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「坂の上の雲」

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まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。……
彼らは…、前をのみ見つめながら歩く。のぼってゆく坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂を上ってゆくであろう。
 
【日本海海戦の世界史的衝撃】
 いよいよ最終回、「日本海海戦」です。
1905(明治38)年5月27日。
東京では夏目漱石(小澤征悦)が海戦のゆくえを案じていました。
もしバルチック艦隊に負けたら、日本はロシアの植民地になる。『吾輩は猫である』も正岡(子規)の『一昨日のへちまの水も取らざりき』も、日本語で読めなくなる。落語も歌舞伎も能も狂言もおしまいだ。吾輩はかつて、文学を捨てて軍人になった秋山真之を軽蔑した。しかし、今、頼れるのはその秋山だ。それが悔しいんだ」
 
 そして、日本海では…。バルチック艦隊を眼前に、距離8000m東郷艦隊が大胆な方向転換を始めていました。敵艦隊が矢のように北上する、その頭を抑えようというもの。T字戦法です。ターンの最中は集中砲火を浴びましたが、距離6400mになったところで「撃ち方、始め!」
 敵の旗艦スワロフに向けて大反撃を開始。全力を挙げて敵の先鋒を討つ、秋山真之(本木雅弘)の作戦が成功しました。少なからず死傷者を出しながらも、日本海軍の圧勝です。
イギリスの海軍研究家H.W.ウィルソンの言葉が紹介されていました。
この海戦は白人優勢の時代がすでに終わったことについて、歴史上の一新紀元を画したと言うべきである。将来は、白色人種も黄色人種も同一の基盤に立たざるをえなくなるだろう」
 
いわゆる自虐史観でも、英雄讃美でもなく、歴史と現実を見据え、人間を描いた名ドラマでした…!
 
 


 
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【徴兵逃れ…!】
 このドラマを見ていると明治の男はすべて勇敢だったように思えてきますが、もちろんそんなことはありません。ハッキリした人数は分かりませんが、日露戦争時、1個師団分ほどの人数(数千人規模?)が理由無く徴兵拒否したようです。
 
 徴兵逃れの方法は、いくつかあります。例えば、偽の死亡届を役所に出す。外国滞在を続けて帰国しない。消息不明になる。。。すごい例では、右手の人差し指を切断したという人も、何人かいたとのことです。これは、銃の引き金を引けなくするための行為です。また、役所の召集・徴発担当などの重要な軍事行政担当者は召集されないので、そういう職に就くための贈収賄事件も起きました。ちなみに、日露戦争の時ではありませんが、かつて夏目漱石は戸籍を北海道へ移して徴兵を逃れました。1898(明治31)年に北海道・沖縄県に徴兵令が施行されるまではそういう逃げ方もあったのです。
 
【失敗していたT字戦法】
 実は、T字戦法は日本海海戦の前年、1904(明治37)年8月10日の黄海海戦ですでに実施し、しかも失敗していました。日本の連合艦隊がターンを実行した際、ロシアの旅順艦隊が逆方向にターンして逃げてしまったのです。もう少しで取り逃がすところでしたが、日本艦隊が追走するうち、ロシア艦隊の1隻が故障。日本艦隊は追いつくことができ、砲撃を行なって勝利しました。が、作戦としては失敗でした。
 
日本海海戦でも、T字戦法が危うく失敗しかけた場面がありました。黄海海戦の失敗は、どうやらターンが早過ぎたこと(距離1万m)が原因だったようで、それを避けるために今度は距離8000mまで大接近してからターン。“そのまま敵と並走し、敵より速い速度で先行して相手の針路を塞げば、T字戦法”の実現です。当初、T字戦法はうまくいっていたのですが、ロシアの3番艦ボロジノが途中で逆ターンしてしまい、秋山真之らの第1戦隊はロシア艦隊を追えなくなってしまいました。しかし、ここで、第2戦隊司令官 上村(かみむら)彦乃丞独自に判断。旗艦信号に従わず、敵追走を続行したのです。まもなく、第2戦隊がT字戦法の陣形に持ち込み、敵の後続艦隊撃破に成功したのでした。
“敵に先行し、前方を集中攻撃する”という作戦の理解が、指揮官から一兵士にまで行き渡っていたため、臨機応変に対処でき、成功させることができたのでした。
 
