すた・ばにら

すたは現実世界の私、ばにらは気ままに野山を駆けめぐる野ウサギ…

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ダムや工業用水、道路、遺構なと個人的に心惹かれる「物件」を踏査し、写真と動画を交えたコアなネタをお送りしています。

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連載記事をブログで公開すると可読性が悪いので、現在は下書きおよび速報をFacebookで公開し本編をホームページに記述しています。
この書庫に掲載されている既存の記事もホームページ側に移植後は削除されます。
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こちらの記事 で懸念されていた地域SNSは、利用者減と市の財政事情を理由に閉鎖されました。
掲載していたローカル関連の記事は手元に原典があるので、一部は編集追記してホームページへ移植しています。

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農道が本線の下を直角に潜り込む場所に、コンクリート造りのジャングルジムが聳えていた。
自転車を農道の脇へ休ませ、カメラを構えてみる。
 
 
塩梅悪いことに、ちょうど逆光だ。
しかもターゲットが巨大過ぎて、農道からではワンショットに収まらない。
 
 
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逆光を避けて一旦ジャングルジムを潜り、反対側へ出た。
 
 
農道は更に先へ続いており、通行車両もあるのかそれほど荒れていない。しかし鉄道側のコンクリート擁壁の内側は、本線が現役で走っているのに草木の荒れ具合が半端ない。
 
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すぐ近くに階段でもあれば上からの眺めを撮影したかった。
コンクリート擁壁の高さは背丈を遥かに超えているし、何よりもあの激藪状態の中を漕ぐ意欲が全然湧かない。
 
おとなしく引き下がり、まずはコンクリートのジャングルジムを眺める。
 
 
高い。とにかく高い。
1階部分の高さだけで既に民家の軒先くらいある。全体として3階建てアパート程度の高さはありそうだ。
 
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遺構とは言っても廃されている部分は、最上段のクロスオーバーする貨物用単線の部分だけである。元々、農道と用水路が横切る場所なので、クロスオーバーがなくとも本線はここを橋で跨がなければならない。
コンクリート部分は比較的新しい感じがする。日頃から厚東川1期導水路なる昭和初期のコンクリート構造物を見慣れているせいか、ずっと近代的だ。
 
 
上部に銘板が取り付けてある。
あんな高い場所まで行く手段などないので、ズームで窺うしかない。
 
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頭上にデジカメを高く差し出し、不安定でブルブル震える両腕をなるべく安定させて最大ズームで撮影した。
 
第1二ノ瀬橋りょうという名称が付けられていた。
竣工は昭和43年だから、本線に係る構造物としてはかなり新しい部類だ。
  
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昭和43年と言えば、山陽新幹線が竣工したより数年前のことである。橋脚の構造などを見れば確かに共通するものがある。
そうは言っても本線が通されたのは明治時代にまで遡る。実際、当時からある構造物はいずれも赤レンガ積み構造が標準だから、元からあったものを壊したか新規に造ったと考えられる。
 
進行するとき、農道への進入を制限する立て札に二瀬川農道組合長という文字が見えていた。この橋梁の名称から推測するに、跨いでいる小川か近辺の小字が二瀬(あるいは二ノ瀬)という名称なのだろう。
 
 
本線上部の構造は、長方形の箱をずらして上下線に並べた形になっている。貨物船はその上を斜めに横切っており、この様子は航空映像からも観察できる。
 
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再び幼少期を辿るので記憶違いがあるかも知れないのを断った上で、もしかすると私は最上段の貨物線を走る列車に乗ったことがあるような気がする。
 
厚狭へ行くときは宇部駅で乗り換え、本線の4番ホームまで陸橋を渡っていたものだった。しかし偶に陸橋を渡らず、向かいの1番ホームで乗った記憶がある。あるいは宇部からの直通だったかも知れない。
 
およそ電車らしくなく、まるでバスみたいな音をたててホームに待機していた。思えばあれが初めて気動車に出会った体験だった。それまで自分の中ではレールの上を走る電車は、ウィーンという音と共に加速するものだったからだ。
そして確かこの列車に乗ったとき、いつものコンクリートのジャングルジムを潜らずに厚狭へ到着した記憶がある。数十年も前なので勘違いがあるかも知れない。
 
あれから数十年後…
まさか大人になった私が、当時よりももっと鈍足な自転車という手段でこの場所まで写真を撮りに来ようとは…
そしてまた、自分の手でカメラマン気取りに現地を撮影し、新聞記者の如く記事を書いて発信することになろうとは…
 
 
傾きつつある西日を背中に受けて撮影する。
本線の上り線側は用水路と農道を足した幅を跨いでいるのに、下り線側は痩せている地山を手前から跨いでいるために、奇妙な空洞ができていた。
 
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コンクリート柱の太さは(測っていないが)およそ1m程度で、柱同士のスパンは6m以上。もしかすると10tダンプでも支障なく通過できるかも知れない。
 
もちろん明治時期からこうだった筈がない。本線が全面コンクリート製の第1二ノ瀬橋梁であるということは、一時的にせよ本線を付け替えるなり仮設線を通行させ、その間に創り上げた筈だ。どんな大工事だったのだろうか…
  
建設当時の状況に思いを馳せているうちに、背景を考えたくなった。
 
ここが3線立体交差の場に選ばれたのは
必然的だったのだろうか?
 
