キリスト者として今を生きる

風は冷たいけれど春の訪れを感じます。。。

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ペンテコステに寄せて

去る5月27日は、ペンテコステ(聖霊降臨祭=五旬祭)でした。遅ればせながら、その意味するところについて考えてみたいと思いました。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、

この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。

人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、

フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、

ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。

しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
                                                                (使徒言行録2章1節〜13節)



新約聖書中の上の箇所は、旧約聖書に出てくる有名な「バベルの塔」の出来事に対応しているように思われます。

世界中は同じ言葉を使って、

同じように話していた。

東の方から移動してきた人々は、   

シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。

彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。
 
石のかわりにれんがを、

しっくいの代わりに

アスファルトを用いた。

彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。

そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。

主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。

「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、

このようなことをし始めたのだ。

これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。

我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、

互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」

主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。

こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。

主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、

また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

イメージ 1


                                 (創世記11章1−9節)



「互いの言葉が聞き分けられない」ということを私たちはしばしば経験します。上の聖書の記述はいずれも、文字通り受け取れば、かつて世界共通の言語を話していた民族が、それぞれの言語に分化し、お互いに言葉を聞き分けられなくなったという出来事についての神話的な説明のようなのですが、私は、「同じ日本語を話していても、相手の意味するところが私には伝わらず、私の意味するところは相手には伝わらない」という経験について語ったものとして受け取るのです。私と相手とのあいだに起こるこのような「誤解」は悲しいものですが、どうしたら「誤解」を避け(あるいは乗り越え)、「相互理解」に到達できるのでしょうか。

わたしも最近、このような「誤解」を経験しました。相手を傷つけるつもりではなかったのに、「深く傷つけられた」と言われてしまいました。言葉を尽くして自分の言った意味について説明しましたが、どうしても伝わりませんでした。相手がどのような意味でわたしの言葉を受け取り、どうして傷ついたのかということは理解したように思いましたが、わたしの側のその理解も十分ではなかったのでしょうか。こんなとき、同じ日本語を使って話していても、自分と相手とのあいだに横たわる意味の深淵について考え込んでしまいます。

どうしたら「誤解」を乗り越え、相互理解に達することができるのか。心理学者の河合隼雄(この人は最近、文科省のブレーンのようになって、「?」なのですが、彼が以前書いた本は私は好きでした)は、「主観の共有」こそが、そこに至る道だと述べています。

ある高校生が来て、「うちのお母さんは鬼みたいな人です」というとき、それではお母さんに会ってどんな人か確かめようとはしないのである。私は、その人が「お母さんは鬼」と思っている主観の世界をできるかぎり共有しようとする。もっとも、これは危険きわまりない仕事である。だから、われわれは相手の主観の世界にできるかぎり入りこもうとしつつ、それに溺れてしまわないように訓練されているのだ。

なぜそんなことをするのだろう。ここで、私がその母親に会い、彼女が鬼でもなんでもなく、普通の女の人であると判断して、それをその高校生に伝えたとき、彼はどうするだろう。彼が私の意見に同意してくれることは、めったにないだろう。ものわかりの悪い先生だと思うくらいで、彼はおそらく私のところに来るのを止めてしまうだろう。

私が彼と主観を共有しようとしていることを知って、彼は来談を続けるだろう。そして、あえて主観の共有に踏み切った私と彼とが、話し合い、見直し、考え直しているうちに、主観の世界に見えていたものの様相が変わってくるから不思議なのである。それは、「たましい」への接近の道なのである。

「お母さんは鬼だ」と高校生が言ったとします。「君のお母さんに会ったけど、鬼じゃないよ。君のことを本当に心配して愛してくださっているんだよ」「もう、いいです!先生には僕の気持ちなんかわからないんだ!僕は毎日こんなにつらい思いをしているのに!」「お母さんだってつらいんだよ、なんでそのことをわかってあげようとしないんだ、君は自分の気持ちしか考えてないじゃないか」…想定される会話です。誤解、コミュニケーションの破綻はこのように、「善意」にもかかわらず起こります。