【真之の優れた組織戦略が日本を変えた】
 かつて日本海軍は機密保持のために戦術を一部の者にしか伝えず、そのせいもあって艦長クラスの指揮官でさえ戦術をまともに知りませんでした。秋山真之は“機密漏洩より知識が普及してないことのほうが現状では問題だ”と上官に訴えました。また、真之が教官を務めた海軍大学校の教え子達には兵棋演習(将棋のようなシミュレーション)をさせて基礎知識と応用を指導しました。真之は“作戦の理解をゆき渡らせれば勝利につながる”との信念を持ち、厳しい訓練を繰り返し、それを結実させたのが日本海海戦だったのです。
 
  〜主な参考文献〜
編:NHK『NHK 歴史への招待28 日露戦争』(日本放送出版協会)p.135,149
『その時 歴史が動いた』(205)日露戦争100年 日本海海戦 〜参謀 秋山真之・知られざる苦闘〜(NHKテレビ)
 
 
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彼らは…、前をのみ見つめながら歩く。のぼってゆく坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂を上ってゆくであろう。
 
【陸海軍それぞれの意外な作戦】
 第3部の3回目、「敵艦見ゆ」です。
1905(明治38)年1月25日、黒溝(こっこう)台の会戦が始まりました。前線に駆けつけた秋山好古(阿部寛)。手塩にかけて育てた日本騎兵団が、世界最強のコサック騎兵団と対決です。ここで好古が採った作戦は、なんと、「馬を捨てて徒歩兵となり、射撃戦の形を採る」ことでした…! これでは騎兵なのか歩兵なのかよく分かりませんが、とにかく防戦に成功(1月29)
3月1日朝からは、奉天で総攻撃開始。世界戦史上の空前の陸戦は、多くの犠牲を払いつつも、3月10日に日本軍が奉天を制圧しました。この日が陸軍記念日となり、のちに太平洋戦争で東京大空襲の日にされてしまいます。
 
 一方の日本海軍の連合艦隊は、敵のバルチック艦隊が日本海ルートで来るか太平洋ルートで来るか、判断が分かれていました。両面に備えるため津軽海峡の西に移動するという意見にまとまりかけましたが、第2艦隊の司令官の一人・島村速雄(舘ひろし)は、「敵がいくらかでも航海ゆうもんを知っちょったら、対馬海峡を必ず通る。それは道理じゃ。その敵が遅い遅いとキリキリするがは、まるで巌流島じゃき!」 そして、連合艦隊 司令長官・東郷平八郎(渡哲也)の「対馬海峡じゃ」の一声で、対馬に面した鎮海湾(朝鮮半島南端)でじっと待ち続けることに決定!
5月27日早朝、ついに対馬沖に現れたバルチック艦隊。「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす」という電文案を見た秋山真之(本木雅弘)は、次の一句を書き加えました。
「本日 天気晴朗なれども浪(なみ)高し」
 バルチック艦隊との距離が8000mにまで縮まり東郷司令長官が採った作戦は、敵前で大ターンするT字戦法。敵にどてっぱらを見せながらの、大胆な方向転換です。成功するのでしょうか!?
「皇国の興廃この一戦にあり…!」
 
 


 
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【日本海ルートを決断させた三井物産の情報】
 今回のドラマを見ると 東郷司令長官らが日本海ルートに決断したのは船乗りの職人的勘だったかのように思えてしまいましたが、実際には有力な根拠がありました。それは、軍部に情報提供していた三井物産の上海支店の情報です。5月25日、上海の港にロシア石炭船3隻が入ったという内容でした。これにより、海軍首脳は“ロシアは石炭船がもう不要になった、つまり、最短コースの対馬海峡を通る”と、判断できたのです。この2日後、予測通りに対馬沖にバルチック艦隊が現れたのでした。
 
