すた・ばにら

すたは現実世界の私、ばにらは気ままに野山を駆けめぐる野ウサギ…

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ダムや工業用水、道路、遺構なと個人的に心惹かれる「物件」を踏査し、写真と動画を交えたコアなネタをお送りしています。

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連載記事をブログで公開すると可読性が悪いので、現在は下書きおよび速報をFacebookで公開し本編をホームページに記述しています。
この書庫に掲載されている既存の記事もホームページ側に移植後は削除されます。
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こちらの記事 で懸念されていた地域SNSは、利用者減と市の財政事情を理由に閉鎖されました。
掲載していたローカル関連の記事は手元に原典があるので、一部は編集追記してホームページへ移植しています。

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この記事をはじめとする後続の連載記事は、最新の画像を元にしていない。特に本記事にあっては去年の3月に撮影されたものを中心に、最も古いものは10年以上前に撮影された映像から構成される。
 
今回の記事にあっては、新しい発見は何もない。今後の記事の導引編になると共に、未だ一度も現地を訪れていない方々のための紹介も意図している。
藪漕ぎを伴う踏査ができず、それ以前に梅雨入りで休日毎の雨天に見舞われる状況なので、ここ暫くは過去に撮り溜めたデータを元に記事構成することになる。ご了承頂きたい。
 
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厚東川ダムは、我が市内にある最も規模が大きく中核的役割を担うダムで、工業用水や家庭用飲料水の供給をはじめ、治水や灌漑、発電目的も兼ね備える多目的ダムである。
 
「Wikipedia - 厚東川ダム」
 
ダムの場所を示す。
 
 
 
厚東川ダムに関する予備知識は上記を参照して頂くとして、今後続ける予定の記事展開のために、当然ながら工業用水を意図した話に傾けることになる。
 
まずは現地へ行ってみよう。
 
国道2号の木田交差点から県道217号小野木田線を北上すると、次第に道は狭くなり、山腹部を目指すようになる。
河川敷から20mばかり登ったところで視界が開け、右手にダムが見え始める。ここには厚東川ダム管理事務所があり、見学者用の駐車スペースもある。
写真は一旦通り過ぎて振り返って撮影している
 
 
イメージ 1
 
 
駐車場から厚東川ダムが斜めに見える。
この写真は3年前の野山時代に撮影されたもので、現在もそう変化はない。
 
イメージ 2
 
 
これも3年前の映像である。
駐車場の真下に発電所および工業用水の設備がある。
左岸の様子に注目…まだ一昨年の大洪水を経験する前で左岸はみっしり雑木林に埋もれており護岸部も昔のままである
 
イメージ 3
 
 
ダム側から施設群を見下ろした映像。
ダム下部より用水が導かれ、発電建て屋に引き込まれている様子が分かる。
 
イメージ 4
 
 
下流側から撮影した映像。
駐車場敷地から施設群までの高低差は20m程度ある。殆ど垂直壁の真下に置かれているので、山肌はガチガチにコンクリートで固められている。
 
イメージ 10
 
 
さて、これは今年3月に訪れたときの映像だ。
たまたま平日だったせいか、敷地内にトラックが乗り入れられ、メンテナンスを行っている作業員たちの姿があった。
左岸の護岸の一部が壊れ修復作業が始まっているのが分かる
 
イメージ 5
 
 
駐車場側から見下ろす。
元から高所恐怖症な向きには、かなり頭から血の気が引く感覚がある。
2台のトラックが停まり、建て屋前に作業員が数人集まって作業手順の確認を行っていた。 
 
イメージ 6
 
用水は青い屋根の建て屋にあると思われるタービンを回し、位置エネルギーを電力に変換された後、この緩衝池へ吐き出される。
 
 
ズーム撮影。
物凄い勢いで流れ込んでいる。一般家庭の浴槽なら、1秒経たないうちに満杯にできる程度の量だ。
 
イメージ 7
 
 
駐車場からズームで撮影した音声つき動画である。
これは3年前の映像
 
 
 
 
怒濤の勢いで流れる用水の見かけとは裏腹に、二俣瀬発電所の発電量はそれほど大きくはない。深い山岳地帯にみられる発電所のような落差が見込めず流下量も少ない。元々、省エネルギー対策として昭和56年に企業局が設置したものである。
背後にある薄汚れた肌色のビルが厚東川発電所であり、こちらは宇部興産(株)の所有となっている。ここで生産された電力は、特高線と呼ばれる社有線を経て窒素工場へ送られている。
一連の設備群に関してはいずれ別途記事レポートを書くことになるだろう
 
さて、企業局の管理する発電所を経た用水は緩衝水槽から段差のある水路へ落とし込まれ、ギロチンを思わせる青いゲートから足元の山腹へ吸い込まれている。
 
ここが厚東川1期導水路の起点である。
 
隧道に吸い込まれた原水は、高い場所から低い位置へ移動するという物理的特性のみを利用し、動力に頼ることなくいくつかの中継地を経て工場群に向かっている。
 
 
可能ならあの作業員たちの立つ場所に行ってみたいのだが、言うまでもなく敷地内は関係者以外立入禁止になっており、最近始まった地元観光ツアーでも見学場所の対象から外されている。
 