相手を理解しようとすることは、相手の主観を共有しようとすること、相手の生きているリアリティを共有しようとすることでしょう。そのことの重要性を知りつつ、現実に生きているなかでは、そのことの実践はなかなか難しいものがあります。なぜなら私も私自身のリアリティを生きており、そのリアリティを相手にもわかってもらいたいという欲求を抑えつけることはできないからです。「私にはあなたの言葉はこのようにしか受け取れないのだ」と言う相手のリアリティを推し量ることはできます。そのリアリティを支える痛みがあり、痛みと結びついた否定しがたい「現実感」があります。一方で私のリアリティにも、私の生きている状況と抜きがたく結びついた痛みや疲労といった身体感覚があります。河合隼雄のようなカウンセラーならともかく、現実に他者と向きあうとは、私自身のリアリティも背負いながら相手のリアリティとからみあう困難な作業なのです。

私と彼/彼女との言葉がお互いに通じ合わないのは、私たちがバベルの塔を建てようとしたからでしょうか。それではバベルの塔とはいったい何の比喩なのでしょうか。聖霊が降ったとき、人々は自分の国の言葉ではなく相手の故郷の言葉を語りはじめました。相手の故郷の言葉で、すなわち相手の現在を構成する経験に沈潜し、かくして誤解とディスコミュニケーションを乗り越え、たましいに届く言葉を語りはじめました。それは私自身の故郷=私自身の経験とリアリティを切り捨てないでもできることなのでしょうか。ペンテコステに寄せて、そのようなことを考えました。


 

閉じる コメント(13)

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yahooの設定が変わったのでしょうか。以前のやり方でwiki文法を使って文字を大きくしようとしてもできません。やり方をご存知の方、教えてください。

2007/6/10(日) 午後 2:19 sta*sto*y60

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相互に理解を深め合いたいとすれば、会話を尽くしていくしかないと思います。しかし、この「会話」というやつが結構厄介なもので、「誤解」を生じさせるものにもなりかねないですよね。時には傷つけあうことがあるかもしれないけれど、それをおそれて、会話せずに要るとしたらますます「誤解」の深みにはまり込みそうな気がします。またstarさんの記事にコメント書きますね。これからもよろしくお願いいたします。

2007/6/11(月) 午前 2:55 [ - ]

相手の言葉や態度は、必ず文字通りとは限らないから、やっかいですよね。嘘をつくという意味ではありません。例えば、好きな子なのについ、意地悪をしてみたり・・・、泣きたいほど苦しいのに、ヘラヘラ笑ってしまったり。いつも自分の言葉や態度が、ほんとうに自分の心の通りとは限りませんよね。自分自身でさえ、その心の奥底の自分に気づいていないときもあります。ただ、聞いてもらいたいだけの時もあるし、否定してもらいたい時もある、もちろん、賛同してもらいたいときも。だからこそ、人間関係は難しい。相手を真に理解しようと思ったら、一生かかるかも知れません。いや、もしかしたら、一生かけてもできないのかもしれませんが。でも、私は、人と心で関わることを諦めたくないな・・・と思っています。

2007/6/11(月) 午前 5:40 [ プリンプリン ]

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私は以前の学校で美術教師の他、上智大学に通って「カウンセリング」を学びました。在職中は十数年学校で相談室を開設、子供達や保護者と対応してきました。そこでの毎日に自分に言い聞かせていたことは、「今のあなたの気持ちを理解する」ということでした。これは大変難しいことでした。どうしても「私」が出てしまうからです。特に「教師」としてのもっともらしいことが出てしまうの野です。

2007/6/12(火) 午後 5:04 [ kabanotakara ]

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「私」を伝えるのは「君のことを聞いたそのことの私の気持ち」を伝えるべきですが、どうしても説教めいた、さももっともらしいこと云ってしまうのです。これでは意思疎通は出来ませんね。そんな心配もいろいろしました。

2007/6/12(火) 午後 5:07 [ kabanotakara ]

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政治は前頭葉と前頭葉との闘い。そこに「感情」が複雑に絡みあっていますから、困ります。安部さんなど、「僕はじいちゃん子だ。だからじいちゃんが好きだ。じいちゃんが求めていたことは正しい。だから、じいちゃんのため憲法を変えたいんだ。僕にはこれしかないんだ。頼むみなさん、じいちゃんを男にしてあげて下さい。」そんな「だだっ子」の彼が見えてきますので、そんな「だだっ子」の彼の「今の気持ち」。いろいろあって「焦っている気持ち」それを野党が「分かってあげる」そんな対応もあるので゜は・・。大人の世界。政治の世界ですから、ドロドロしていて相互理解とまではいきませんが、そんな対応はどうですか。

