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図書館で運良く借りることができたので、この年末年始、立て続けに伊坂幸太郎の本を4冊読んだ。『死神の精度』、『砂漠』、『アヒルと鴨のコインロッカー』、『グラスホッパー』がそれだ(この順番で読んだ)。この内、前の2冊については記事にしたので詳しくはそちらをご覧いただくとして、問題は後の2冊。 ※以下、あまりプラスのことを書いてないので、『アヒル〜』『グラス〜』が好きという方は、読まないでおいてください^^; 読んだ順番も影響しているのかもしれないが、どちらも非常に後味の悪い話であった。特に『グラスホッパー』は厳しかった。小説としてよくできているし、面白いとさえ言えるのだが、こういうのはどうにも好きになれない。ちょうど、『オーデュボンの祈り』の、あの警官が出てくるシーンばかり抜き出してつなげたみたいだ(私は『オーデュボン〜』を高く評価しているが、あの警官のシーンだけはどうにもイヤだ。だから初読以来再読していない)。 もちろん私とて、暴力シーンや人が殺されるシーンがてんこ盛りで、その上人間とは思えない非道い連中ばかりが出てくるからといって、それだけで貧血を起こして倒れるようなことはない。ないけれど、やっぱり引いてしまう。そう思わされるのは、伊坂幸太郎の筆力なのかもしれないが、剥き出しの悪意や嗜虐性を次から次へと見せつけられるのは、気持ちのいいもんじゃないよ。それが物語の上のことであれ、現実世界のことであれ。そんなに気にするほどのことないじゃん、という人も多いんだろうけど……まぁ、多分私がヤワにできているだけなのだろう。(それにしても、伊坂幸太郎は政治家によほど恨みでもあるのだろうか) 『アヒル〜』については、話の展開や仕掛けには、なるほどと思わされたが、登場人物たちの行動には困惑を覚えた。「現在」の語り手椎名にしても、「二年前」の琴美にしても、普通の人間ならそんな行動はとらないのではないか、といちいち引っかかってしまうのである。特に「二年前」の事件に関しては、もっとやりようがあっただろう、少なくとも一番最初に警察に通報しとけばよかっただろう、とどうしても思ってしまう。河崎という男にもさっぱり魅力を感じなかったし、ペットショップの店長の特異なキャラクターも、なんのためなのかよく分からなかったし。もっとも、この違和感は、登場人物たちが同じように突飛な行動をとる『砂漠』においては、かなりの部分解消されていたので、作家としての力量の問題なのかもしれないが(文体や比喩の「村上春樹っぽさ」も、『砂漠』ほど洗練されてないし)。 そんなわけで、伊坂幸太郎4冊連読は、2勝2敗といったところ。実は、これまでこのブログでは、本についてあまり否定的なことや批判めいたことは書かないようにしてきた(ま、このあたりが私のヘタレたるゆえんなワケですが^^;)。基本的に自分が「面白い」と思ったものを紹介するというスタンスなので、そうでないものについてはそもそも書かなかったのである。でも、伊坂作品は良くも悪くも手応えがあるので、どうしても一言いってみたくなったのだった。そういう次第ですから、どうか気を悪くしないでくださいね(って誰に言ってるんだか)。 これで、伊坂作品で読んでいないのは『チルドレン』と『魔王』か。『魔王』は人によって著しく評価が違うけれど、果たして私に合うかどうか……とりあえず読んでみるつもりではある。
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伊坂幸太郎
