すた・ばにら

すたは現実世界の私、ばにらは気ままに野山を駆けめぐる野ウサギ…

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ネット上に公開される各社発信のニュース記事を元に、気になった事件に関して論評しています。

殆どの記事の語り口調や批判は極めて辛辣です。
ホノボノ系な記事をお求めの方は、お読みにならないことをお勧めします。


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地元ネタですが、当局に再三申し入れしているにもかかわらず一向に対処されないので、そろそろ本気で実態を晒そうと思います。

不適切な動作をする信号機を放置しているため、道路渋滞が酷くなっているにも関わらず一向に対処されない場所があります。具体的な場所はここで、主要な市道が国道へT字に交わる場所の一つ手前です。

この市道は浜バイパスと呼ばれ、元来は国道190号のバイパスと位置づけられていました。しかし全通のめどがたっておらず市道へ格下げされています。そのため交通量は半端無く多く、終点の藤山交差点は県下一の交通量をもつ交差点として知られています。T字路にあたる西梶返も夕刻時は慢性渋滞状態です。

さて、T字路の一つ西側で古い道が横切っており、元々の道の往来を保障するためか押しボタン式信号機が設置されています。

この場所の押しボタン式信号機について、必要性に異議を唱える積もりはありません。こんな交通量の多い4車線道路を歩行者が安全に渡れる訳がない。それ位に交通量が多い場所です。しかし…押しボタン式信号機の動作が如何にも悪い。ボタンを押せば即座に反応し、前後の信号機や交通の流れをまったく無視して横断リクエストに対処しているのです。

どれほどドライバーに忌々しい状況を提供しているかは、以下のシナリオ通りです。
国道へ出る信号機は青です。それにもかかわらず押しボタン式信号機が赤のため、たった一人の横断者のせいでここで塞がれてしまいます。
しかもよく見ると自転車に乗ったままで渡っている…これは押しボタン式信号機の不適切な使用方法なのでやってはなりません[1]

イメージ 1


横断者が渡り終えたところ。
道幅のある場所の押しボタン式信号機なので、すぐには変わりません。そのうち前方のT字路の信号は殆ど有効に働かないままやがて赤に…

イメージ 2


撮影は交通量のやや少ない昼過ぎなので幾分状況はマシでしたが、夕刻ラッシュ時には殺伐としてきます。たった一人の人間の不定期な横断要請のために、市道は十数台の車が足止めを喰らわされます。この場所で停まり、先へ進めばT字路の信号も赤に変わったばかり。そこで右左折すれば国道筋の信号は概ね連動しているのでまた信号待ち…急ぐときでなくてもこのテンポの悪さにはまったくイライラさせられます。

歩行者は大事ですが、車だって同様です。誰が車社会を否定できるでしょうか。これほど酷い状況が一向に改善されないので、最近は自分で対処するドライバーが目立ちます。国道T字路の信号が青なら、押しボタン式信号機が黄色に変わった程度ではどの車もまず停まりません。赤でも前が通れば自分も突入…そんなのは日常茶飯事です。ドライバーにとっては「何でたった一人の奴の横断のせいで停まってやらねばならんのだ?」とでも言いたげです。もうむちゃくちゃ。

何がいけないのか、何をどうすれば良いのかはまったく自明です。赤で突っ込む車は明白な違反だし、かと言って邪魔だから押しボタン式信号機を撤去せよとも申しません。国道に準じて押しボタン式信号機を前後の信号に合わせた連動状態に修正せよと言っているのです。歩行者は「押しボタン式信号機を押したのに変わるのが遅い」などと文句を言ってはいけない。車も正当な交通整理を行っている信号を無視してはならない。ところが現状は市道の通行需要の重みをまったく勘案せず、完全に横断者偏重状態になっています。

数年前、歩行者・自転車に関する会合で交通課長と接触する機会があったので本件について尋ねてみました。「この押しボタン式信号機を連動設定にしないのは、国道ではなく市道だからですか?」と。実際はそうではなく、交通実態に合わせて設定していますとのことでした。市道でも実態に応じて変更する用意があると。