 
ダム関連は昔から興味があり、最も古い写真は10年以上前に遡る。
これは駐車場から撮影した10年前の写真である。
 
イメージ 9
 
基本形は現在とあまり変わっていないものの、今となっては発電所建て屋の横から水が流れ出ているのが気になる。
ここ最近はこの場所から排水されているのを見たことがない。緩衝水槽の水位が高めなことから、余剰水を川に戻しているのかも知れない。
 
 
古い写真の紹介ついでに、同時期に撮影された水利使用標識。
確か事務所の道路側に立っていたように思う。
 
イメージ 11
 
10年前の撮影なので時代は既に平成だったが、設置されたのは未だ”平成”なる語がこの世に生まれる以前だったことが、許可期限の表記から理解される。
 
 
これが最も新しく、去年10月の映像である。
3枚上の写真とほぼ同アングルであるが、よく見ると左岸の管理道が拡幅され、護岸の復旧工事が始まっているのが分かるだろう。
この復旧工事のお陰で左岸へのアクセスが格段に容易になった
 
イメージ 8
 
 
思えば、1期導水路でまだ No.1 およびその近辺にある興味深いものを掲載していなかった。
続編でそれらを取り上げ、それから最近行われた左岸改修に伴う踏査記事を書いておこうと思う。
 
(「隧道水位計とNo.1点検桝」に続く)

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沖ノ旦計画【2】

(「沖ノ旦計画【1】」の続き)
 
No.29のある谷地には、他の点検桝は存在しない。
自分なりにそう結論し、次なる候補地に駒を進めていた。
 
 
地区道を下り、再び県道に出て沖ノ旦橋の方へ進む。
市道平原浜田線の交差点へやって来た。実は今回来るとき、この市道を経由してここまで来たのだった。
 
イメージ 1
 
 
次なる候補地として考えている場所と、その狙いを説明しよう。
 
以前、X氏によって No.20-1 および No.21 がもたらされたとき、結果的にそれは国土地理院に描かれた経路図から大幅に外れた場所にあることが判明した。
 
 
 
確かにこれは青い点線で描かれた導水路の経路から著しく外れている。しかし導水路が自然流下であるという事実に基づけば、修正された経路はむしろ極めて現実的である。コストのかかる隧道部分をなるべく短くし、かつ遠回りになり過ぎないルートが選定されている。
 
 
地図上にある No.27 から中山分水槽へのルートは、深く考えず書き込まれたような直線である。このルートが真なら、途中で顔を出す No.29 を除外してほぼ一本の長い隧道で抜けていることになる。
末信のケースと同様に青い点線を無視し、隧道区間を切り詰めるとすれば、こんな感じのルートを取っている可能性は…と思い始めたのだ。 
 
イメージ 2
 
 
即ち一旦宇部西高の裏の方へ抜け、岩田堤池から一つ尾根を隔てた谷地へ一旦顔を出し、No.29 を通る経路である。若干迂回する形になるものの、明かり区間があればそれだけ隧道の延長は短くできる。
現状の直線ルートだと隧道の延長が長くなるという問題の他に、岩田堤池に近づきすぎの気がする…通常は安全を見込んで水平距離を離すだろう
 
この経路を仮定した場合、No.28 として点検桝が設置される候補地は AB が考えられる。A は地区道のどん詰まり付近で、もっとも有り得そうな場所だ。他方、B はやや標高があるので桝の設置は難しいかも知れない。ただ、宇部西高の裏手に溜め池があり、分水を行っていた…という可能性から候補地に想定した。
 
もっとも有り得そうな A は、来るとき通った市道平原浜田線の終点から県道を横切り、谷地を目指す地区道の先になる。
今回の沖ノ旦計画は、元からこの谷地を攻めるのが目的だった。これに先だち No.29 のある谷地で見落としの可能性を潰しておきたかったために、空振りを覚悟で踏み込んだのだ。
 
 
さて、ここからが本番だ。 
駒ヶ坪農道という地元管理らしき道を進む。これは市道平原浜田線が県道を横切り、真っ直ぐ進んだ方向になる。
 
イメージ 8
 
 
ここは初めて通る道である。
この先は何処にも抜けられないことは地図で明らかだし、今回の踏査目的がなければ恐らく生涯訪れることはなかった場所だ。 
 
イメージ 3
 
 
進行してまず気が付いたのは、意外に幅のある深い谷地ということだった。
期待が持てそうだ。
 
イメージ 4
 
 
枝分かれする道から、谷地の一番奥を狙う地区道を進む。
どこかの民家で行き止まりになるのだろう。それは想定内だが、可能なら適当な場所にじでんしゃを留め置き、あとは山裾へ踏み込む腹づもりだった。
 
