キリスト者として今を生きる

風は冷たいけれど春の訪れを感じます。。。

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10年以上前、私は何か細胞が生きるのに必要な要素が決定的に足りない、といったかんじで渇いていた。それでやむにやまれぬといったかんじでツアーの申し込みをし、3週間死に物狂いでスペイン語を勉強し、「ベンポスタ子供共和国」を訪れた。なぜベンポスタのことを思い出したのかというと、「なんのために勉強するのか」という今の日本の社会、大人が答えられない問いに、ベンポスタは一つの答えをはっきりと提出していたからだ。

まず最初にベンポスタのことを簡単に紹介しておこう。シルバ神父という人が、スペインのストリート・チルドレンを集めて、子供たちが慈善にたよらず生きていけるよう、自活しながら学べる共同体を作ったのがベンポスタの始まりである。オレンセという、巡礼地サンチャゴ・デ・コンポステッラに近い、スペインにしては緑豊かな小さな町で、今ではスペイン以外の国からも子供たちが集まって共同生活をしている。とはいってもベンポスタが映画にもなってちょっと有名になり日本人の子供が多く集まってきたことと、アフリカ北部や同じスペイン語圏の中南米からの子供がいるくらいであるが。子供たちの「自活」とはサーカス収入である。サーカスの方は日本公演で観たが、かなりの水準であり、それ自体として楽しめる。サーカスというと子供虐待の悲惨な歴史を思い起こさせるが、日本から来たベンポスタの子供たちは「サーカスは好きだ、楽しい」と目を輝かせて言っていた。世界各地を公演して回るこのサーカス収入を主な財源に、あとはちょっとした農業や畜産、食事づくりも子供たち自身が行なう、という形でベンポスタは運営されている。
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私の人生であんなにすばらしい経験をしたことはなかった。で、何が、と言葉で伝えられないのがなさけない。スペイン語は3週間必死になってもたいしたことはなかったが、年かさの少年たちの様子で、彼らがほんとうに耳をかたむけて他人の「心」を聞き、その「心」と交流しようとしているのがわかった。こんな経験は日本ではしたことがなかった!ツアーで一緒に参加した日本の子供たちはベンポスタの食事が粗末で「おいしくない」こと、ベンポスタ内のBARに入ってホットドックを注文しても「今ない」と言われたことで不満を爆発させ、ジレクソを起こしていた。ツアーの子供たちと私が話すのをBARのカウンターで、ベンポスタの少年(高校生くらいだろうか)はじっと「聞いて」いた。もちろん日本語だ。彼にわかるわけはないのに、じっと「聞いて」いた。そして子供たちが何を感じているのか、私がどう感じ、どう対応しているのかを的確に理解した。だからといってホットドックは出なかったけれど。

ベンポスタの少年(青年?)たちとのそんな「たしかに心でコミュニケートしている」と感じる瞬間は約1週間の滞在中に何回もあった。彼らはじっと真摯な、厳粛ともいえるほどの目で(あの目が忘れられない!)、全集中力をかたむけて、私やツアーの子供たち何を感じているかを聞きとろうとしていた。Escucha! ( 聞け!) ツアーが終わりに近づいたころ、青年たちが丘の上にある中世からの修道院に連れて行ってくれた。その修道院もベンポスタの子供たちが発見したものだそうだ。修道院の脇に泉があった。「ここは命の泉って言うんだよ。美しいでしょう。」そのくらいはスペイン語でわかった。ああ、ほんとうだ、と思った。写真撮影をするとき、ベンポスタの青年たちとツアーの日本の子供たち、私たち日本の大人たちの間に手で大きく楕円を描き、”Aqui esta Jesus Cristo.” (ここにイエス・キリストがいる)----私はふつうこういうキリスト教用語は嫌いである。しかし言語のバリアにもかかわらずたしかに心で交流していると感じたその瞬間、「たしかにここにキリストがいる」とウソでなくかんじたのだ。

ベンポスタのサーカスは圧巻だ。古代の奴隷制から始まってヒトラーまで、古今の圧制と暴虐をサーカスを通じて表現する。「人間ピラミッド」では、身体の大きな年配の子供たちが一番下で足を踏ん張って支え、一番身体が小さい年下の子供がピラミッドの頂点で高らかに手を広げる。「大きく強い者が下に、小さく弱い者が上になる」というベンポスタの共同体の理念を表しているという。

シルバ神父が語ったことを同行の通訳が伝えてくれた。

「ベンポスタは学校ではなく共同体なのだ Somos otra cosa. Es COMUNIDAD. 」
「日本の学校は共同体から切り離されていて、個人主義的だ」
「人間はコミュニケーションをとればとるほど人間らしくなる。そうしないとどんどん堕ちていく」
「ベンポスタでは英語を勉強しない。世界中の人が英語を勉強するのはドルの力のためだ。ドルのために言葉は勉強しない。言葉は人々とコミュニケートするためにあるのだ。」
「宿題を出すことは禁止だ。1日に5時間以上勉強することも禁止。働かなくてはいけない。」
「1年間に6千万人もの子供たちが死んでいる。世界はエゴイズムと物質主義に支配されている。」
「私たちが変えることのできるこの世界を変えること。
 Cambiar un Mundo que nosotros podemos cambiar. そのために勉強をするのだ。」
ベンポスタにもいろいろ矛盾はあるようだったし、日本からスペインに渡った子供たちは環境も貧しさやミサの退屈なことなどにかなり不満を抱いているようではあった。「子供(幼児児童)がタバコを吸ってはいけない」というポスターは、逆にここでは子供がタバコを吸っているのだな、ということを思わせた。こちらの気持ちがハイだったせいで、美化しているところもあるのかもしれない。それでもベンポスタは私の人生を変えた。ベンポスタから帰って1年後、私は今まで勤めていた学校を辞めて、労働をしつつ共同生活をしている小さな僻地の学校に移った。(夫とは一時別れて。)生徒の偏差値も給料も今までの学校と比べ物にならないくらい低かったが、「心」が通じる経験をした。