それで私はこの場所を例示し、非連動の押しボタン式信号機のせいで市道の流れが悪くなっていることを指摘して横断者・車の双方に公平となるような信号機動作の設定をお願いしますと上申しました。しかし現在もまったく変わっていません。

この市道には他にもいくつか押しボタン式信号機があります。アルク琴芝店前の押しボタン式信号機も同様で、押せば琴芝通りの信号機とはまったく無関係にすぐ反応するためドライバーからは大変に嫌がられています。しかし不思議なことに、県道琴芝際波線以東の押しボタン式信号機は同じ市道にありながらどれも早い時期から前後の交差点を考慮した動作設定になっています。まったく訳が分からない。どうして交通量が同じ市道なのに、非連動の押しボタン式信号機を残したままにしているのでしょうか。これはもう業務怠慢とも言える状況です。

なべて訳の分からない無駄な信号機が多すぎです。今朝のこと、こんな記事を見つけてきました。

勘違いしやすい信号機 各地に


これは酷い。もう論外です。何故こんな信号機設置が認可されたのかそっちの方が疑問になるレベル。

記事の中に「両方に信号機がつけば事故はなくなると思います」という、ハッキリ言って愚かな意見があります。まあ、確かに事故は減るかも知れませんが、一般には多すぎる信号機は交通渋滞を引き起こします。他に道があれば迂回を考えるし、いつ通っても流れが悪いなら、ドライバーはその道を避けて狭い裏道を通ったり先述のような自救行為的な運転をするでしょう。信号機の付いた場所が安全になることが保障できないばかりか、他の場所まで危険を伝播させるだけです。

昭和中後期のモータリゼーション隆盛期は自動車が最も偉く、車が最も効率的に移動できることが最優先の道造りがなされました。やがて道路を横断する学童の事故が増え、歩行者へ少しずつ目が向けられ始めました。通学路に押しボタン式信号機が取り付けられれば、地元在住民は「これで子どもたちも安心して登下校できるね」と喜んだものです。
しかし遺憾ながらそれは昭和の話です。平成の時代、もっとインテリジェンスの感じられる交通整理を行うべきです。歩行者・自転車・車の何処にも偏らない公平な交通整理をお願いしたいと思います。

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【追記】(2015/12/15)
この信号機は12月10日頃に通常時は黄色点滅状態となるように変更されています。西梶返交差点との連携がとれているかどうかはまだ観察していません。

1. この場所も含めて多くの押しボタン式信号機には、ボタンの近くに「歩行者専用」というタグが取り付けられている筈です。このような場所で押しボタンを操作し道路を渡りたいのなら、自転車の場合は降りて押し歩きし歩行者扱いとなることが必要です。自転車に乗ったままでボタンを操作して横断歩道を渡るのは押しボタン式信号機の不適切な使用です。
先にボタンを操作した別の歩行者が居たために車道の流れが停まったのを見計らって自転車で渡るのは問題ない

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もはや評論の余地もないほどに愚かな記事。

「イスラム国」に邦人2人の遺体引き渡し交渉を放棄した安倍首相の無責任

DAILY NOBORDER とやらいう聞いたこともない配信社だけど、今の状況でこんな記事をよくもまあのうのうと書いて公開できるなど、呆れるばかり。

個人的には、自分はまったく命の危険を心配することがない安全地帯に身を置いて無節操に口だけ攻撃やっているこの種のお気楽メディアが一番腹が立つ。炎上しても構わないから、とりあえずPV(ページビュー)を稼いでおけっていう会社の方針か、編集デスクの指示でもあったのだろう。

まったく…こうまでしてアクセス稼ぎたいんだろうか最近の糞メディアは。
お前ら情けねえよ。

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何を指す言葉においても、その外観や性質について一般的とされるものをもって定義されます。ヒトに関しては頭脳による思考をもち、五本指を有する手足でモノを扱ったり二本足歩行するなどです。
 
この「標準形」が大多数になればなるほど、そうでない外観を有する人々は忽ち奇異な目で見られます。酷く乱雑な表現で言えば、段ボール箱の中に大量に詰められているミカンの中に一つリンゴが混じっていれば目立つのと同様です。
 