イメージ 5
 
 
そして一番奥の民家が見えかけてきたときだった。
やっぱり…という事態に遭遇する。
 
イメージ 6
 
 
民家の飼い犬が一斉に吠え始めた。
 
万事休すだ。
もうこればっかりは、ホントにどうしようもない。山裾に向かうどころか、その場に居合わせることさえ罪悪感を覚えてしまう。
”行き止まりの地区道の奥にある家は、けたたましく吠える犬を飼っている”というのは、日本全国における不変の法則のようだ。
No.13を極めようとしたときも…最近では東岐波のサヤノ峠を訪れたときも…) 
 
吠え止まない。当然だ。ワン公からすれば私など完全な不審者だし、なおも退去せずカメラを構えれば、目撃した地元住民ですら怪しい人物と考えるだろう。
 
 
引き返し際に撮影した、有望かも知れないと思われる谷地。
正面に見える丘陵部は、先ほど廃農機具小屋があったちょうど反対側あたりになるだろう。左手にある送電鉄塔が位置確認の参考になりそうだ。
 
イメージ 7
 
 
No.28 を仮定した A は、写真の左側に写っている民家の裏手付近になる。見たところ畑を横切らなければならないので、せめてこの空き地にちょっと立ち入って民家の裏手を遠巻きに眺めようかとも思った。
 
それも、あのワン公どもが吠えたてなかったらの話である。実際は上のワンショットを撮った後、足早に来た地区道を引き返す以外なかった。
 
結局、これ以上何の情報も得られなかった。
まあ、ここ沖ノ旦はそう身構えなくとも午後からの散歩で容易に来れる場所だから焦ることはない。
次回もう少し本腰を入れて踏査するなら、単純に地区道を進むのではなくどこか適当な場所で山裾に移り、上から見下ろす方が良いだろう。導水路の”蛇行説”を仮定するなら、比較的低い位置に例の標示板が見えると考えられるからだ。
 
この日は久し振りのじでんしゃ行きで、午後遅い時間に足慣らしでアジトを出たという状況であり、もう無理をせずそのまま戻った。
 
さて、1期導水路の点検桝を探り、経路の解明が進んだ現段階で、未だ点検桝も標識板も知られていないものは No.13 と No.28 だけである。この両者は数回に渡る攻略を受けながら、以前としてベールを剥がされていない。
 
真実はどうなっているのだろうか。
この記事を書いている途中で思い付いたことも含めて、列挙してみた。
 
(1) 仮定された場所に点検桝が存在する。
 
これは最も望ましいシナリオである。しかし可能性は五分五分より低いと思う。
 
(2) 仮定された場所に標識板のみ存在する。
 
これは (1) よりも可能性が高いかも知れない。隧道を掘削するときの明かり工区とされたものの、点検桝を設置する理由がないために標識板のみ設置して埋め戻されたケースである。
このパターンとなっているものとして、No.8 や No.23 が知られている。
 
(3) 当初は存在したが、他用途への転用などで廃された。
 
導水路が私有地を借用する形でその下を通っており、土地の所有者が現地を改変したために点検桝を維持できなくなってしまい廃された…というシナリオである。
No.13に関しては特にこのケースが疑われる
初めから存在しなかったことは有り得ないと考えたい。元から数十箇所ある桝を管理し、場所を特定するために番号を振ったのである。理由もないのに欠番にすることはないだろう。
 
この記事を書いているうちに、No.28 に限定すればもう一つのパターンがありそうなことに気付いた。
 
(4) 常盤用水路との交点付近に存在する?
 
No.27 は常盤用水路末信ポンプ所のある深い谷地にあり、ここを過ぎると導水路はすぐに山越えとなる。この区間の隧道は最大地被りが50m程度に達するため、一般に考えて点検桝が造られているとは考え難い。
 
しかし No.27 付近および常盤用水路のNo.1隧道に至るまでの間には、正体不明な分岐点がいくつもあることが早くから明らかになっていた。
 
 
これは No.27 付近にある未知の分岐である。谷地の奥に No.27 が存在し、手前の桝には”企業局隧道行”とペイントされているらしいことが第三次・末信計画によって明らかにされている。
 
イメージ 10
 
 
ただしこれが No.28 そのものである可能性は殆どないだろう。この桝がどういう役割を持たされているものかは未だに不明なのだが、1期導水路の本線から外れていることは明らかだ。本線はあくまでも先方にある No.27 を通過し、そのまま隧道に向かっているから、同系列のナンバーが振られるとは考えにくい。
 
 
もう一つ、この上部にある常盤用水路の分岐である。
これは去年10月、たまたま通水開始しているときに訪れて撮影されたものである。こちらの縞鋼板の蓋には”企業局No.1入口”とペイントされている。
 
イメージ 9
 
分岐部分は特に塞がれることはなく、夾雑物が入り込まないように簡素な網が張られているだけだった。ただし用水は分岐の方へ流れ込む様子はなかった。
 
この桝自体も No.28 である可能性はないだろう。しかし桝蓋にある”企業局”の文字は、言うまでもなく1期導水路の管理主体を指しており、関連性があることは明らかなのだ。
 
一連の構造物の位置関係を図示しておこう。
 
再び、第三次・末信計画からのイラスト引用である。
これは現時点で調べ上げられた範囲での構造物と、それらの推定される経路である。
 
イメージ 11
 
 
常盤用水路と1期導水路が何らかの形で用水をやり取りしているのは明らかなものの、具体的にどのような経路で、どういう用水の流れがあるのかは分かっていない。
そこで例えばの話だが、
 
No.27のすぐ先に常盤用水路から1期導水路へ
用水を渡す未知の接合桝があるのでは?
 