【世界が認めた乃木軍の戦い】
 これも今回のドラマの奉天会戦を見ると 乃木どころか児玉まで無能のように思えてしまいましたが、実際は旅順攻略で名をあげた乃木を大活用する作戦でした。側面からの乃木軍の登場に敵将クロパトキンが反応、ロシア軍は中央が手薄に。児玉の指示で乃木は3倍以上の相手に立ち向かい、引きつけることに成功したのでした。
乃木軍はロシア軍の恐怖心を逆手に取り、兵に突貫の際、皆 ロシア語で高く絶叫させた。“我らは皆 あの旅順より来たれる者なり”(アメリカ人記者スタンレー・ウォッシュバーン手記)
 ついにはロシア軍の背後に回り込んで全軍退却に追い込んだのです。
「もはやロシアに望みはない」(イギリスのタイムズ紙)
「ロシアはこの敗北の事実をありのままに受け取るべきだ。なぜなら、日本との講和にこそ、ロシアの国益があるのだから」(フランスのルタン紙)
 単なる幸運ではなく 児玉・乃木の意志や兵士の犠牲の積み重ねが、戦況と国際世論を動かしたのでした。
 
  〜主な参考文献〜
編:NHK『NHK 歴史への招待28 日露戦争』(日本放送出版協会)p.27,37,52
『その時 歴史が動いた』(238)秘められたメディア戦略 〜児玉源太郎 日露戦争のシナリオ〜(NHKテレビ)
『日本全史(ジャパン・クロニック)(講談社)
 
 


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【作戦変更】
 第3部の2回目、「二〇三高地」です。
1904(明治37)1126日。
第3回旅順総攻撃が始まりました。白襷(しろだすき)隊が決死の突撃をするも、攻撃は頓挫。第3軍司令官の乃木希典(柄本明)はようやく正面攻撃の無理を悟り、参謀らの反対を制し、攻撃目標を203高地に変更します。1130日夜、占領に成功するも、すぐ奪還されてしまいました。その頃、満州にいた総参謀長の児玉源太郎(高橋英樹)は、乃木から一時的に指揮権を移譲させる決断をし、再び旅順へ。正式な更迭(こうてつ)ではないものの、一時休養といったところでしょうか。親友でもある児玉の頼みに、乃木は「わしの命はお前に預けちょる」と、指揮を托しました。
 児玉の作戦は、まず、大変手間のかかる重砲陣地の移動。そして、28サンチ(cm)砲で大砲撃を行なうという、味方も危険にさらす大胆なものでした。参謀らが大反対しますが、児玉は「無為無能の作戦によって(兵を)いたずらに死なせてきた者は誰か!」と怒鳴りつけ、ついに作戦変更を実現。覚悟がないとできないことですね…!
 味方も砲火に巻き込む大激戦の末、203高地の頂上にひるがえった日の丸。。。
  児玉「旅順港は見えるか!?
  兵士「見えます、各艦一望のもとに収めることができます!」
 これで港への砲撃ができるようになり、ロシア旅順艦隊に大打害を与えたのでした…!
 
 


 
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【敵と共に…! 戦場の酒盛り】
 戦場に掲げられた2本の赤十字の旗…。12月3日、203高地の一角(東鶏冠山 北砲塁)での出来事です。これを合図に、両軍の使節団が旗の下でがっちり握手。これは、戦死者収容のために一時休戦しようと話がまとまったことによるものです。握手だけでなく、日本側はコニャック(ブランデー)を、ロシア側はロシアン ワインなどを贈り、酒盛りをしました。そして、それぞれの武勇を讃え、“この戦いに負けぬ”と、鼓舞し合ったのです。遺体収容が終わると、また握手をし、引き揚げました。まもなく赤十字旗が降ろされ、すぐさま銃撃戦が再開。その2日後、203高地は陥落しました。
 