仮に貨物用の単線がなかったとして、設計者になった積もりで何処にどんな線形で設置するか考えよう。
宇部港駅を出た貨物列車は、美祢線のある厚狭駅までに本線を渡らなければならない。それも相互の交通に干渉しない立体交差という形で。
 
宇部駅の手前で本線を横断することはまず考えられない。駅付近は本線のみならず待避線や通過線などがあり、立体交差させる区間が長くなって非効率的だからである。そうなれば本線の2本だけになる駅間でクロスオーバーさせるだろう。
 
ところが宇部〜小野田間は距離が短い。しかも勾配をできるだけ緩くするために、明治以来、必要最小限の幅をもった深い掘り割りで通されてきた。ここにクロスオーバーを設計すると、本線を跨いだとき反対側に単線のスペースが取れない。まして本線の該当区間はほぼ直線なので、単線をS字カーブでオーバークロスさせると非常に長い橋梁になってしまうだろう。
 
ある程度の起伏と周囲のスペースが確保できる場所の方が適していることに気付く。まったくの平地だと、本線を跨げる高さになるまで盛土したり、逆にアンダークロスする隧道が必要になり、いずれもコストがかさむ。
 
小野田〜厚狭間にあって千崎西は、起伏とスペースの条件を満たしている。そして恐らく地形的制約から、本線自身は当初から軽いS字カーブで設置されていた。そのため単線は若干同期を外したカーブを設置することで、短い区間でのオーバークロスが可能になっている。
ここより小野田寄りだと、広大な田を線路敷に確保しなければならないし、千崎西から厚狭寄りは溜め池の間を縫って進んでいるためにスペースが確保しづらかったとも考えられそうだ。
  
貨物線の入れ替え目的を達するために千崎西という現在地に今の形態の立体交差構造物が設置されたのは、施工難度やコスト面からも妥当だったように思える。
 
 
さて、気になる奇妙な空洞をちょっと究めてみようと思った。
 
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建築ブロック積みを越え、暗がりの中へ向かう。ぽっかり口を開けた空洞から竪排水が伸びている。あの奥は… 
 
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空洞の奥は完全には埋め戻されていないようで、挑発的な空間が広がっていた。
何処まで続いているかは分からない。匍匐でも背中がつっかえる低さだし、何よりも頼りになる明かりを持っていない。
この荒削りな地山は施工当時のものかも知れない
 
 
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真っ暗な向こう側がどうなっているか見えないのに、まさか突入するほど無鉄砲でもない。カメラを押し込み、フラッシュ撮影した成果に期待する。
 
 
これが原典画像である。
スラブにフラッシュが当たり反射しただけで、何も得るものはなかった。
 
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編集註: 上の写真では何のことか分からないので、明るさ補正で処理した写真を以下に掲載する。
 
 
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スラブとの間に微かな隙間ができる程度に土砂が詰まっていた。地山なのか後から流用土を押し込んだのかは不明だ。いずれにしろ、ここは昭和40年代半ばより全く日の光が訪れない閉ざされた空間になっているようだ。
 
 
農道を見下ろしている。
竪排水が設置されたということは、どこからか雨水が流れ込んでくる余地があるのだろうか。
 
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反対側は一枚モノの壁面が造られており、盛土になっている。こちら側は橋脚で充分支えきれるので盛土を省略したと思われるが、詳しいことはよく分からない。
 
 
自転車を押して再び外へ出てきた。
 
できれば、橋梁の上部に登りたいと思った。本線への立ち入りが無理でも、上からの角度で眺めたかった。
コンクリート擁壁こそなかったものの、周囲は一面が大藪の海。日当たりの良い斜面のせいか、危害を加えてくるイバラ系がとても多い。
 
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農道から線路敷までは垂直に10m、水平に10m程度の移動を要する。その全過程が完全な藪漕ぎだ。いくら熱烈な鉄道ファンだって、ここから直接線路敷に向かおうとする猛者はいないだろう。
 
 
可能な限り高い場所へ上がり、大きく伸び上がってカメラを頭上に構えた。
視座を上げた撮影は、この場所ではこれが限界だ。
 
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同じ場所からパノラマ動画撮影もやってみた。
 
 
 
可能なら、農道の手前から遠回りして上部に行こうとも考えかけた。
その突撃意欲が萎えるのは、写真を観ればどなたでも納得して頂けるだろう。
 
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自分の十八番とする水系関連(特に工業用水)で、しかも難行の先に確実な成果がぶら下がっているなら、あらゆる知恵を総動員してでも試みただろう。鉄道関連は自分の管轄ではなく、そこまで本気度を高めることができなかった。
まあ、自分としては幼少期に車内から一瞬見えかけていた不思議なものを、あらためて現地でじっくり眺められたというだけで満足だったのだ。
  
さて、ここで農道を引き返したのだが…
 
上巻では、農道の立て札を過ぎた場所から全体像を撮影し、その後すぐ橋りょうの手前まで来たようになっている。
 
しかし実際の足取りはそうではなかった。
農道が本線に接近する場所で、何とも挑発的な物件を見つけたのだ。それは先ほど潜入しかけた”挑発的な”スラブ下の隙間以上に私を誘惑した。ここへ至る前に、先に訪れていたのである。
 
私と同じ足取りで市道から橋梁を訪れれば、その物件の存在には気付く筈である。恐らくありふれた物件で、それほど希少価値はないと思う。ただ、何かの歴史を隠し持っているような気がしたし、”現地を訪れたからには気になる物件は可能な限り採取する”という徹底主義なので、しっかり写真を撮影してきた。
 
さて、下巻でこの場に引っ張り出してみようと思う。
 
  

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JR山陽本線の「3線区間立体交差」としてその筋には有名な場所を訪ねてきました。
 
最近ずっと工業用水関連か水利関係の遺構ネタに偏っていたので、今回は全く畑違いのジャンルを3部形式で記事にしたらどうなるか…という無謀な試みです。
 
鉄道関連は専門外なので、深い洞察はできません。上巻は幼い頃の思い出から随筆風に始め、中巻で今回撮ってきた現地の写真をまとめ、下巻では現地で掘り起こしたちょっとコアなネタに挑んでいます。いずれも既知の内容で新しい情報は期待できませんから、軽い読み物としてお楽しみ下さい。
 