という可能性はないだろうかと考えたのだ。
 
No.27 から先は詳しくは踏査していない。物理的には No.27 と”企業局No.1入口”は数十メートルも離れていない筈だが、現地は酷い藪かつ急斜面で、今まで直接往来したことがない。とりわけ、常盤用水路へは容易にアクセスできる道を確保しているものの、No.27 のある谷地は(末信計画を熟読された読者なら同意して頂けるだろうが)通行人を襲う飼い犬あり、私道につき立入禁止の立て札ありなどと、気軽には行きづらい場所なのである。
 
ここに未発見の桝があり、それがまさに No.28 という劇的なシナリオは有り得ないだろうか。
案外、No.27 から極めて近い場所、山の斜面に眠っていないだろうか。
 
現在のところ、これは一つのシナリオに過ぎない。具体的に検証するなら、常盤用水路および No.27 の谷地を詳しく踏査しなければならない。そして遺憾ながら、今の季節は藪漕ぎを伴う現地踏査に向かず、今年の秋以降まで待たなければならない様相である。
 
元から No.27 のある谷地は行きづらい場所であり、最後の最後まで遺されていた背景があった。
取り残された困難は、やはり充分に解明しきれていないあの場所に逃げ込んでいるのだろうか…と思われた次第であった。
No.28 の存在とは無関係に”企業局No.1入口”と”企業局隧道行”の桝がどのような経路で接続されているかは、解明を要する一つの課題である) 
 
本件に関して現時点で遂行できることは少ないが、また新たな情報が得られたなら追記するし、場合によっては「第二次・沖ノ旦計画」などと称して記事を書くことになるだろう。
 

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沖ノ旦計画【1】

(「改修されたNo.29点検桝」の続き)
 
No.29の撮影後、私は桝から想像される導水路の位置と線形を頭に入れつつ、更に谷地の奥を目指した。
無駄とは知りながら、どうにも納得できない踏査対象を極めるためだった。
 
イメージ 2
 
 
その筋の方なら、前編の記事に貼られた地図を一瞥するだけで何がターゲットにされているのか想像がつくだろう。
 
No.28の所在が未だ知られていない。
 
先ほど訪れた桝が No.29 であることは常盤用水路の踏査時代から判明していた。常盤用水路の末信ポンプ所奥にある桝が No.27 と分かったのは最近であり、このことから No.28 が抜け落ちていることに気付いた。
 
 
直線的に描かれた国土地理院の経路図を正直に解釈するなら、存在すると考えられる No.28 は、この先にある岩田堤池の手前に見つかる可能性が高い。
 
イメージ 1
 
 
岩田堤池から流れ出る用水は、狭い谷地を伝い地区道に沿って流れて中山川に到達している。そのため導水路は何処かで小川を横断することになる。No.27から岩田堤付近は完全に山越えとなっており、間違いなく隧道一本で抜けている筈だ。そうなれば比較的地被りの浅い場所は上の地図の■印あたりしかない。
 
一筋縄でいかないのは、この場所が既に最低2回踏査済みという事実があるからだ。いや、No.29 を訪れる機会があったときは必ずここを探索しているとも言える。そのすべてが空振りであり、未だ特定できていないのである。
現地へ向かうのはこれで3度目だが、赴く前から99%ここにはないと考えていた。今まで行った2度の踏査が不十分で、うっかり見落とされていた…というケースを潰すのが目的で、既に他の候補地も考えていた。
 
本件「沖ノ旦計画」の目的は、純粋に No.28 の位置を求めること。
それに尽きる。
 
No.29 から更に小川を遡行すると、次第に家並みが減りうらぶれた廃屋が目立つようになる。車の乗り入れも殆どなくなったせいか、アスファルト舗装路も荒れていた。
 
最後の廃屋で小川は直角に曲がり、そこから先は畦道クラスの細い踏み跡になる。ここから先は常盤用水路の経路踏査にあっては必ず通ることになる馴染みの道なのだが、初めて訪れたときは何とも異様な雰囲気で、先へ進んで良いのだろうかという迷いすら過ぎってしまうような場所だった。
 
 
その畦道へ入り、振り返って撮影。
小川の流れに合わせて、畦道もそれなりに高度を上げている。この場所で最後に見送った廃屋の屋根程度の高さだ。
 
イメージ 3
 
 
この高低差は頭に入れておくべき要素だ。
先に訪れた No.29 の位置からすれば、いくら No.28 が上流側にあろうと、それほど高度を上げる筈がないからだ。この先に本当に存在するなら、どこかで高度を下げる場所がなければならない。
 