「一つだけ異なっていて目立っている」と感じて視線を向けることは、ヒトのパターン認識の成せる業であり、それ自体は悪ではありません。ところが、一つだけ違っていて「奇妙だ」「不自然だ」「おかしい」などと考え始めると価値観が上乗せされますから、少しずつ歪んだ見方になっていきます。ましてそのことを言及し、あるいは行動に移すことによって歪みは決定的なものとなります。世は、この現象を「差別」と呼び、その特に顕著なものの一形態は「人権侵害」と呼ばれます。
 
こんな記事がありました。
 

男らしさ女らしさって… ありのままの自分でいたいのに

ヒトには男と女と一般的に呼ばれる性差があり、すべての人間はそのどちらかに属する(べきだ)と考えられてきました。中間体のような存在はかつてはまったく例外的で、それこそプラスとマイナス位に異なるものだという教育がなされてきた筈です。
 
そのように言い切れるのも、昭和期(厳密にはそれ以前の殆どすべての時代において)の教育は、一般的な形態を基準にしてそこから少しでもはみ出たり異なったりする外観や思考形式は、ただちに攻撃対象とされてきたからです。そのようなことを言い切れるのも、上記のニュース記事冒頭にあるいくつかの言葉でも充分な証拠たり得ます。読者とて、このような言葉を何度も聞いてきたことでしょう。
 
「めそめそ泣くな。お前オトコだろうが。」
「オンナの癖に料理が嫌いで、嫁に行けると思ってんのか?」
 
これは、男性は人前で涙を見せるものではなく、女性は料理が上手でなければ勤まらないというステレオタイプの代表格です。現代こそ大っぴらには語られなくなっただけで、今なおこの意見を肯定し、そうあらねばならないと考える人は少なくないでしょう。
 
そのすべての原因は、あなたがそう考えるようになった以前にあなたに吹き込まれた教育にあります。現代から考えればある意味、洗脳だったと言えるでしょう。
だからと言って、昭和期に代表されるようなこの種の教育法が完全な誤りではじめから排除されるべきものだったとは言い切れません。当時の世相として、団結心の強さが求められました。現在に比べて相対的に国が不安定であり、平和を脅かすものと戦うには、気持ちを一つにすることが必要です。この団結心の裏返しが、人と異なる振る舞い、更には異なる外観や思想すら否定的な目で見られた原因です。
 
昭和中後期になって国情が安定してきても、この種の教育はただちには変わりませんでした。個性を大きく伸ばすことを否定はされませんでしたが、相変わらず「人と異なることは悪」という染み付いた考えは容易には抜けず、学校や教師、保護者や目上の人などあらゆる前世代の人から同様の教育が施され続けました。私自身が体験したり、見聞きしてきた中で現代なら考え難い事例をいくつか挙げます。
以下は不適切な表現を多く含みますがご了承ください
 
・知的障害者は家の恥とされ、人に知られないように独房のような部屋に閉じ込めて外出させなかった。
昭和中後期において実際に見聞した
・小学校には知的障害児童専用の教室があり、「なかよし学級」と呼ばれていた。学童の間では馬鹿な振る舞いや考え方を指して「お前、なかよしに行けよ」などと平気で言い合っていた。
・私は湿った耳あか(遺伝子レベルの優性)で、全体としては少数派である。小学生時代はそのことを題材に「耳くそが気持ち悪い。あっちへ行け」と虐げられていた。
後に当該本人があれは言い過ぎだったと詫びている
・精神病患者も差別的な見方の対象となっていた。精神病院のある片倉病院を題材にして、頭のおかしい人を揶揄して「片倉行き」などと言っていた。
・中学2年生のとき、自分が日記を付けていることを知った級友が「オンナの交換日記なら分かるけどオトコが書くか?。気持ち悪い」と言われた。
・高校時代全体を通して、人と違うことをする自分に「お前トクシュ(特殊)か?」と心理的圧迫を加えられ続けた。これは誰に対してもまったく一般的に投げつけられる言葉だった。ここで言う特殊とは特殊学級、いわゆる学習遅滞児を教育する学級を指している。人の歪んだ性格はこうして形成され伝播されるという好例である。
・大学時代にケンタッキーへアルバイトに行っていた頃、よりによって肉屋のアルバイトなんか行かなくてもと親に言われた。遙か昔、肉をさばく解体業は穢多(えた)・非人に押し付けられていた職業で、いわゆる部落差別の流れと類を一にする。
・社会人になってからもオトコの癖に酒が飲めないとか有り得ないと、忘年会の席で飲酒を強要された。親自身、うちの家系は誰も酒に弱い奴は居ないから飲める筈だと主張する有り様だった。
物理的に飲めなくもないがこういう背景もあって今も飲酒自体が好きでない
 