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私の小学生時代の長い休みは、親戚の家で過ごす体験が割と多かった。こましゃくれた子どもの私は、近所の仲間や級友と遊ぶことが殆どなく、年上の従兄弟や大人の中で時間を過ごすことを好んだ。
 
母方の親戚は厚狭にあり、盆の墓参りや正月に車で乗せていってもらう程度だった。しかし当時の自分には山あり川ありの厚狭が魅力的だったらしく、小学生のうちから親に教わり、自力で電車を乗り継いで行くことを覚えた。
 
バスで宇部新川駅に向かい、宇部線の列車に乗って宇部駅に向かう。たまに直通があったが、大抵そこで山陽本線(以下「本線」と略称)に乗り換えなければならなかった。しかしそこから先が自分にとっては新鮮な冒険の始まりだった。
 
宇部線の電車の長閑な走りに比べれば、本線の列車は子どもの私にとってまさに”疾走”だった。踏切ですべての車を足元へひれ伏させ、至近距離で減速もせず通過する場面は痛快だった。車と並走しても圧倒的な速さでブンブン追い抜いていく。私は常に窓際へ座り、窓際の景色が飛んでいくように流れるのを眺めて楽しんだものだった。
 
日頃目にしない車窓からの眺めは新鮮さがある。宇部から2駅先の厚狭に着くまでの短い間、子どもの頃から興味を覚え記憶に留めていた景色がいくつかあった。
そのうちの一つが、今回初めて現地を訪れた”3線区間立体交差”である。
 
小野田駅を出た列車は暫く田園地帯を走った後、再び浅い山野に入っていく。元から登り坂の苦手な鉄道である。少しでも起伏の少ないルートを選び、県道とは袂を分かって周囲に主だった道路のない丘陵部を縫うように進む。
 
その過程で、進行方向の左側に本線の上り勾配よりも更に急な勾配をもって並走する線路の存在に気付く。それは小野田駅を出た直後から随伴していた。
その線路は完全に車両を超える高さまで駆け上がり、疾走する本線に近づいてくる。その直後、本線の列車はコンクリートの柱が何本も立ち並ぶ箱状の中を駆け抜けた。あたかもジャングルジムみたいな感じだった。
 
本線が山間部を抜け、再び下りに差し掛かる頃にはその線路は進行方向の右手へ移っていたので、本線と立体交差させる橋ということには気付いていた。それが石灰石輸送のための列車の線路ということは、後になって分かった。
 
宇部の工場群で必要な原材料の石灰石は、美祢線、本線、そして宇部線を経由して運搬される。美祢線と宇部線は本線に対して異なる側に位置するので、石灰石を積んだ貨物車はどこかで本線を横切らなければならない。
 
もっとも容易な手段は平面交差である。しかし貨物列車も含めて頻繁に往来する本線ダイヤの合間を縫って横断させるのは時間的制約が厳しかったのだろう。こうして宇部厚狭間に貨物専用線が一本設けられ、例外的に本線が3線区間となった。更に本線の運行に影響されず位置関係の問題を解消するため、この場所に立体交差が設けられたのである。
 
鉄道に興味はあったものの、立体交差なんてそう珍しくもないだろうと思いつつ幼少期を過ごした。今や石灰石の貨物輸送が廃止され、3線部分そのものが廃線となっている。しかしクロスオーバーさせるコンクリートのジャングルジムは遺された。いや、遺っているということを聞いただけなのだが…
 
石灰石を鉄道輸送するという地域の特殊要因あっての遺構であり、全国的に見ても珍しいものであることを知ったのは、更に後だった。
このあたりのことは Wikipedia にも詳しく記述されている。
 
「Wikipedia - 山陽本線|歴史」
 
車を運転する身であれば、厚狭など車でひとっ走りの距離である。まして私の日常生活にあって、本線はもちろん電車に乗ること自体殆どない。また、敢えて電車に乗ったとしても、あのコンクリートのジャングルジムを潜るのは一瞬である。
 
じっくり眺めるなら、やはり現地へ行くのが最適だろう。
 
5月の連休の半ば、私は山陽小野田市で気になる物件をいくつか集め、遠乗りを兼ねてまとめて踏査することにした。
 
 
県外もしくは県内でもあまりご存じない方のために、場所を示しておこう。
 
 
 
場所は小野田駅と厚狭駅の中間で、現在では山陽小野田市千崎(ちざき)西と呼ばれる場所になる。小野田市街部と厚狭を連絡する道路は昔からあったものの、少し前までは幅員がそう広くなく、家並みもない山間部だったせいか、幼少時代に千崎の幽霊の話を聞かされたことがある。
現在ではその話自体が殆ど語られない…私も具体的な話を何も知らない
 
地図を航空映像モードに切り替えて拡大すると、単線が本線の上をクロスオーバーしている様子が観察できる。コンクリートのジャングルジムはそれなりに大きな構造物なので、本線の上に並んでいる様子も見て分かる。
地図では線路の表示は描かれているものの、航空映像からして既に単線部分は荒れ地状態で線路が見えない。
 
それでは現地へ向かってみよう。
 
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県道71号小野田山陽線を厚狭方面へ向かう。起点を出てすぐ本線を跨線橋で渡り、山陽自動車道の下を潜るまでは見晴らしの良い平坦部を走る。
 
 
小野田I.C.から先は若干幅員が狭くなり、その先で押しボタン式信号のある小さな交差点に出会う。
 
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ここで左折すると、神社みたいな構えの千崎西集会所が見えてくる。
 
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長閑な田園風景を眺めつつ走る道(山陽小野田市道高泊千崎線)を走ると…
遠方に見えてきた。
 
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ズーム撮影。
かなり遠くだが、肉眼では既に見えている。懐かしい。
 
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庚申塚を少し過ぎた先に、市道を外れてターゲットに向かう農道がある。
 