【日露メディア戦争 児玉の決断〜もし乃木解任だったら…】
 当時は国際電信網が整ったばかりでした。児玉源太郎はその活用を考え、外国人記者を帝国ホテル宿泊付きで招いて報道させました。その結果、戦争初期の鴨緑江の戦勝(1904年5月1日)が大々的に伝わり、日本の戦時債券の売り上げに貢献したとも言われてます。が、児玉は情報管理をしたくて外国人記者を日本国内に留め置き続けたため、次第に反発が強まりました。そこで従軍許可をしましたが、ロシア側に情報が流れないよう現地からの電信・郵便などの通信使用を禁止。。。 一方、ロシアの極東軍 総司令官アレクセイ・クロパトキンが積極的にマスメディアと接したこともあって、ロシアに有利な報道が目立ち始めます。遼陽の戦勝(9月4日:ドラマは前回)では日本が勝ったのに、「クロパトキンは称讃を受けた」「見事な戦略的撤退」(ニューヨーク タイムズ紙)などと報道されてしまう始末。ついに児玉は規制を弱め、戦闘地域10kmまでの接近観戦や、戦闘終了後の現場取材も許可しました。さらに、前線司令部で自ら戦況説明までしたのでした。
 旅順陥落(1905年1月1日)の直後、実は、日本の参謀本部は乃木解任を提案していました。しかし、児玉が拒否し、まもなく旅順明け渡しの乃木・ステッセル会談が行なわれると、ニューヨーク タイムズ紙「乃木とステッセルは会談で互いに礼を尽くし健闘を讃え合った」 フランクフルター ツァイトゥング紙「乃木軍は旅順攻略戦において、その任務に対する責任感や犠牲を恐れぬ献身的な態度・忍耐力を我々に見せつけた」などと乃木(日本)に好意的に報道。これによって、“ノギ”の強さ・怖さがロシア軍にまで浸透、その後の戦況にも影響を及ぼしたのでした。もし“乃木解任”の報道になっていたとしたら、戦況は変わっていたかもしれません。
 
  〜主な参考文献〜
編:NHK『NHK 歴史への招待28 日露戦争』(日本放送出版協会)p.42
『その時 歴史が動いた』(238)秘められたメディア戦略 〜児玉源太郎 日露戦争のシナリオ〜(NHKテレビ)
『日本全史(ジャパン・クロニック)(講談社)
 
 


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【旅順総攻撃で大苦戦】
 1年振りに再開、第3部の1回目、「旅順総攻撃」です。
1904(明治37)年。日本陸軍が当初は重視していなかった遼東半島の旅順が、戦略上の要地となってきました。旅順攻略のために第3軍が編制されて乃木希典(柄本明)が司令官に就任します。しかし、旅順総攻撃は第1回8月19日〜、第2回1026日〜、いずれも大失敗。。。ロシア軍は強固な要塞に籠もり、新兵器マキシム機関銃(最大射程距離1900m)で攻撃。日本軍は甚大な被害を受けたのでした。やがて、乃木の親友でもある満州軍 総参謀長の児玉源太郎(高橋英樹)が満州軍司令部を離れ、旅順に督励へ。
  児玉「要塞戦は弱点攻撃が大原則じゃ」
  乃木「弱点などどこにある。… わしらは何の情報も持たず …
     この砲台 銃眼 すべてみなの肉弾をもって知り得たことじゃ」
 乃木は更迭されるべきところ、激励の勅語までたまわり、1126日の第3回総攻撃が近づいてきます…。地図上の203高地をルーペで見つめる乃木…。
早くしないと、バルチック艦隊が来てしまう! 次回は「二〇三高地」!
 
 


 
【坂の上通信 各キャラ近況】
 
秋山真之(本木雅弘)1868慶応4〜1918大正7
妻は季子(石原さとみ)。連合艦隊 司令長官・東郷平八郎(渡哲也)によって作戦参謀に抜擢。1904年7月12日、旗艦三笠に満州軍 総司令官・大山巌(米倉斉加年)児玉源太郎が訪ねてきて開催された陸海軍首脳会議に、真之も参加します。その席で、「時間も兵力も浪費する旅順要塞攻撃よりも、旅順港を一望できる203高地攻略が重要」との趣旨で主張しました。が、現場では、勢力圏の鉄道に沿った正面突破の正攻法を選択。第1回総攻撃失敗を受け、真之は単身 旅順に乗り込もうとしますが、連合艦隊 参謀長の島村速雄(舘ひろし)に「頭を冷やせ」と怒鳴られ、背負い投げされてしまいました。
 