2007/6/12(火) 午後 5:17 [ kabanotakara ]

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GENDAIさん、私はずいぶん他人を傷つけてきてしまったように思います。そしてもうこれ以上傷つけたくないというのが本音です。自分の世界観人生観に立ち、そこから一歩もゆずらず理詰めで話してしまうことが原因なのではないかとおぼろげながら感じます。理解しあいたいという欲求があってのことですが、こうしたアプローチそのものに問題があるのではないかとも感じています。そうしたアプローチこそが「バベルの塔」なのではないかとも思うのです。その人の存在そのものを否定したように受け取られたことは、私にとっても相手にとっても容易に癒すことのできない傷です。この傷をのりこえて、相手の存在を大切に思っているのだということを伝え、お互いの存在を認め、大切にしていくことはどうしたらできるのでしょうか。

2007/6/12(火) 午後 8:05 sta*sto*y60

プリンプリンさん、「嘘」と「本当」は簡単に区別できないものではないかと感じています。「嘘」の奥にひそむ「本当」に耳を澄ます感性を育てていきたいと思っています。「信じる」ということの深い意味について考えます。「聞く」ということは難しいことです。「聞く」かわりに「話して」しまいがちな自分への自戒をこめて。

2007/6/12(火) 午後 8:10 sta*sto*y60

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kaba先生、私が感じているのもそのことです。「今のあなたの気持ちを理解する」…このことはやさしいようで難しいことです。「理解する、しかし…」と続けてしまいそうな自分を抑えられないのです。アシジの聖フランシスコの祈りに「愛されることよりも愛することを」「理解されることよりも理解することを」求める者としてください、という祈りの一節がありますが、この世の常識として「相互理解」を求める自分もいて、この世で生きていくかぎり、この相互理解をもとめる「生活者」としてのスタンスを崩すこともできないのです。「たましいの国」と「生活」はどうしたら折り合うのだろうか、などとも考えてしまいます。私が肉体と状況を離れて生きているのだったら、「たましいに触れ合うこと」はもっと容易にできそうに思われるのに。。。

2007/6/12(火) 午後 8:19 sta*sto*y60

人類がせっせっと造ったバベルの塔に嫉妬し、共通語を破壊した神なる存在については、ノーコメントですが、言葉の持つ限界を考えさせられる記事でした。言葉は心を伝えることができるか? 人は人を理解することができるか? 謎は容易に解けそうにありませんが、それでも、私たちは言葉でしか心を伝えるしかないのでしょうね。

2007/6/13(水) 午後 5:47 うしどし

うしどしさん、こういう記事こそ無神論者とか仏教者とかアマノジャクからのコメントをいただきたいと思っていたので、うれしうございます。以前賢い生徒からこんなコメントをもらったことがあります。「言葉をグルグル回しても意味するところは伝わらない。それより自分の好きなものを語る方が何倍も心を伝えることができるのだ」…いまだに覚えています。私がある人間を信じるリトマス試験紙も、相手の論理の整合性によるよりも、何が好きで何が嫌いかということに対する回答なのかもしれないと振り返って思いました。

2007/6/13(水) 午後 9:05 sta*sto*y60

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河合隼雄さんなんて知らないし、聖書も碌に読んだ事のない私ですが、要するに相手が話し終えるまで話を聞き続ける事が案外と難しいという事ではないでしょうか?隣のトットちゃんだったかな?「トットちゃんは手品も出来ない。お金も無い。でも、お話をキチンと最後まで聞いてあげる事が出来るのです。」と自分はお喋りが止まらない(というテレビの印象の)黒柳さんが物語を書いていましたが、私には河合さんの小難しいお話よりも、トットちゃんの方が分かり易く、知恵があると思いました。

2007/6/15(金) 午前 8:14 [ hajmo_rakija ]

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ラキヤさん、トットちゃんとエンデの『モモ』が重なります。「お話をキチンと最後まで聞いてあげることができる」という点かな。スターはそれができないのね。

2007/6/15(金) 午後 8:43 sta*sto*y60


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