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もし現地へ車で来た場合は、この先ちょっと厄介だ。
停める場所を探さなければならない。見たところ普通車でも乗り入れ可能な農道ではあるのだが…
 
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どうやら公道ではないらしく、一般車両は乗り入れできないことになっている。
 
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そう広くもない農道だから、農作業の繁忙期に車で乗り入れられ、おかしなところに駐車されたら迷惑だろう。
あの遺構目当てで現地へ車を乗り入れるマニアが少なからずあり、トラブルなどがあって立て札を出したのではと想像される。
庚申塚のところに軽四一台程度なら停められないことはない…この道は一応駐禁ではないが民家の近くなので歓迎されないかも知れない
 
もっとも、自転車なら何ら問題はない。
堂々と進行する。
 
 
田畑が広がる長閑な田園地帯。
その奥に聳えるコンクリートのジャングルジムは、予備知識がなければ炭鉱の跡だろうかと見紛うかも知れない。
 
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用水路に沿って伸びる農道を進み、築堤に沿って道なりに行くと…
見えてきた。
 
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実はこの写真を撮るにあたって、一つほど”その前”があったのだが、それは下巻で詳しく述べることにして…
 
可能な限り接近し、写真に収める腹づもりで農道の端に自転車を停め歩き始めた。 
 
 

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末信・温見計画【2】

(「No.17とNo.17-1」の続き)
 
今回は素通りした No.17 の点検桝群は、頭を悩ませる問題を隠し持っていた。
 
疑問2: この上流側はどういう経路なのか?
 
今のところ No.17 の上流側にある既知のものは、持世寺川の袂にある桝(この踏査を行った時点では No.15-1)だけである。二つの桝は尾根を一つ隔てて存在し、市道は溜め池を避けて大回りしている。この区間で精確に何処を通過しているのか、未だにハッキリとは解っていない。
 
 
去年の5月に行った末信計画の記事を書いた時点では、想定する経路図として次のものを掲載していた。
 
 
 
地図中に導水路を示す青い点線があるが、溜め池の中を貫くように無造作に描かれたこの経路を取り得ないのは明らかである。そこで暫定的に溜め池の裏手を抜けるルートを描いていた。
 
この地図上に落とされた No.17 桝群の位置は間違いない筈だ。しかし No.15-1 桝は、もっと南側(下側)で持世寺川を渡っている可能性がある。この近辺の自然流下レヴェルは約25mで、上の経路なら逆サイフォンで川を渡らなければならない。
この後で知られた No.16 の存在でこの経路も誤りで実際はもっと南側をサイフォンなしで通過している
 
 
今回 Yahoo! 地図を元に、No.17点検桝群と No.15-1 を結ぶ経路の候補をいくつか描いてみた。
 
イメージ 1
 
 
Aは最もシンプルなコースで、No.17 から隧道一本で既知の No.15-1 へ至るものである。国土地理院の青い点線があてにならないと判明した後、真っ先に思い付いたルートだ。
山岳工法の隧道で結ばれるので、追加の桝設置が不要で後々の管理は容易だ。しかしコストも手間もかかる隧道区間は、なるべく短くしたい筈だ。トンネルボーリングマシンのような機械のない昭和初期なら尚更だろう。
正確な答えは未だ手にしていないが、もしAルートが答だとしたら、この先の苦労に満ちた踏査は全く無意味になる。No.17 から先が一本の隧道なら、地表に痕跡など現れる筈もない。
 
BCはコストのかかる隧道を切り詰めるべく、開削工法で通せる部分をなるべく増やした場合の想定経路だ。
B案ではもう少し市道沿いに進み、印の小さな谷地から隧道に向かう。こちらの方がAルートよりは隧道延長は短いし、用地さえ確保できるなら No.17 から■印までは開削工法で施工できる。
 
C案は更に先まで開削工法で通し、2本の隧道に分割して No.15-1 に到達するルートだ。
更に溜め池の方へ開削工法で伸ばすことも出来るが、あまりに迂回ルートが長ければ逆にコスト増になるし、平均勾配を緩くせねばならず自然流下速度に支障を来す。C案より更に迂回するルートはまずないと思う。
 
今回の踏査に至るまで、個人的にはCルートが最も有望だと予想していた。これは2本の隧道によって通され、名前が分からない溜め池の上流部に明かり部分を持つ。ここから双方へ隧道を掘り始めるなら、桝の存在が示唆される。そこに未発見で飛び番号の No.16 が設置されていて溜め池への分水も行っている…というシナリオを考えたくなった。溜め池の裏側は、まだ一度も足を踏み入れたことがなかったのだ。
 
No.17 地点で導水路がどの方向を目指しているかを推測できないだろうか。
 
 
現状を見るに、No.17 と No.17-1 の並びは、上流側の経路に関して明確なヒントを示唆しない。どういう訳か2つの桝は極めて特殊な配置になっているのだ。
 
 
No.17-1 は、導水路に対して直角方向に存在する。
 
市道との位置関係からも分かるだろう。導水路は先に見た小川を渡り No.17 に接続される。ところが No.17-1 は、進行方向の真横に設置されているのである。通常の桝と大判サイズの桝が近接するパターンは珍しくないが、2つを結んだラインが導水路の方向を示さないケースはここくらいのものだ。
 
自然流下の導水路である以上、経路は可能な限り滑らかに設置される。注水口や接合井など特殊な場所を除いて直角に曲がることはない。 
このことから導水路は No.17-1 を無視して No.17 の据わっている桝の辺と一致する方向にあると考えるのが自然だ。
 
Aルート以外であることを前提に、No.17 桝群から溜め池の裏側に至るまで山沿いを徹底的に調査する必要がある。今回の計画ではこれが主要課題であった。
 
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市道は若干高度を保ちながら進む。この山手側に家屋が連なっており、この裏側が怪しいと睨んでいたのは以前から同じだった。
 