 
水路に沿って谷地を上っていく。
その先には、私からすればもう見飽きた分岐点があった。
 
イメージ 4
 
 
腐った耕耘機(?)が放置されている。
水路はここで軽く右へ曲がっており、それとは別に左の小さな谷地へ向かう踏み跡があった。
 
イメージ 5
 
 
常盤用水路を尋ねるなら、更に小川へ沿って岩田堤池を目指す必要がある。しかしその方向は高度を上げるばかりであり、また地図上の表記からみても No.28 が見つかる可能性はない。
そもそも、現在いる場所からして高度を上げすぎなのだ。
 
 
振り返って撮影。
緩やかな勾配なので分かりづらいものの、この場所は先の廃屋から既に5m程度は高いだろう。
 
イメージ 6
 
 
取りあえず左の分岐を進む。この分岐も小さな沢に向かっていた。
 
点検桝があるなら、この近辺より更に高い場所はまず有り得ない。さもなければその桝はとてつもなく深い竪坑になってしまう。それほど深い点検桝は一つも知られていない。そのような場所には桝を造らず、隧道で通してしまうものである。
 
 
じでんしゃも乗り入れられない道になるので、この先は徒歩だ。
ちょっと高い位置から見下ろしている。
 
イメージ 7
 
 
この先一段高い畑のすぐ横に、農作業小屋らしきものがあった。
 
イメージ 9
 
 
小屋の左横に弱い踏み跡があり、小さな沢へ向かっていた。かなり藪が酷くて気乗りしなかったものの、一応行けるところまでは踏み込んだ。恐らく何年も昔に耕作放棄された田であるらしいこと以外、何の情報も得られなかった。
 
 
廃屋がある上の段の畑から振り返っている。
じでんしゃを置いて歩き始めた場所から垂直高で3m程度高い。いくら何でもこれほど高度をあげているとは思えない。
 
イメージ 8
 
 
周辺の谷地もくまなく調べたが、全く見つかりそうな様子がない。そもそも、畑仕事に来るらしい人の踏み跡と資材はあるものの、桝のメンテナンスに携わる要員が踏み込んだ匂いが全くしないのである。
左岸に見つけた No.11 だろうと末信で報告された No.21 だろうと、いずれも周囲にコンクリート水路など、人の手が入った形跡が観測された。そういった種のものに全く出会うことがなかった。
 
結論だ。
 
この谷地には、No.28は存在しない。(はずだ)
 
ダメとは予想していたが、やはり何らの手がかりも得られなかった。この場所での存在の可能性を限りなくゼロに近づけたことを成果と考える以外なかった。
 
もっとも、ここを訪れる前から可能性のある次の候補地が頭に入っていた。この場所にこれ以上拘泥せず、さっさとじでんしゃを引き返したのだった。
 
(「沖ノ旦計画【2】」に続く)

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改修されたNo.29点検桝

久し振りに復帰する。
 
ちょっと時間を必要とする別作業があって、コチラの更新が手薄になっていた。お詫び申し上げる。
 
さて、今や5月も下旬。藪漕ぎ必須な一部のテーマ踏査には甚だ不都合なシーズンになってしまった。野山は雑草が謳歌し、そこは蛇や毛虫たちにとっては居心地良い楽園である。我々は、よほどの理由がない限り彼らの安住の地を蹂躙してまで先を追い求めようとはしない。そこまで労力を払う気力も理由もない。
 
今後暫くは、今まで撮り溜めた画像などのデータを元に記事を書くことになるだろう。実際の踏査から1ヶ月以上経ってしまったが、再び山行きに好適な涼しい時期が来たときのために、この踏査レポートを記録しておくことにする。
 
取り組むべき宿題が残っているのである。
 
---
 
今回の舞台は1期導水路の主要中継点の一つ、中山分水槽がある中山および沖ノ旦である。
市内在住の方以外は訳が判らないだろうけど詳細な場所説明は割愛する
 
厚東川左岸の山腹部を進んでいた導水路は、不動尊のある No.26 を過ぎた隧道で次の谷地を目指す。そして常盤用水路の末信ポンプ室がある谷地の No.27 を過ぎると、一気に内陸部をめざし、隧道一本によって中山分水槽に至る。
 
国土地理院の地図表記は、概ね現状を正しく反映しており、実際の点検桝も既知の分に関してはほぼ推測通りに存在していた。以下が推定される経路図である。
 
イメージ 1
 
 
地図には描かれていないが、中山分水槽から先も平原配水槽まで二条化されたサイフォンおよび隧道よって通じている。
末信接合井から中山分水槽までもバイパス管が布設されており、現在は両者を適宜切り替えつつ補修作業を行っているとされる。
薄いピンク色の経路は全くの想像であり経路が公開されている訳ではない
 
以前、温見計画を実行した同じ日のこと、たまたま末信方面を訪れていたX氏はその後中山へ戻り、No.29 のある地区道へ分け入ったようだった。そして点検桝が改修されているという報告をもらった。
先月の17日、私はこの後で予定している「沖ノ旦計画」に先立って、同じ方向にある No.29 の最新写真を取得するために訪問対象箇所に組み入れた。
 