一部は平成期に入ってからの事例もあり、私自身の体験をとっても人と違う振る舞いが如何に多くの人々に奇異に映り、更にそのことを面と向かって相手に投げつける習慣が横行していたかが窺い知れます。人生の長い物差しでみればほんの一瞬であり数少ない事例ですが、こういう言葉は確実に相手の感情へナイフの如く突き刺さります。そうなれば対象法は2つしかない…言い返せない自分を弱い存在とみてどんどん内向的になっていくか、弁術を磨いて攻撃してきた相手の出方や必要に応じて逆により強力な言葉のナイフで刺し返すかです。
幸か不幸か私は後年、後者に向かいましたが…
 
時代はすぐには変わりません。ゆっくりと変化しますから、現代においてもこの種の「人と違っているからおかしい」と指摘する現象は散発的にみられます。
例えば私は(Yahoo!アバターやプロフ写真で掲載しているように)髪を長く伸ばしポニーテールにしています。実のところ、高校生時代から髪を長く伸ばしたいという願望がありましたが、当時は校則があるしそれ以前に「少しでも人と違うと攻撃対象にされる」環境に置かれていました。
 
今の歳になって実行したのは、単純に昔できなかったことを今しているだけです。この先あと何年生きられるかも分からないなら、「やりたかったのに遂に実現できなかった」というのを無くしたい気持ちがありました。だから外観は奇異に見えるでしょうが、自分自身は「やりたいことができている」という事実だけで、心理的な圧迫から解放されています。何故に髪を伸ばしたいのかと問うことが無意味であることは以前にも書きました
 
昔なら「オトコの癖にポニーテールとか絶対有り得んわ。気持ち悪い。」と一斉攻撃されるのは確実です。幸い、今は古臭いことを言う人は誰も居ません。内心で気持ち悪いと思っている分は、どうぞご自由にという気持ちです。
その外観が奇特で不快感を与えてしまうかも知れませんが、不潔にしていて悪臭を放ち気分が悪くなるならともかく、視覚的外観だけで奇異を感じ思わず言及せずには居られなくなったとしたら、それは「あなたに施された昭和期の古臭い教育の成せる業」ですから、考えを改めることをお勧めします。
 
いつの時代も、変化に対応しきれなかった個体の先にあるものは、絶滅の二文字のみです。私は古き善き景観や風習を尊重し、継承したいと考え実行している身ですが、半面、悪しき昭和ないしはそれ以前の風習は、歴史的観点からの記録のみ遺し、悪習自体は後世に伝えず積極的に潰して行くべきと考えています。

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個人対個人、あるいは会社対個人でトラブルが起きたとき、一方に非がある場合はまず謝罪し、生じた損害を賠償します。損害の程度が迷惑をかけた程度に軽微なとき、負担にならない物品を持って謝罪にあがることは現代でも一般的です。詫びを言いに行くのに手ぶらというのも変な話だ…それでささやかなものだけど持参した、それ程に私は今回あなたに迷惑をかけたことを済まなく思っている…という誠実な気持ちを示す昔からの習慣です。
 
ところが玄関先で相手に持参した物品を手渡して謝罪するとき、こんな風に付け加えるのはどうでしょうか。
 
「菓子折を持って来たんだけど、甘いもの嫌いなら返してよ。
甘いもの好きな人のところへ持っていくからさ。」
 
まったく有り得ない話で、もはやギャグの世界です。まるっきり謝る気がないのが明白で、謝罪を兼ねた訪問はむしろ逆効果になるでしょう。
 
ところが…
この漫画みたいなことを地で行く謝罪をやってのける企業があるようです。それも片田舎の零細企業ではなく、東証一部上場企業、(株)ベネッセホールディングスコーポレーション9783)です。
 