イメージ 2
 
 
前回は適当な路地を入っただけで退散していた。今回はもう少し徹底し、裏山の中腹まで登る。視座が高い方が広範囲を見通せるからだ。
 
市道から逸れる山道へじでんしゃを乗り入れ、そこから歩く。
 
 
正面に見えるのが■印を付けた谷地である。
地図の通り、山側が少し後退している。しかし谷地と呼べるほどの規模はない。
 
イメージ 3
 
この写真の正面には綺麗に並んだ石積みがあり、その延長上に 曰くありげな煙突状のパイプが立っている。これは初回の末信計画でも気付いており、石積みは導水路の想定実レヴェルにかなり近いので、開削工法の跡ではないかと疑われた。見慣れない形をしたパイプの写真も撮影している。
 
パイプの正体は不明だが、恐らく導水路関連ではない。塩ビパイプは昭和中期以降の資材であり、1期導水路関連で当初から使われている場所はないからだ。
仮に後付けで設置されたとしても、開削工法で通されているなら土被りが浅いから、お約束の標識板が設置されているはずだ。しかしそれは初回でも、現在の山腹から俯瞰しても見つからなかった。
 
 
一応、この湾曲した谷地の反対側まで行ってみた。
そこで振り返って撮影している。
実はここから更に先へ進み導水路とは無関係な素掘り隧道を見つけている
 
イメージ 4
 
 
先に見た No.17 では、市道より2m程度高い位置にあった。市道は若干下っているから、この場所にもし導水路があるとすれば、実レヴェルは家屋の軒先あたりになると想像される。
ここに痕跡もなければ、やはり一気に隧道で抜けているのかもと思い始めた。
 
 
更に市道を進み、今度は温見集会所の少し手前から再び山側へ入ってみた。
 
イメージ 5
 
 
ここから先は結構長かった。
 
山道を抜けると(一箇所ほど竹が垂れかかって通過が大変な場所があった)ある民家の裏手へ出てきた。
 
イメージ 6
 
 
この家は見覚えがある。初回の末信計画では、溜め池の裏手に回ろうとして自然にこの家の正面へ到達した。その先は庭へ入り込む形になってしまうので断念していた。
 
よく見ると、庭先は完全にフェンスでは仕切られず一部開放され、裏山へ入れるようになっている。次回以降この場所を再踏査する必要があれば近道できそうだ。
 
 
山道はここで折り返し、溜め池に沿って伸びていた。
 
イメージ 7
 
 
畦道クラスだが明確な踏み跡があり、それは池に隣接する平場へ続いていた。
実は最初にこの光景を見たとき、かなりドキドキしてしまった。
 
イメージ 8
 
 
遠くから見ていて、平場に立つこれを標識板と見違えたのだ。
残念ながらその正体は、誰かが設置された作業用のはせ架けの残骸らしかった。
 
イメージ 9
 
 
そろそろ実レヴェルとしては登りすぎでは…と感じながらも、念のため更に奥を目指す。それっぽい石積みが沢山見られ、そのたびに築堤ではないかと感じられた。
 
イメージ 10
 
 
この先で次第に沢は先細りになっており、遺憾ながら不法投棄物の楽園だった。特に目を惹く古いものなど何もない。空き缶やプラゴミなど、現代社会でいくらでも観察できるガラクタばかりだ。
 
イメージ 11
 
 
この沢の正面に気を持たせる横ラインがあった。
あそこまでは確認しておこうと思った。
 
イメージ 12
 
 
横ラインの上に立ったところだ。
それは導水路の形跡ではなく、限りなく自然へ還りつつある小さな沼の築堤だった。
 
イメージ 13
 
 
もう実レヴェルが上がり過ぎている。
この谷地には桝を含めて、導水路の形跡はないと判断した。
実際には更にしつこく奥まで踏査して素掘り隧道の坑口を発見している
 
周囲はかなり酷い藪状態だったが、何度も来れる訳ではない(何度も来たくはないw)ので見落としのないよう丹念に踏査した。怪しいと思えたものは遠くから眺めるだけでなく、面倒でも必ずその場まで足を運んで確認した。
 
ここはかつて棚田だったらしく、雛段を造るための石積みが頻繁に観察された。その意味で人の手が入った地ではあった。しかしそれ以外で例えば No.11 発見時の如く、導水路と交差させるコンクリート水路などは一切発見されなかった。
 
残念だが、予想のCルートはほぼ否定的に解決されたと思う。
かつては溜め池の上部から二方向に隧道を掘ったものの、最終的に埋め戻して一本の隧道とし、その場所の地表部には標識板さえも設置されない…というケースは今のところ見当たらないのである。
例えばNo.5擬定地が同様の状況…ここは本当に標識板しか存在しないと思う
 
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いずれ報告するように、実は No.16 は未発見ではなく持世寺川を渡る No.15-1 に付随して存在することがこの後の踏査で明らかになった。
ただし、この結果は上の地図で No.16 を仮定した場所および■印に桝の存在性を完全否定するものではない。分水用として No.16-1 が存在する可能性はなお残されているからだ。
 
しかし…
そろそろ限界だ。
 
”習慣とする徹底主義”をもってしても、自力で正解を得られそうな見込みがない。
例の「水利関係の遺構その4・続編」の如く、がむしゃらに回答を得ようと注力するほど、砂漠の逃げ水のように遠ざかっていくようだ。
 
No.15-1とNo.17の間は
どのルートを通っているのだろうか?
 