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「砂漠に雪を降らせてみなよ」と唆されて、立ち上がらない西嶋はすでに西嶋ではない、と知り合って間もない僕ですら思ったのだから、西嶋歴十八年以上の西嶋ならなおさらそう感じたはずで、だからなのかすっくと立った。 『砂漠』「春」伊坂幸太郎『砂漠』(実業之日本社/2005年12月刊)を読んだ。 ………いや〜参った。参りました。もう、ド真ん中ストレートで三球三振。完敗だけど気分爽快、そんな感じです。 語り手である僕=北村は、仙台にある国立大学(要するに東北大です)法学部に入学したばかり。そこで出会った友人たちと過ごした大学生活、そして遭遇したいくつかの事件が、1年の春、2年の夏、3年の秋、4年の冬、そして卒業と季節を追って描かれていきます。4章+αで4年間というのは、端折りすぎのようにも思えますが、大学4年間なんて、ホント、あっという間に終わってしまうものですからねぇ。 さて物語は、北村と鳥井、南、西嶋、東堂という主要登場人物が出会うところから始まります。 北村は、いつも一歩引いて周囲を冷静な目で見ているタイプ。鳥井に言わせると「鳥瞰型」ということになるらしい。
その鳥井は、明るくて調子がよくて女好きで実家が金持ちで、でも憎めない男。 南は割と控えめで、でもそこだけが日だまりであるかのような雰囲気を持つ女の子だが、なんと超能力者で、おまけに麻雀が無闇に強い。 西嶋は、小太りで冴えない風貌ながら、自分の主義主張は直截に表明し、そしてそれを枉げない。言動は奇矯だし友人も少ないけれど、「恰好悪いけど、恰好いい」男。 東堂は、モデルといっても通るような美貌とスタイルの持主だが、雲霞のごとく言い寄ってくる男たちを片っ端から振りまくる、氷の美女。 この5人を中心に話は展開するわけですが……もう、とにかく北村のキャラクターが自分にかぶっていて、読んでいて他人のような気がしませんでしたね^^「そうそう、そういうヤツ見ると、そう思うよなぁ」とか、うなずくことしきりでした。鳥井の、軽佻浮薄だけれどそれなりに育ちのいいところとか、南の、穏やかな中にも芯の強い性格とか、東堂の、超然としているようで、実は色々考えていたりするところとかも、それぞれ魅力的です。 でも、本書のキモはなんと言っても西嶋です。ラモーンズやクラッシュを偏愛し、麻雀では世界平和のために!平和(ピンフ)を作り続け(そして負け続け)、「その気になればね、砂漠に雪を降らすことだって、余裕でできるんですよ」と明晰に断言する西嶋です。 身近に本当にこんな人物がいたら、相当迷惑でしょうが、それでも北村にとって(そして読者にとって)西嶋は一種のヒーローです。合コンで、場の空気をまったく無視して演説をぶつ時も、賭けボウリングを挑まれて敢然と受けて立つ時も、アパートでは犬は飼えないのに処分寸前のシェパードを引き取ってきてしまう時も、いつも西嶋は西嶋で、西嶋以外の何者でもない。冒頭に引用したのは、賭けボウリングのシーンですが、久々に本を読んで熱くなりましたし、「西嶋歴十八年以上の西嶋」には、声を出して笑ってしまいました^^ そうそう、脇役もいい味出してます。北村と付き合うことになるブティックの店員鳩麦さんや、ナゾの警備員古賀さん、東堂とそっくりな東堂の母親など、それぞれに別のストーリーが派生しそうな感じです。 もう一つ感じたのは、これは伊坂幸太郎版『風の歌を聴け』だなぁ、ということ。北村の語り口が、『風の歌を聴け』の「僕」を連想させたからかもしれないし、境遇や外見はまったく違っていても、「世界と戦っている」という点において「鼠」と西嶋は共通している、と思えたからかもしれません。 いずれにしても、素敵な小説であることは間違いありません。未読の方は、ぜひ手にとってもらいたいと思いますね。 最後に、とても気に入っているシーンを。
「おののく、って漢字でどう書くか知ってますか、北村?」 「おののく、って恐れおののくってこと? さあ」と僕が答えると、まったく、と西嶋は舌打ちし、棒を動かすと、「慄く」と砂に書いた。「もしくは」とその下に、「戦く」とも書く。 それがどうかしたのかい、と僕は訊く。「ってことはですよ」と西嶋が小刻みに首を揺すった。西嶋の身体はお世辞にも締まっているとは言えず、胸や腹の贅肉が震えた。「戦う妹子って書いたら、おののいもこ、って読めるわけですよ」と真顔で言い、戦妹子、と棒で書く。 「はあ」 「凄いでしょうに」 「残念ながら凄くないよ、西嶋」僕は本心から答える。本筋とはまったく関係ありませんが、こういうの、大好きです^^ |