 
No.29 は、県道琴芝際波線から地区道をかなり山手に入った場所にあり、あらかじめ地図で確認するなど予備知識がなければ普通まず見つけることはできない。
それにもかかわらず、No.29 の存在自体は1期導水路踏査のごく初期段階から判っていた。
1期導水路以前から行っていた、同じ水系踏査の魅力的なテーマである常盤用水路の経路が同じこの地区道によって導かれるからだ。 
 
イメージ 2
 
 
常盤用水路のNo.1およびNo.2隧道を初めて極めたとき、この地区道をじでんしゃで乗り入れた。そしてその時から全くの予備知識なしに、No.29を見つけることができたのである。
 
 
谷地が狭くなり、地区道は軽い登り坂に向かう。
 
イメージ 3
 
 
まだこの辺りにも家が散在し、小さな集落を形成している。
天気がいいせいか、井戸端会議が進んでいるようだ。
 
イメージ 4
 
 
接近する前にちょっとズーム撮影する。近くにお住まいの方々だろう。
地区道の端に座って雑談をなさっていた。No.29桝は、坂を登り切った目前の井戸端会議場(?)のすぐ右手に存在する。
 
イメージ 5
 
 
いくら私の撮影ターゲットが一般人から見て奇特であろうと、改修後の現状データ採取も目的の一つとしてじでんしゃを乗り入れたのだ。臆することはない。
 
 
サッと乗り込み、じでんしゃを降りる。
お二方はチラリと一瞥を加えられただけで、そのまま雑談を続けられていた。
 
イメージ 6
 
 
まあ、私があの桝の方へ歩んでいった様子から工事業者だと思われるだろう。
それにしては業者名の入った軽バンではなくじでんしゃで来たというのも何か不自然な話であり、正直やりづらい。
 
 
桝の上部がおよそ1m程度打ち継ぎされている。
もう少し追加の作業があるのだろうか、桝の前にはセフティコーンとコーンバーが置かれていた。
「入ってはいけません!」のタグはゼスチャーに過ぎない…w
 
イメージ 7
 
 
打ち継がれたコンクリートがまだ新しい。
いわゆる「豆板」も少なくなかなか良い現場打ちコンクリート施工と思う
 
桝蓋は流用されたようだ。
側面には足掛け金物も取り付けられている。これが必要ということは、どうやら周囲に土を盛る予定はないらしい。
 
イメージ 8
 
 
これは改修前、去年の5月に訪れたとき撮影した映像である。
このときはまだ隧道の補修作業中で、通水は停められ、吸気・排気用のホースが内部に引き込まれていた。
 
イメージ 10
イメージ 11
 
 
導水路は、地表部の約2m下を通過している。
写真で見る限り、この地区道と小さな川を斜めに横断しているようだ。
 
当然起きる疑問だが、どうして桝が飛び出るほど上部を打ち継ぎをしなければならなかったのだろうか。
この改修は、以前に踏査した「改修された中山サイフォン」と関係があるようにも思える。あのサイフォンも上部が打ち継ぎされ、その部分まで用水が上昇していた。
 
吐け口側のレヴェルを上げれば、当然呑み口側も同等に上がることになる。流下レヴェルが上がれば、隧道部分は呼び径一杯に用水が満たされつつ流れることはできるが、土被りの薄い場所に設置された点検桝は上部から溢れ出てしまう。それを見越して桝の上部を打ち継いだものと考えられる。
 
 
ここより上流部にある桝もすべて打ち継ぎ施工が必要かといえば、必ずしもそうではないと思う。例えば上流にある No.27 は、初めて現地へ訪れた時点で改修が済んでいた。ここは当初から竪坑の深さが3m程度あった。
写真は去年の6月に撮影された No.27 の内部
 
イメージ 12
 
 
また、導水路自体も1/1300(約0.77パーミル)の勾配をもっているので、No.29 から1km程度離れた No.27 では経路全体によって高低差が吸収されるだろう。
 
 
現地でパシパシ写真を撮る私に頓着せず、お二方は淡々と井戸端会議を堪能なさっていた。
 
イメージ 9
 
 
最後に私はこの経路が現在生きているか - 用水が自然流下しているか - を確認したかった。
しかしどう見ても専門業者の出で立ちには見えない私が桝の上に登れば、あのお二方の冷ややかな視線が向くのは自明で、自重せざるを得なかった。
 
 
カメラをポケットへ仕舞い込むと、私はじでんしゃに跨りお二方の前をサッと走り抜け、更に奥の谷地を目指した。
 
どうにも引っかかるものがあったからだ。
それはもしかすると一部のコアな読者と共有可能な疑念かも知れない。
 
(「沖ノ旦計画【1】」に続く)

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さて、時間を巻き戻さなければならない。
一連の写真を撮る前に、気になるものを見つけてある場所へ立ち寄っていたのだ。
 