この回答に関しては、再び有力な情報が得られるまで「触らないでおく」ことにしようと思う。
成果がないのに手間ばかりかかって何か虚しい…もっとも現地では素掘り隧道を発見できたこと自体は大きな成果だったが…しばし違う話題にしようかな

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No.17とNo.17-1

 
今回の末信・温見計画ではまったく写真を撮らず素通りしたのだが、今後の話の流れとしても、このタイミングで掲載しておこうと思う。
No.17 および No.17-1 の桝群である。
 
この場所は市道のすぐ傍にあり、時期を変えて何度も写真を撮っている。本記事では過去の写真最も古いものは一昨年の夏から適当に採用しているので、現状が変わっていたり、写真同士で不整合があるかも知れない。ご了承頂きたい。
 
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末信水源地を過ぎたあたりから1期導水路は再び市道沖ノ旦末信持世寺線に並走するようになる。この近辺に見つかる No.18〜20 などは、いずれも市道から少し山手に入った場所に存在している。そして温見集落のほぼ中心にある No.17 において、導水路と市道は最も接近する。
 
 
家並みの並ぶ温見集落に入る。ここで市道は若干左カーブしている。
右手に民家の倉庫と思われる場所へ通じる小道がある。何の変哲もない取り付け道だが、No.17 はこの坂を登り切ったすぐ左に存在する。
 
イメージ 1
 
 
一旦通り過ぎ、反対側から撮影。
お馴染みの標識板が市道に向いている。電信柱の足元に桝も見えるだろう。
余談だが電信柱を建てるのに細心の注意が要ったのではなかろうか
 
イメージ 2
 
 
市道から構造物が直接見えるわけではないが、標識板だけはとても目立つ。初めてここを通ったときにすぐ気付いた。
 
再び先の場所へ戻り、斜路からじでんしゃを押し歩きした。
民家の庭先へ踏み込むようで若干気が引ける。
 
 
斜路の先に民間の東屋仕立ての倉庫があり、導水路は手前を横切っている。
電信柱の脇にある標準的な桝とは別に、大判サイズの桝蓋が正面に見える。
 
イメージ 3
 
 
市道との位置関係。
標準の桝は市道より2m程度高い法肩に設置されている。大判サイズの桝は同レベルで、市道に対し標準桝の真横にある。
後で述べるようにこの二つの桝の位置関係は極めて特殊
 
イメージ 4
 
 
大判サイズの桝が No.17-1 である。
縞鋼板の蓋掛けでペイントはされていない。後から設置された分水用で、全体の蓋を開けずに操作するための丸い蓋が取り付けられている。民家の庭先でもあるせいか、桝の周囲はアスファルト舗装されていた。
企業局による補償工事と思う
 
イメージ 5
 
 
法肩に設置された標準桝が No.17 である。
周囲に何の障害物もなく人目につきやすい場所のせいか、桝蓋には落ち葉一つ落ちていないし苔も生えていない。17というペイントもハッキリ読み取れる。桝本体にも欠けがなく保存状態は極めて良い。
桝本体は打ち換えられたのかも知れない…不相応に新しく見える
 
イメージ 6
 
 
ここを訪ねたときから不思議に感じていることがあった。
 
疑問1: 実レヴェルで流れているのだろうか?
 
No.17 桝の天端は、市道からおよそ2mほどの高さにある。本来ならアーチ状のコンクリート部分があり、その上に保護盛土されている筈だから、導水路の実レヴェルは市道路面よりむしろ低い位だ。
 
このことがどうも感覚的に理解できない。例えばここより下流側にある No.20 などは、市道から100mくらい一定勾配の沢を遡行した先にある。ここよりも高い位置に向かって流れているように感じてしまう。
 
本当に No.17 の方が低いなら、ここは沢を渡る逆サイフォンの筈だ。No.19-1 の如く、完全密閉された桝蓋が存在するだけで流下音を確認できない場所なら、それも有り得るだろう。
 
この疑問は、ただの錯覚と思う。No.17 は従来タイプの桝であり、この桝が逆サイフォンとなっている実例はない。確認はしなかったが、もし No.17 に接近すれば流下音を聞くことができるし、蓋の隙間があれば工業用水が流れていくのを垣間見ることも出来るだろう。
 
別の証拠もある。
 
No.17-1 の横には、こんな感じで単管バリケードとセフティコーンが設置されている。恐らく厚東工水が危険防止のため自主的に設置したのだろう。
 
イメージ 10
 
 
確かに、この場所にはバリケードが必要だ。
桝の天端よりも3m以上低い場所を、一本の小川が流れている。そこにはかなり昔に造られたであろう石積みが見られる。
本来なら恒久的な転落防止柵を設置する…しかし縁が石積みなのでガードレールの支柱を打ち込めない…あるいは民間の敷地を間借りしている事情もあって土地所有者が設置しないでくれという要望があったのかも知れない
 
イメージ 7
 
 
民家の敷地へ入ってウロウロするも同然なので、周囲の目が気になる。
サッと水路へ降りてみた。
 
 
小川とは言えかなりの水量である。
それは明らかに石積みの下を潜って流れていた。
 
イメージ 8
 
 
更に接近してズーム撮影。
水路幅に見合ったアーチの上部が見える。
 
イメージ 9
 
 
これは沢を渡る隧道橋梁の下部アーチ構造と比べて小規模だ。導水路の本体部ではなく、大口径のヒューム管を据えているだけかも知れない。しかし構造はともかく、わざわざ小川の流路を切り下げて立体交差させていることから、導水路はこの小川よりは高く、地表部よりは低い高さで流れている筈だ。
 
導水路が異様に低い場所を流れているように感じられるのは、市道が意外に高度を上げているからだろう。家並みなど周囲を見回せばここが平均的な高度に思えるが、ここと厚東川との間に広がる田は、市道より5mくらい低い。
2枚目の写真では厚東川に向かってかなり急に下る畦道がある…その先に温見用水にまつわる独特な形の貯水桝が見られる
 