人の死には意味がなくて、価値もない。つまり逆に考えれば、誰の死も等価値だということになる。だから私は、どの人間がいつ死のうが、興味がないのだ。けれど、それにもかかわらず私は今日も、人の死を見定めるためにわざわざ出向いてくる。 なぜか? 仕事だからだ。床屋の主人の言う通り。 「死神の精度」伊坂幸太郎『死神の精度』(文藝春秋社/2005年6月刊)を読んだ。 語り手である「私」は調査部に属する死神。調査担当の死神は、(どのような基準によってかわからないが)情報部によって指定された人物と何らかの関係を持ち、一週間にわたって調査をする。そして、対象の人物が死んでも問題ないと考えれば「可」、まだ生きる必要があると考えれば「見送り」の報告書を情報部に提出する。「可」の場合、8日目にその人物は死ぬ。事件、事故、災害など、病気以外の不慮のできごとによって。 上に引用したように、「私」を含め、調査部の同僚の死神たちは、人間の死に意味を見いだしてはいない。だから、そこには善悪による選別などない。極悪人だからといって死神につきまとわれるわけではないし、善人だからといって神が守ってくれるわけでもない。そもそも死神による調査には明確な基準がなく、ほとんどの場合「可」の報告書が提出されているらしい。しかも、調査自体がきちんとなされていないことも珍しくはないようなのだ。 さて本書は、そのようにして人間の死を決定し、見届けている「死神=私」が、仕事の上で担当した人々との一週間にわたる接触を描いた短編集である。どんな人物を担当したのかは、以下の通り。 大手電機メーカーで苦情処理を担当している22歳の女性。「死神の精度」
律儀なほどに「仁侠」の筋を通そうとする45歳のヤクザ。「死神と藤田」 夫婦で旅行に来て吹雪のために宿泊先の洋館に閉じこめられた中年女性。「吹雪に死神」 向かいのマンションに住む女性に密かに思いを寄せるブティック勤めの青年。「恋愛で死神」 渋谷の繁華街で人を刺し殺して逃走中の若い男。「旅路を死神」 太平洋に面した高台で美容院を一人で営む老女。「死神対老女」 本書を読んで、すぐに思い出したのは、同じ伊坂幸太郎の『終末のフール』だ。まずスタイルが連作短編である。それに、それぞれの物語がごく淡いラインで繋がっている。そして、人に理不尽な死をもたらすという意味では、「数年後に地球に衝突する小惑星」というのと「情報部からの指示で人の死を決定しにやってくる死神」というのは、ある種近い存在であるようにも思える。もちろん、小惑星に意思がないのに対して、死神には人間の死を「可」とするか「見送り」とするかの裁量権が与えられているのだから、違うと言えばまったく違うが。 それにしても(と、『終末のフール』への連想をさらに敷衍してみる)、小惑星が地球に衝突して人類が滅亡する時、死神たちはどんな風に対応するのだろうか? 一度に数十億の人間が死ぬとしても、やはり一人一人について調査し、形式的にでも報告を上げるのだろうか。それに、人間が死に絶えてしまったら、死神たちは失職することになるのだろうか…まぁ、余計なお世話だけれど^^ ちなみに死神たちは、人間界にいる時、便宜上名前を名乗っているが、それは市町村名などの地名である。語り手の「私」は「千葉」と名乗っている。また、死神には味覚がなく、睡眠をとる必要もない。もちろん、死神は死なない(笑)それから死神は、人間の作りだしたものの中で「ミュージック」、つまり音楽にだけは価値を見いだしていて、だから仕事で人間界に来た時には、CDショップの試聴コーナーに入りびたっていることが多いのだという。また、登場しはしないが、「天使」なるものへの言及もある。彼らはCDショップではなく、図書館に集まることが多いのだそうな。 さて、読み終わっての感想。作中ずっと雨が降り続いている(笑)にもかかわらず、なんだか、とても乾いた印象のある作品だ。死神の独白が、客観的でドライだからかもしれないし、死神に時間の観念が希薄であるからかもしれない。死神と関わった時点で(つまり物語の冒頭で)、登場人物の死が予想されるからでもあるだろう。