 
これは今からお伝えしようとする該当物件の踏査を終えた後、第1二ノ瀬橋りょうへ向かう直前である。
 
イメージ 1
 
 
更に大きく時間を巻き戻し、私が現地でこの物件に初めて気付く直前にまで時間軸を移すことにしよう。
 
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自転車での進入が問題ないと確信した後、私は既に見えかけているあのコンクリートのジャングルジム目がけて農道を進んでいた。
農道は田の畦畔に沿って伸び、用水路と共に本線の築堤へぶつかったところで直角に右へ折れていた。
 
イメージ 2
 
 
ん?
何か藪の中に怪しいものが…
 
用水路の左側は民家の敷地らしく、畑にコンポストなどが置かれている。その裏手はすぐ本線の盛土で、激藪の主たちが我が物顔で蔓延っている。
そこに黒々とした穴がぽっかり空いているのであった。
  
当然、自転車を停めて接近した。
 
 
隧道らしき坑口が見える。いや、本線の築堤だから、多分立体交差だろう。
しかし坑口の前には樹木が育っており、周囲もかなり草木に蹂躙されている。正体が何であれ、廃モノの臭いをプンプン漂わせていた。
 
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農道も用水路もまったくその隧道に頓着する素振りがなく、坑口を蹴って第1二ノ瀬橋りょうに伸びている。
 
何か事情を隠し持っていそうだ。
 
 
坑口は、この農道とは繋がっていない。線形的には今まで進んできたまま直進すればこの隧道にぶち当たる。しかし用水路には橋が架かっておらず、ここから直接到達する手段がない。
用水路の幅は3m以上…ジャンプでとても飛び越せるものではなかった
 
この時点で探ってみたい気持ち半分、放置して取りあえずお目当てのジャングルジムに向かおうという気持ち半分だった。坑口前の藪が酷い上に、そこへ到達するには、あの民家の畑裏をお邪魔する以外なかったからだ。
5月入りして急激にケムシ類が増えたことも気持ちを萎えさせた…なるべく木々の下や草地を歩きたくなかった
最終的には、滅多に来ることができない場所へ自転車で遠出しているという点が踏査を後押しさせた。
 
農道を少し戻ったところに、用水路を渡ってあの畑へ通じる簡素な石橋があった。恐らく民家の方が架けたのだろう。そこをサッと渡り、畑に足を踏み入れないように水路のコンクリート壁上を伝って隧道に接近した。
 
 
坑口へ到達。
コンクリート製とも思われたが、どうやらモルタルを塗っただけのようだ。下地の赤レンガが既に露出している。 
 
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足元の草木を蹴散らし、少しでも覗き込みやすい右側へ移動する。
接近前から分かっていたように、内部は閉塞しているらしく明かりが見えない。西日の差す時間帯で坑口とは真反対に太陽が位置するせいか、未だ内部がどうなっているかは分からなかった。
 
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隧道好きなくせに、中を覗き込むのは正直あまり気持ちは良くはない。
特にこの隧道は何とも言えぬ薄気味悪さがあった。
奥からは全く明かりが漏れず、完全に閉塞しているようだ。
 
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更に草木を掻き分け、やっと正面に辿り着いた。
自分の身体が影にならないよう少し身をかわし、外からの光を取り込むように工夫して撮影した。
 
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内部は赤レンガの全巻きだが、こちらから見て出口付近の数メートルほどはコンクリートで継ぎ足されていた。突き当たりの構造がどうなっているか分からないが、石垣のようなものが立ちはだかっているようだ。 
 
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天井部分。
目地モルタルのアルカリ分が流れ出て白化している。黒い部分はカビか物を燃やして発生した煤が付着しているのか判然としない。
 
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手前はまだしも、内部の奥へ進むにしたがって足元のゴミが酷かった。なるべく観たくなかったし、撮影するときもカメラの視野から意図的に外した。
 
先が閉塞している以上、この隧道部分が廃されているのは明らかだった。それも正直な話、廃された後は惨めな顛末を歩まされたように感じた。
天井のレンガが古びているのは歴史を物語る経年変化だから受け入れられるとして、足元に転がるゴミの山は見苦しいだけだった。それも殆どが黒こげだったり灰と化していることから、焼却炉代わりにされていたらしい。
 
カメラを背けたのは、ファインダーから汚物を排除したかっただけではない。縁起でもない話だが、レンガのアーチ内に黒々とした燃えかすや灰が積み上がっている状況は、火葬場の炉を連想してしまうからだ。実際、足元の焼却灰をガサゴソやっていたら、人骨が出てきそうな禍々しい雰囲気だった。
岩鼻にある宇部線の旧経路橋台跡も近所の家の焼却炉代わりにされて黒こげ状態…かくも遺構というものは粗末に扱われてしまう運命なのだろうか…
 
それ故に一番奥まで踏み込もうという気力がまったく湧かなかった。
どのみち閉塞しているのだから、ズーム撮影する。
 
 
その写真は真っ黒なので、明るさ補正してみた。
奥の方でレンガ巻きはコンクリートに変わり、そこで手前にせり出た石積みに突き当たって終わっていた。
 
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この石積みに何の意味があるのか分からない。
後から塞いだのなら、間知石の目地にモルタルを充填するなんて丁寧なことをする筈がない。水抜きのパイプが見えるから、当初からあった石垣だ。
 