 
再度、市道側から No.17 を眺める。
導水路は盛土で完全に隠されており、コンクリート部分は見えない。
 
イメージ 11
 
本来ならここは小川を跨ぐ水路橋が露出する区間だったと思う。しかし恐らく導水路以前にあの倉庫の場所が私有地で、水路橋のままだと市道との行き来が出来なくなってしまうため、最低限の土被りを保つように盛土したものと思われる。
この倉庫の所有者には企業局から所定以上の荷重車両を乗り入れないよう重々言い渡されている筈
 
この No.17 および No.17-1 の位置および導水レヴェルは確認できた。
 
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如何にも唐突だが、ここで時系列を末信・温見計画へ戻そう。
以前から念頭にあり、まさに今後の踏査方針に影響するもう一つの大きな疑問があるのだ。
 
(「末信・温見計画【2】」へ続く) 
 

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文字と写真だけ追っていると、意外に攻略は順調に進んでいるように見えるかも知れない。
 
実際は余裕どころではなかった。
リラックスして休める場所がまったくない。足元は急斜面で、しかも落ち葉に著しく覆われていて地山が見えない。一歩ずつ足場を確保しつつ、なおかつ斜め上方から張り出す枝を払いながらの前進を余儀なくされる。振り払いたくなる枝の中にはイバラも混じっているので、無造作に手を突っ込めば流血の惨事だ。
バランスを取りつつ、不安定な足元で踏ん張りつつの進行で、精神的にも肉体的にも最近ないハードな藪漕ぎだった。
 
 
バッテリー入れ替えを行ったヒューム管の上から振り返って撮影。
ヒューム管は真っ直ぐ市道まで降りている。全体を覆い尽くすイバラさえ刈ってあれば、ここを伝って昇降できるのだが…
 
イメージ 1
 
 
しかし足にまとわりつくイバラ類が全体を覆い尽くしているので、円筒形のヒューム管上をバランス取りつつ歩くなど不可能。間違いなく途中で転落する。しかもこの地点で既に背丈の倍以上の高さだ。
 
 
やっと側壁に手が届く場所へ到達。
厚みが20cm程度のコンクリート桝で、蓋はない。本体はコンクリートなのに、まるでそこから生えているように草木でびっしり覆われていた。
 
イメージ 2
 
 
外壁の高さは背丈よりちょっと低い程度で、伸び上がれば中を覗くことができた。頑張れば上にも登れそうだ。
 
 
まずは内部を覗き込む。
見かけと異なり、内部は二槽構造である。中央に間仕切りがあり、四角い穴で用水が行き来できるようになっていた。
 
イメージ 3
 
 
天端からの深さは約2m程度。落ち葉が溜まりに溜まっている。しかしある程度溜まった水は自然排水されるらしく、淀んだ溜まり水にありがちな悪臭はしなかった。
 
イメージ 4
 
 
立ち位置が制限されるので、ワンショットでは桝の全体像を撮影できなかった。そこでざっと見回すのと同じ動作で動画撮影してみた。
 
 
 
 
最後の方で視座が高くなっているが、ファインダーを見ずカメラだけを頭上に差し出して撮影している。それでも奥側にある桝の内部は窺い知れなかった。
 
むしろ構造が気になるのは、奥の方の桝だ。
 
手前側の桝は、先ほど一休みしたヒューム管に接続される部分があるだけで、流入する管は見当たらない。一旦奥側の桝に用水を取りだし、あの四角い開口部から手前の桝に流れ込むのだろう。それならば用水が流入する管は奥側の桝にあるはずだ。
 
側壁に手を掛け、可能な限り天端に生い茂る枝木を払って桝の上に登った。
言うまでもなく山側の方へ安全に降りられることを確認している
壁厚が結構ある桝だから、人が登る程度で壊れることはないだろう。
 
 
上部に垂れ込める枝に注意しつつ、しゃがみ込む。
違うアングルから内部を撮影。
 
イメージ 5
 
 
桝の内側には、レンガ積みのような跡が見えている。桝本体は現場打ちコンクリートではなく、最初にレンガ(あるいはコンクリート製レンガ)を積んだ後、内部をモルタル仕上げしたようだ。現在ではこの種の桝を設置するなら、型枠を組み、配筋して生コンクリートを打設するだろう。
些か原始的だが現在でも集水桝は一つずつ型枠を組んで生コンを打設している…小さな家庭用溜め桝を除いて出来合いの製品はない
 
 
奥側の桝がどうなっているかを知るには、桝の天端を伝って歩けば良さそうだ。
ゆっくりと上体を起こし、立ち上がった。
 
そう…
口で言うのは全く簡単だが、
 
怖い。
 
元から慎重派だし、そもそも高い場所は苦手なのだ。桝の内側に落ちたらかなり悲惨な目に遭うだろう。それよりも外側に落ちたら…
 
道路までの高さは6m以上。足を挫く程度では済まない。
まして桝の上は真っ平らで障害物がないならまだしも、何処がコンクリート部分なのか目視できない程に草木で覆われているのだ。
 
奥の桝を俯瞰した写真を撮ろうとして、桝の上で立ち上がったちょうどそのとき、市道を沖ノ旦方面へ走り去る車があった。
 
こんな酷い状況なのだ。
 
あのびっしり覆われた上を歩くなど、目隠しで平均台の上を歩く以上に危険。
 
イメージ 6
 
 
無理だ。
どう頑張っても無理。やりたくない。そこまで熱くなれない。
 
天端歩きは完全に諦め、一旦桝から降りた。
 
しかしまだ目的を果たすことまで諦めたわけではない。地山を伝って奥側の桝まで到達できるなら、藪漕ぎだけ我慢すれば何とかなりそうに思われた。
 
直接の接近は不可能なので、若干斜面の上を巻くように迂回した。ヘビが現れるとか、葉の裏に不快害虫が着いているなど、もうそんな細かなことにかかずらっている余裕はない。怪我をしそうな突き出た枝がないことだけ確認し、頭からグイグイ藪の中へ押し込む。ヘルメットが欲しかった。
 