いずれにしても、好きな作品群であることは確かだ。それも興奮して面白さをまくし立てるような性格のものではなく、なんとなく白く乾いた骨を触っているような、奇妙に落ち着いた心持ちになれるという意味で。自分が理不尽な死を迎えたとして、それを見届けてくれる存在がある(例えそれが自分の死に「可」の判定を下した死神だとしても)、というのは、悪くないと思えるからだろうか。 また、伊坂幸太郎らしい気の利いたセリフが随所にちりばめられているのも魅力だ。個人的に一番ヒットしたセリフは、「死神対老女」に登場する、大きな犬を連れた少年と若い女性の会話。 「今日の夕飯、もずく出るかなー」と夢想するかのように言う。 「子供なら、カレーとか言いなよ、カレーとか。もずく楽しみにしてどうすんの」物語の結末はもちろん、このセリフには参りました。 |
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伊坂幸太郎『陽気なギャングが地球を回す』(祥伝社文庫 平成18年2月刊) 伊坂作品の文庫化3作目『陽気なギャングが地球を回す』を読んだ。 ハイ、今回もやられました! それはもうキッチリと、完膚無きまでに。 あぁぁ〜っっもうっ! 面白い! これは文句なくオモシロイ!! 悪いことは言わない。読んでない人は今すぐ買ってきて読むように(笑) ストーリー的には、なにも難しいことはない。 どんな嘘も見抜く人間嘘発見器=成瀬。 天才的なスリ=久遠。 嘘とでまかせの達人=響野(きょうの)。 絶対狂わない体内時計を持つ女=雪子。 この四人は、今までに一度もしくじったことのない完璧なギャング団である。彼らが、また銀行強盗を企て、実行する。今回も、誰一人傷つけることなく四千万のカネを奪い、悠々と逃走に成功。ところが、逃走途中に別の強盗団とはち合わせし、あろうことか手に入れたばかりのカネをそっくり奪われてしまうのである。響野いわく「とにかく、せっかく盗んだ金を一人も手にしないなんてことが起きると世の中は狂ってしまうってわけだ。この世の終わりだな」 四人は、奪われたカネを取り戻すべく動きはじめるのだが……。とまぁ、こんな風な話なのだが。 何しろ読んでいて心地いいのである。もうひたすら気持ちがいい。 このスピード感。このドライブ感。これぞ小説を読む醍醐味! ──というか、もはやこれは「音楽」である。それも、一流のジャズ・プレイヤーによる、極上のライブ・パフォーマンス。 登場人物をカルテットに例えるなら、常に冷静で先を見通し、全ての青写真を画く成瀬は、ベース。言葉で変幻自在のメロディーを奏でてみせる響野は、ピアノ。しなやかで強靱、かつ天真爛漫な若者久遠は、トランペットもしくはアルトサックス。正確無比な体内時計を持つ雪子は、さしずめドラムだろうか。 思い返してみれば、これまでに読んだ『オーデュボンの祈り』と『ラッシュライフ』も、実に音楽的であった。私の印象では、『オーデュボン』はケージ、『ラッシュライフ』はもちろんバッハだ。 ところで、ファンには周知のことなのかもしれないが、伊坂幸太郎はジャズがとても好きらしい。私も、マニアとまではいかないが、かなりジャズが好きだ。だから、作中でジャズについて言及されている部分に出くわすと、ニヤニヤしてしまう。特に、ミシェル・ペトルチアーニ(フランス人ジャズピアニスト。故人)のことが語られているくだりを読んだ時には、小躍りして喜んだものだ。なぜなら、本書を読んでいる間中、私の頭の中に鳴り響いていたのは、ペトルチアーニのピアノの音だったからだ。それにこの半年間というもの、私が毎日のように聴いている音楽は、まさにミシェル・ペトルチアーニのライブアルバムなのである。偶然とはいえ、この符合は嬉しい(ちなみに、恩田陸もペトルチアーニの大ファンで、彼に捧げる作品『ユージニア』まで書いている)。 というわけで、もし、本書をこれから読もう(あるいは読み返そう)と思っている人で、私の勧めに乗ってもいいな、などと思う酔狂な御仁がいらしたならば。ぜひぜひミシェル・ペトルチアーニのライブアルバムを聴きながら、読んでいただきたい。騙されたと思って。いや、騙された人間に言われても説得力ないかもしれないけれど(笑)