秋山好古(阿部寛)1859安政6〜1930昭和5
真之の兄。妻は多美(松たか子)騎兵第1旅団長。まずは北方で敵情視察。攻撃目標の遼陽(りょうよう)に多数の堡塁(ほうるい=砦)を発見、満州軍総司令部に報告したところ、児玉から秋山支隊の編制を命じられました。そして、8月末からの首山堡(しゅざんぽ)高地の戦いで敵の右翼後方から攻撃を行ない、遼陽占領に貢献しました。
 
 


 
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【肉弾・無知・命中率】
肉弾という言葉は、日露戦争に陸軍少尉として参戦した桜井忠温(ただよし)の戦記『肉弾』(1906)によって生まれました。
 
ロシア軍の機関銃は、日本の第3軍 旅順総攻撃開始より2カ月以上も前、5月26日の南山の戦いで初登場。第2軍が手痛い洗礼を受けていました。ところが、第3軍司令部はそのことを知らず、旅順総攻撃の際に乃木司令官は機関銃の銃撃音を聞いて「あのポンポンポンポンと音がするのは何か」と言ったそうです。日本軍の情報軽視(情報分析・意思疎通のまずさ)はこの頃からすでにあったのかもしれません。
 
●今回、少ししか出てこなかった8月10日の黄海海戦。旗艦ツェザレウィッチなどを戦闘不能に追い込んで日本海軍が勝利するも、作戦成果としては不充分。。。 この時、砲弾の命中率は日露ともに3%でした。東郷司令長官は非常に後悔したそうです。そこで、鎮海湾で訓練を実施しました。戦艦が通常1年間に発射する2万数千発を10日間で撃ち尽くす猛特訓。その結果、命中率が7・5%にまで上がりました。発射速度にも大きな違いがあって、日本はロシアの3倍(発射弾数が3倍)これは、英国製の最新式大砲だったということもありますが、やはり訓練の成果が大きかったのです。
 
  〜主な参考文献〜
編:NHK『NHK 歴史への招待28 日露戦争』(日本放送出版協会)p.81,188
広辞苑 第5版(岩波書店)
『ブリタニカ国際大百科事典(小項目電子辞書版)(Britannica)
『日本全史(ジャパン・クロニック)(講談社)
 
 


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まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。……
彼らは…、前をのみ見つめながら歩く。のぼってゆく坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂を上ってゆくであろう。
 
 
 【日本の決断】
 第2部の最後、「広瀬、死す」
御前会議が、ついに開戦を決定しました。
1904(明治37)年2月5日、佐世保港に碇泊中の連合艦隊 司令長官 東郷平八郎(渡哲也)のもとに封密命令が届けられ、開封されました。すぐに各隊の指揮官と艦長が旗艦三笠に呼び集められ、命令書が読み上げられます。
「連合艦隊は、かねての画策によりまずロシア太平洋艦隊を撃滅して海上の統制をせんと欲す。
ただちに、これより黄海に進み、旅順港および仁川港にある敵の艦隊を撃滅せんとす」
6日、日本はロシアに国交断絶を通告。
8日、駆逐隊が奇襲のため出撃…。
 
 
 【閉塞作戦開始…! 指揮官達の決断】
 一大決心のもとに奇襲を実行したものの、成果はいま一つ。
そこで、「戦わずして敵艦隊の能力を封じる」ための旅順口閉塞作戦が検討されました。港の出入口に、汽船を自沈させて敵艦隊を閉じ込めてしまおうという作戦です。しかし、閉塞作戦に詳しい参謀 秋山真之少佐(本木雅弘)が、要塞の火力を脅威として作戦に異を唱えると、先輩の参謀 有馬良橘中佐(加藤雅也)は、
「敵を恐れてばっかりやったら、何もでけんで。立案したわしが隊長として死地に飛び込むんやったら、
文句はあるまい。わしが決死の覚悟で、閉塞戦の先頭に立ち、必ず成功させてみせる!」
 