 
奥側の桝の斜面部である。
全く普通の地山で開渠はないし、その痕跡さえもない。一体どうやってあの桝に用水を供給しているのだろうか。
 
イメージ 7
 
 
用途としては、明らかに灌漑用水を供給する桝だ。しかし蓋なしの二槽桝で雨水だけを溜めるのでは、とても用を為さないだろう。どこからか用水を導いている筈である。もし桝の山側部分の壁面に開口部や管があれば、厚東川1期導水路から隧道を経由して分水している可能性が濃厚と言える。
 
それ故に、奥側の桝の壁面がどのような状態になっているか何としても確認したかった。奥側の桝に近づくべく、斜面を下降する。
 
強烈な藪の押し返しに抗い、強引な接近を試みた。できれば桝に密着し、壁面を観察できるまで身を乗り出したかったが、無理だった。どう頑張っても無理。危険だという以前に物理的に不可能。
 
 
ここで目一杯両腕を差し出して撮影。
申し訳ない。これが限界、本当に限界だ。
 
イメージ 8
 
 
天端にわさわさとツタ系の雑草が伸び、そのために内部を覗き込むどころか接近できなかった。桝の左側からも攻めようとしたが、そこからは急斜面になっていて安易に近づけない。足元の斜面が広範囲に草木で覆われ、地山と区別がつかず踏み抜く危険があったのだ。
 
残念だがこれ以上は諦める。降参だ。
その日が来るかどうか分からないが、周囲がキレイに草刈りされ容易に接近できるチャンスが到来するまでお預けだ。
 
さて、無鉄砲な踏査の後始末をしなければならない。
 
上がった場所から降りるという考えなど元からなかった。あれほど困難だったということは、この桝が造られた当時から昇降する経路がなかったということだ。
しかし現にこの場所へ桝がある以上、ここへ登る必要性はあったはずで、その当時の踏み跡が見つかるかも知れないと考えた。
 
どのみち今身を置いている藪の中にそれがあるとも思えない。些か逆説的だが、市道へ降りるのではなく逆方向に斜面を登ってみた。
 
 
何となくそれらしきものがあった。
人が通る踏み跡とは言い難いが、草木が生えるのを遠慮しているラインが見受けられた。
 
イメージ 9
 
 
同じ標高を保ちつつ、地面が溝状に切られた痕跡のようにも見える。もしかして桝への導水は素掘りの開渠だったのではとも感じた。
 
踏み跡としてはとても信頼できないが、丁寧にこの痕跡を辿ってみた。山道ではないので、ある程度木々の枝を払いつつの進行になった。しかし先の”激藪”で耐性がついたのか、それほど酷い行程には感じなかった。
 
 
それは小さな尾根を超えた先でぷっつり途絶えていた。
結局、獣道だったのか古い開渠の跡だったのか不明だが、この斜面の下に馴染みのある場所が見えてきた。
写真右下には酷く古い測量杭が見えている…用途は不明
 
イメージ 10
 
 
高低差は人の背丈の倍程度で、最後にこの急斜面を降りるのには注意が要った。若干残っている生きた竹を頼りに身を預け、脱出することができた。
 
 
古く苔生した開渠に出くわした。
その奥には何やら桝らしきものも見えている。
 
イメージ 11
 
 
もし初めて訪れた場所なら、この光景を見て、
 
未知の桝を発見!?
 
…などといきり立っていただろう。
残念ながら写真に見える桝状の構造物は、1期導水路と直接の関連はない。この開渠に分水を行う井堰である。
この開渠を更に辿っていくと No.19-1 へ到達することが分かっている
 
 
ここから先は既知だから追わず、素直に市道側へ戻った。
やれやれ、一安心だ。 
 
イメージ 12
 
 
市道まで戻ってきた。
この開渠は、先の桝の方まで伸びてヒューム管と交差していた。
用水の水系が異なるのだろう…このあたり昔の人はシビアにやっていたはず
 
イメージ 13
 
 
かくして何とか無傷で降りてくることができた。
しかし労苦の割に得られた成果は、
 
(1) 桝に蓋はなく、内部は二槽構造になっている。
(2) 桝以外に何の関連する遺構もない。
 
だけであった。一番知りたいと思っていた”1期導水路からの分水の可能性”については、肯定も否定もされなかった。
 
目下、もっともスリリングな展開は、接近できなかった奥側の桝に注水口があり、1期導水路から隧道の洞内分岐によって用水を得ているという状況だろう。しかしそれはほぼ有り得ないと思う。
 
1期導水路から直接取りだしているのなら、桝との接続部に注水量を調整するための設備が必要だ。しかし藪にまみれながら調べ上げた限り、桝の山側斜面には樋門やバルブ類は一切見つからなかったからだ。
 
それにしても…
苦労して取り組みながら、結果的にこれほど”熱くなれなかった”物件も珍しい。到達できなかった負け惜しみ的な発言は否めないものの、ここまで意固地に謎のヴェールを剥がされるのを突っぱねる遺構なら、もうどうでもいいという気分にならざるを得ない。
 
そういう訳で、この物件に関しては今後よほど容易に踏査が可能となるべく環境が変わるか、別の方面から新たな情報が得られるまで「触らないでおく」ことにする。少なくとも私自身はもう着手しない。
 
この記事を読んで、私以上に熱くなってチャレンジしてみようという方がたまさかいらっしゃるとするなら、とにかく転落・滑落事故にだけは注意して欲しい。
ちょっと怪我をする…が有り得ず、この場所で起こり得ることは無傷で戻ってくるか、場合によっては命に関わる大怪我を負うかのどちらかである。未解決のままモヤモヤした気持ちに留め置かれるのを堪えて、ここは素直に踏査環境が好転するのを待つか、何か有用な情報を文献なりで探すのが賢いだろう。
 
(「No.17とNo.17-1」に続く)
 

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