こんな記事を見つけました。
 

「500円金券」か「500円寄付」か…ベネッセが繰り出したまさかのお詫び作戦

ベネッセによる情報漏洩事件は多くの人の知るところで、身の回りで実際に漏洩された方を幾人も知っています。私は該当者ではないのでまったく他人事でしたが、該当者には一律500円を迷惑料として支払う話は聞いていました。
上の記事によると、500円相当の電子マネーギフトか電子図書券のどちらかを選択できるようにしているようです。情報漏洩の代償が500円という水準について議論はありますが、受け取れるサービスの方法を選択可能にしている点に違和感はありません。
 
ところが個別に送達された文書には、こんなことが書かれていたようです。
 
「上記のおわびの品にかえて、別紙にてご説明しております『財団法人ベネッセこども基金』へのご寄付をお選びいただくことも可能です」
 
この骨子は、情報漏洩で迷惑をかけた弊社の社会的責任に鑑み、子どものための基金を作りたいので、500円分を財団法人への寄付という形も選択できるようにした、ということらしいです。
子どものための財団法人を作ることについては恐らく誰も意は唱えないでしょう。しかし大いに疑問な点は、寄付に関する次の一言に集約されます:
 
「何故に、今のタイミングで?」
 
被害者へ一律500円という、高くもない金額だけどキチンと詫びたいという姿勢が霞んで見えます。財団法人はまったく自前の組織なので、被害者へ支給すべき迷惑料を「要らないなら返してよ。基金に回すから。」と言っているも同然です。
 
財団を立ち上げ、必要だから寄付を募りたいという考え自体に問題はありません。いいと思うことは積極的にやればいい。しかしそれをやるなら、今回の情報漏洩に関する謝罪の件とはまったく切り離して行うべきものです。どうして情報を漏洩された当事者へ謝罪文を送る「そのついでに」財団基金の話を持ち出し、あれだったら500円分寄付してよみたいなことが平気で言えるのでしょうか?
 
まったく、君たちは頭がどうかしているよ。
 
一体、誰の発案で謝罪文書を送る中に財団寄付の話を盛り込もうなんて愚かな考えが通ったのでしょうか。実際、漏洩被害に遭った契約者に聞いてみたところ本当なら500円如きで幕引きをはかられること自体に納得いかないって方も相当あるのです。Yahoo!が以前にやらかし、そのとき500円だったから「情報漏洩の迷惑料は500円が相場」なんて勝手に決められても困るという声もあるのです。
 
まあ、個人情報についてそれほど重視していない契約者なら、500円如きでお茶を濁されてもあれだから寄付しますという方もあるでしょう。したがってある程度は財団基金の足しになる筈です。しかしその代償として、多くの契約者と私のような部外者に対して金銭的に算定できないこんな負のイメージを持たれてしまうことでしょう。
 
「ほら…ベネッセってそういうセコい会社なんだ。」
「およそ空気が読めていない…典型的な大企業病だな。」

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どんなに非常識で有り得ない話だろうが、密室内で行われることはすべてが正当化されます。如何なる批判や非難もまったく伝わらないし、変わりようがありません。
 
このことを端的に感じさせたニュース記事がこれでした。 

<都議会>一転「シーン」…騒然のヤジ飛び交う雰囲気も一変

一頃、結婚がどうのこうのという明白なセクハラ・野次で揺れた東京都議会の続編的記事です。さすがに野次は出なかったようですが、記事内容が正しいとするなら、この下りについて皆様はどのように感じられますか?
(以下引用)
 
> 与党会派を中心に野党の新人にやじを飛ばすのが日常となっていたが、
> この日は一様に沈黙。議員たちは自席で雑誌の記事に目を通したり、
> 隣席の同僚と談笑したり。
 
(引用終わり)
 
あの…本気でキレていいですか?
 
会議中に雑誌を読んだり、同僚と談笑するような方は
議員をお辞めになってくれませんか?
 