作戦敢行が決まり、指揮官の一人に抜擢されたのが、戦艦朝日 水雷長の広瀬武夫少佐(藤本隆宏)。艦隊出撃直前に真之と会った際、広瀬は「今度のロシアとの戦は、… いわば仲のいい兄弟と殺し合うようなもんじゃけん。おれにしかできん役目があるはずじゃ。… 生還を望むべくもない作戦でもかまわんち」と発言していました。
その時の真之…「生還できないような作戦は、初めから立てません」
 
 
 【ロシアの人々に愛と友情を込めて……】
2月23日、最初の作戦が失敗しました。3月27日、第2次作戦を敢行することに。広瀬は2回とも、自分が指揮する船にロシア語の横断幕を貼りつけました。
「親愛なるロシア海軍諸君。たとえ敵と味方に分かれても、広瀬武夫の名前は忘れんでほしい。余は変わらず君らの友人である」
 という内容。駐ロシア武官だった広瀬には、ロシアに大勢の友人がいるのです。
また、万一 自分が戦死した時を考え、ロシアで自分を想ってくれている女性アリアズナ・コヴァリスカヤ
(マリーナ・アレクサンドロワ)に宛てた手紙を書き、真之に託したのでした。
 
第2次作戦で旅順口へと船を進めた広瀬や有馬たちは、敵に発見され、激しい砲撃を受けます。待ち伏せの駆逐艦までいました。広瀬が指揮する福井丸は、何とか自沈準備を終えましたが、砲火の嵐の中で杉野孫七 上等兵曹が行方不明に…。広瀬は脱出用のカッター(手漕ぎ船)に部下達を待たせ自ら杉野を探し回ったものの、ついに見つからず…。やむなく探索を止めて脱出。しかし、“朝日”のような まぶしい探海灯に照らされたと思った瞬間……。
 
 
 【日露両国で慕われた広瀬 その影響力】
 広瀬の死を受けて、ロシア海軍はロシア正教にのっとって手厚く葬儀を行ない、その記事が旅順の
新聞「ノーヴィ・クライ」4月3日付に載ったのでした。
 
 まもなく日本では、連合艦隊 司令長官報告の文章をもとに、文部省唱歌「広瀬中佐」(戦死後 即日昇進)が作られ、「軍神」にされました。広瀬のエピソードは、私が中学生の時の歴史教科書(1990年頃)にも たしか載っていて、印象に残っています。
 
なお、閉塞作戦は5月3日にもう1度、今度は指揮官を代えて決行されますが、またもや失敗に終わります。が、日本海軍の果敢な姿勢は、ロシア軍をあせらせました。日本陸軍からの猛攻も始まって、やがて孤立したロシア旅順艦隊は自ら動き出してしまい、8月に黄海開戦が勃発します。
 
 広瀬の死は衝撃でしたが、経過や結果を見ると、無駄死にではなかったように思えますね。ただ、その死によってロシアとの大切なパイプが失われたことは、その後の日本史にもかなり深刻な影響を与えた可能性があります…。
 
 
 【『坂の上の雲』のいいとこ…!】
 戦争ドラマは、悲惨さや憎しみを込めようとすればいくらでもできるでしょう。
『坂の上…』では、敵国ロシア人にまで友情や愛情を感じさせ、それでいて戦争を美化しないで描いてます。また、当時の戦争の必然性もしっかり見据えています。庶民が開戦に狂喜する様子も、自然に出てきます。当時の人々の率直な反応が分かる内容で、太平洋(大東亜)戦争後の平和主義に毒されず、また 戦争を美化するでもない…、中身のある人間・国家を描いている優れたドラマだと思います。
 今回は激しい砲撃が見ものとなる一方で、開戦の新聞号外を見て動揺する正岡律(菅野美穂)や真之の妻・季子(石原さとみ)たち女性の心情も描かれ、とても丁寧な作りだと感じました。
 
 
 次回は、201112月、「旅順総攻撃」です。
さて、来年もずっと『坂の上』を見続けられる人は、果たしてどれだけいるのでしょうか…(^ ^;)
旅順攻防戦なみの死傷(脱落)者が予想されますが…、みなさん、戦死せずについてきてください() 坂の上の雲めざして、突き進みますよ〜!
読んでくださったみなさん、だんだん(^^) ありがとう!!
 
 
 
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