ハッハッハ…まあそういうこともあるさ。気にすんな。」
ネタにされる前に先手を打って差し上げた。
だが、君たちがのうのうとしていられるのもあと数年だ。
テレビの民放と新聞配信社、週刊誌。
現代のニーズに対して無駄に多すぎる筆頭である。
いずれ待ったなしで淘汰の時代がやって来るから、首を洗って待つがいい。
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