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今からでかけます。コピーをしましたので 出先でゆっくり読ませていただきます。

2006/10/5(木) 午前 10:12 talvitakki 返信する

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共同体、生きる意味、子育てしながら富と幸せを天秤にかけている私には響くお話でした。トラックバックさせていただきました。

2006/10/5(木) 午前 10:42 [ - ] 返信する

スターさんをうらやましく思います。未だに、自分が何者なのかわからず、人生に意味などないのかもしれないと疑っている私とはずいぶん違う。信仰のある人と、ない者の差なのかな?

2006/10/5(木) 午前 10:53 うしどし 返信する

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アメリカにこういう大学があります。授業料は一切なし。教授陣も給与を得ない。学生は大学構内に住んでいて農業やその他もの作りをやり、それを市場に流通させることにより金銭収入を経、大学運営を行う。生産物を市場に流通させるわけですから、世間からは隔絶していません。キリスト教系の大学です。名前を忘れたので、調べてみます。確か、ケンタッキー州だったかと。別に、それが良いというわけではないのですが。

2006/10/5(木) 午前 11:20 och**obor*maru 返信する

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読みました! 感動しています、いろいろなことで。なによりもstarさんの努力、集中力と情熱に。すばらしい文章。その場にいるー思いになりました。子供達の目と心が目の前にあるよう。 衝撃的なのは 帰国後実行に移されたことです。今胸がいっぱいです。Mucisimas gracias!

2006/10/5(木) 午後 2:49 talvitakki 返信する

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pukuwatariさん、たっきさん、でも私、こちらに戻ってきてから(今日も今まで)「ドルの力」のために流行っている英語産業で稼いでいます。こんなんでいいのだろうか。。。とこの記事を書いたあと、自分の生活をあらためて考えました。pukuwatariさん、TBありがとう。

2006/10/5(木) 午後 10:12 sta*sto*y60 返信する

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うしどしさん、「信仰」って何かな。「○○教」っていうものじゃないと思うんです。金子みすずさんの「土」には信仰のようなものを感じますヨ。みすずさん、仏教徒なんでしたっけ。

2006/10/5(木) 午後 10:16 sta*sto*y60 返信する

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NANAMIさん、私は「ユートピア」がこの世のどこかにあると思わないし、どんな共同体にも矛盾はある、ベンポズタにも、私の移った学校にも、と思うんです。ただそこには「何か」があった、ということは言える。ベンポスタだってサーカスを通じて外の世界と経済活動を行なっています。それはかえってよいことかも。

2006/10/5(木) 午後 10:21 sta*sto*y60 返信する

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たっきさん、読んで下さってこちらこそgracias!なんだったのでしょうね。「努力」とか「情熱」とかではないかもしれません。ベンポスタに行ったのはむしろ虚しくて細胞が死んでいくようなかんじだったから。こんな文で伝わったのでしょうか。一つ一つの場面とそこでの不思議な空気ははっきりと思い出されるのに、言葉にするのがむずかしいのです。

2006/10/5(木) 午後 10:30 sta*sto*y60 返信する

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starさん、私は信仰を持たない人間ですが、一度だけ霊的かな?と思えるような経験をしたことがあります。ニューメキシコのサンタフェ近くにChimayoという小さな修道院があるのですが、そこの礼拝堂に入ったときに、えもいわれぬ暖かさのようなものに包まれて、いつまでもそこにいたい、と言うような気持ちになったことがあります。ある人が、ある場所で何を得るか、ということに関して言えば、その時のその人の心理状態もあるだろうと思います。http://chimayo.org/

2006/10/6(金) 午前 10:25 och**obor*maru 返信する

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NANAMIさん、ベンポスタでは「あのおじさんが(車で)ここまで送ってくれたんです」とスペイン語で言おうとして、それは「主が私をここに運んでくれたのです」という意味になる、ということに気づいて驚いたことがありますけど、私、こういう「出来事」から先に「あの世」に行ってしまいたくないんです。そういう「読み」を私はしたいようにも思った、そういう読みをしたくなる人々と交流を「経験した」ということに留めたい

2006/10/6(金) 午後 6:04 sta*sto*y60 返信する

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(つづき)。「信仰」とは、こういう「出来事」や「経験」を証しとして語ることだと考えられているけれど、私は抵抗がある。それを「あの世」へ行くことだと表現しています。「あの世」へ行ってしまうと「この世」や経験より「あの世」の方が重要になってしまうから。ある意味、現実や生身の人間と向き合えなくなり、鈍感になる気たします。URLありがとうございます。

2006/10/6(金) 午後 6:04 sta*sto*y60 返信する

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