そうなると、このアンダークロスの通路は石積みにぶちあたる形で造られていたことになる。コンクリートの延伸部分は精々2〜3mだから、隧道を出てすぐの場所に石積みがあれば、一般車は通れない。元から精々、農作業のトラクターを通す程度の設計だったようだ。
 
 
いずれにせよ、長居したくなる場所ではない。
熟考するのはアジトへ戻ってからにするとして、最後に動画撮影だけ敢行した。
 
 
 
現地ではこの後すぐに農道まで戻り、お目当てのオーバークロスを眺めてきたのであった。
帰るときはもはや一瞥さえ加えなかったが、何の目的であの隧道が設置され、廃されることになったのか自転車を漕ぎつつ少し考えた。
 
最初に考えたのは、第1二ノ瀬橋りょうが造られる以前の農道跡ではないだろうかという推測だった。
それと言うのも農道はあの隧道手前で右へ折れていて、用水路さえ気にしなければ、素直に直進すればちょうど隧道の線形と一致する。
第1二ノ瀬橋りょうを造るために本線の盛土部を切り崩し、3階建てのコンクリートのジャングルジムを完成させた…大型ダンプでさえ通れそうな幅と高さの道が出来たので、農道を付け替えた…車が通れないあの隧道が不要になったので用水路を跨ぐ橋を取り除き、隧道部も廃された…というシナリオだ。
 
このシナリオは、廃隧道の行く先に出口があり、今の第1二ノ瀬橋りょうがある場所には道も何もなかったなら成立するだろう。
しかし必ずしもその通りではないということが、現在の航空映像および昭和49年代の映像から判明した。 
 
例によって、昭和49年度までタイムスリップしてみることにする。
 
「国土画像情報閲覧システム - 小野田市千崎西付近の航空映像」
 
第1二ノ瀬橋りょうが竣工したのが昭和43年であることを反映して、航空映像では既に今の形ができている。塩梅良く、3線を厚狭方向から小野田駅に向かっている貨物列車が疾走しているのが見える。
例の廃隧道がある一番近い場所の民家は既に姿を現している。県道は対面交通だし、もちろん山陽自動車道は見えない。しかしその他は意外に昔からさほど変わっていないようだ。
 
問題となる廃隧道付近も現在とあまり変わっていない。本線の下を横断した隧道の行き着く先は、明白な地山である。どう見ても同じ高さで田畑が広がっているようには見えない。
しかしそうなると、あの廃隧道の存在意義が理解できない。出口のあてもない山に向かって立体交差用の隧道を設置するわけがないのだ。
 
航空映像では見えないだけで、あの先には歩く人ならどうにか抜け出られる山道があったのではなかろうか。閉塞した先に見えた石積みがそのことを示唆している。
 
恐らくはあの場所には、昔から慣習的に通行されていた里道(赤線)が存在したのだろう。本線が敷設されることになった明治期において既に”勝手に潰すことができない経路”と認識され、レンガ巻きの隧道を造って通行に供されたのだろう。
 
些か決め手に欠けるが、以上が現地で撮影した写真および手にすることのできる映像資料を元に、私なりに推測した結果である。
 
歴史的に見れば、レンガ巻きの廃隧道が第1二ノ瀬橋りょうより一時代以上も昔の遺構であることは確実で、時代の下った今、その生い立ちをつまびらかにすることは恐らく絶望的だろう。
もしかして坑口の壁面にプレートがあるかも知れない…しかしそのためだけに再度あのゴミ焼却炉的な遺構を訪ねるというのは…誰が手掛けるだろうか
 
 
すべての踏査を終えて農道を戻り、来るとき目に着いた庚申塚のところへ自転車を停めて小休止した。
 
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明治期に鉄道が通され、人々および物資の大動脈を担ってきた山陽本線。
そして昭和期の高度経済成長期の要求に応え、ここ千崎西という地に巨大なオーバークロスを造る工事が進められた。
今でこそ静かな農村地帯だが、昭和40年代初頭は資材を運ぶ大型車が行き交い、重機や作業員が終結し、巨大なジャングルジムを創り上げるドラマがあった。その裏で、人知れず静かに眠りに就く遺構もあったのだ。
 
ジャングルジムに背を向けてはいるものの、この庚申塚も明治期に鉄道が通じ、あの巨大なオーバークロスが造られ、平成の時代を迎えて貨物輸送が廃されるまでの経緯を静かに見守ってきた筈だ。
 
また、ここに訪れることがあるだろうか。
私が訪れなくとも、貨物列車が通らず不要となったオーバークロスの最上段部分は今後もずっとその姿を遺し、私以降の人々に歴史を語りかけてくれるだろうか。
 
背を向けて自転車のペダルを踏み込み、市道を走り去るその時にもジャングルジムを潜る列車は、遺構の存在も意識せず軽いレール音を私の耳まで届けつつ走り去って行ったのだった。
 
 

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