そう…
ふざけんな! この野郎!! って気持ちで一杯なのであります(にっこり♪)
 
どんな立場で議会に出席しているかって自覚がおありなのでしょうか?
曲がりなりにも都道府県民に支持され、地域住民の代表として出席しているんです。本当なら私たちが直接言いたいことが一杯あるんだけど、この国は議会民主制だから、非常に制限された人々の中から場合によっては「他に適任者が居ないから仕方なく」選出し、我々の意見を代表してもらっているわけであります。
 
議会へ出席している間は、当然ながら労働時間です。私たちの意見を伝え、他者の意見を静聴して持ち帰って頂くという業務遂行が求められています。議場で着席し、スマホをピコピコしてネトゲで遊ばせたり、退屈だからと雑誌を読んだり他の出席者と談笑させるために議会へ送り込んでいる訳じゃあないんですよ。
 
とりわけ他者が発言しているときは、それがどんなに自分の考えと相容れないものであろうが最後まで静聴する。そんなこと、幼稚園児だってきちんと躾けられているのです。それを思えば今までの野次なんてのは明白な妨害行為で、まったく論外
 
記事では野次がなくなったのを改善や進歩と言いたいんだろうけど、一般庶民から言わせれば野次なんてのは前々から「論外」なんです。あなたたちが非常識なのです。今まで許してきたわけではなく、メディアが内の世界を外へ伝えなかったから我々が分からなかっただけ。知ってしまったからには、もう絶対に許しません。
議会は各人の意見を擦り合わせる場であって、エンターテインメントの場ではありません。我々はそんなものに税金を充ててくれなどと頼んだ覚えもない。議会時間中に談笑とか新聞読むとか寝てるとか、そういう仕事する気のない議員は議長が退場を命じるべき。まったく恥ずかしい話。
 
下品な野次を飛ばして「野次は議会の華だ」とか嘯いてるのは、決まって昭和生まれのクソジジイ。こういう連中は、背後に多数の支持者がついているからという驕りがあって、何を言っても許されると勘違いしているらしい。有り体に言うと、我々は一日も早くこういったジジイが消え失せて世代交代が進むのを待ち侘びています。
 
このような議会の有り様は、他の道府県でも同様なのでしょうか。下手をすると、市町村レベルの議会でも。理想は、議場にマイクとカメラを常設して外部にリアルタイム配信することです。現在でも多くの自治体で議会の傍聴は可能ですが、議場内での撮影や録音が禁止されている現状があるなら傍聴は殆ど無意味です。誰かが非常識な言動を発しても「言った」「いや言ってない」の水掛け論に終わるだけ。
 
およそ常識的な議員の身であるならば、言動をリアルタイム配信されても何ら抵抗がないはず。また、議場において自らの発言に責任が持てる方でなければ、そもそも議員として不適格者です。一般庶民に政治へ関心を持ってもらうには透明性は絶対条件で、今の状況はなべて何処の自治体も密室協議です。
 
今の庶民、とりわけ若年・中堅世代は政治が常に「閉じられた空間」で進行しているのを理解しています。極めて重要なことだろうが、知らないうちに気が付けば完全に決定事項で異を唱える余地もない場合が殆どなので、何を言っても無駄だという無力感のみが漂っています。当然ながら選挙にも行かない、行くわけがない。身近な人を応援はできても、自分の意見が反映される訳ではない…それなら貴重な時間と労力の無駄だと考える人が居てもおかしくはない。
 
地元の市議会ならともかく、県議会ともなれば身近な存在には程遠く、雲の上の人々です。親近感はないし、ハッキリ言って何をしているのかもまったく見えて来ない。そんな存在感のない主体に、一体どうして興味を持てるものでしょうか。更には果たしてそれは本当に必要なのか?という意見が出て当然でしょう。現状の多すぎる議員数の割に成果が表に見えて来ないなら、削減せよという声が強まるのは当然であります。
 
なべて政治に無関心と言われがちですが、この場合の無関心には2通りあります。メンド臭くて考えたくないから全部他の人にお任せという無関心、大いに関心があるけど今のシステムに不満があって変わりようがない現状を知ると腹立たしいから仕方なく装っている無関心です。
 
言うまでもなく私は後者です。今ある大きな器の中で意見を唱えるシステムでは時間と労力の無駄だから、そんな虚しいことは初めから無視してもっと他の楽しいこと、少しでも実現の可能性があることを考えて自分一人でもいいから取っ掛かる方がマシだというのが私のスタンスです。

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