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伊坂幸太郎『ラッシュライフ』(新潮文庫/平成17年刊) 登場人物も、背景も、時系列もバラバラ。一見なんの関係もなさそうな形で語られはじめる複数の物語が、近づき、ニアミスし、交錯し、つながりあい、また離れていく。 「金で買えないものはない」と豪語する画商の戸田と、その戸田にいわば「買われた」も同然の若い画家、志奈子。 常に一人で仕事をする、知的で腕のいい職業的泥棒、黒澤。 神と噂される高橋という人物に心酔し、講演会に通う河原崎という青年と、高橋の側近である塚本という男。 互いの配偶者を亡き者にしようと画策している、心理カウンセラー京子とその不倫相手、プロサッカー選手の青山。 会社をリストラされ、妻子に去られ、四十社連続で不採用通知を受けている無職の中年男、豊田。 薄汚れた、柴犬らしき野良犬。 序盤は、それぞれの物語を興味深く追ってしまいます。 中盤、次第にお互いの関係性が見えてき始めつつ、各ストーリーがめまぐるしく展開。 そして終盤、ひとつひとつの部品が、「カチリカチリ」と小気味よい音を立てて、ひとりでに組上がっていくように、物語が収斂していきます。 偶然という名のカオスの中から、幾何学的な美しささえおぼえるような構図が浮かび上がる歓び。しかも、その歓びを感得できるのは、登場人物たちの人生を俯瞰で眺めている読者、つまり私たちだけなのです! それぞれの登場人物は、それぞれの人生を生きているのだから、自分たちがどのような構図の一部を成しているのかを知ることはできません(神?である高橋という人物についてはその限りではありませんが…)。 そうした「作品世界と読者」というようなメタレベルの関係性を常に意識させる点も、エッシャーの絵を全体のモチーフとするこの作品の面白いところでしょう。 ちなみに本作について、文庫版の裏表紙には「巧緻な騙し絵のごとき現代の寓話」と紹介されています。なるほど、一種戯画化されたかのような登場人物たちが動き回る様子は、読み手の感情移入を避けるようでもあり、寓話的な雰囲気を醸し出しています。しかし、作者はこの小説に何かの寓意をこめたわけではないでしょう。もちろん、そこに何らかの教訓や諷刺を読みとることはできます。砂漠に広がる風紋を「美しい」と感じるのが私たちの脳であるのと同じで、解釈とは結局のところ受け取る側の問題なのですから。 でも、この物語から「やっぱりお金よりも大事なものがある」とかいう当たり前の「意味」を見いだすよりは、偶然によって織りなされた文様を、そこに意味などないと知りながら「美しい」ものとして眺める方がいい、と私は思います。 さて、先日デビュー作『オーデュボンの祈り』を読んだ時に残った「片づけられない」読後感は、本作においてはさほど感じませんでした。むしろ、物語の疾走感と構成の巧妙さに楽しく身をゆだねることができました。また、読んだ後は、この小説はどうやって書いたのだろう?という技術面についても考えさせられましたね。後半の展開の、あまりにもあざやかな収斂ぶりを見ると、ラストから逆に書いていったのかなぁ……とか(単純すぎますかね)。 とにかく、驚き、かつ楽しめる作品であることは間違いありません。 なのに、どうしてもひっかかる部分があるのです。 なぜだろう? と読後しばらく考えていたのですが──。 ふと、気づきました。 なんのことはない。私は伊坂幸太郎という作家の才能に、嫉妬していたのです。もし自分が小説家なら、こんな物語を書きたかったのに、もう書かれてしまってるじゃないか!という(笑) ……いや、別にこれから小説家になる予定があるわけじゃなし、嫉妬してどうするんだヨって感じなのですが(苦笑) でも、それがわかって自分なりに「腑に落ちた」のは確かです。多分これからは、伊坂作品をもっと虚心に読むことができるのではないかと。 次は何を読むべきか……やっぱり『重力ピエロ』ですかね^^?
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