キリスト者として今を生きる

風は冷たいけれど春の訪れを感じます。。。

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敬老の日である。「老人を敬う」日である。「たいせつにする」のでも「いたわる」のでもなく「敬う」のである。これはなかなか現代の日本人にとって、むずかしいことなのではないだろうか。

自分の孫でもない若輩者から「おじいちゃん」「おばあちゃん」とよばれたらどんな気持ちがするだろうかと考える。私は自分が老人になったとき、知らない若い人から「おばあちゃん」と話しかけられたくはない。だから年配者を自分が「おじいちゃん」「おばあちゃん」とよぶことにも抵抗がある。「おじいさん」「おばあさん」ならまだしも、自分よりはるか年上の先輩を「ちゃん」づけで呼ぶことには抵抗があるのである。たしかに「ちゃん」は親しみの表現である。「おばちゃん、これちょうだい」なんて子供が駄菓子屋のおかみさんに話しかけたりする。しかし親しみの表現だからこそ、よく知らない他人から「ちゃん」づけでよばれることには、「無礼」と感じるのである。若い人だって実はそれを知らないわけではないだろう。生徒はたまにイヤガラセのつもりで私を「おばチャン」と呼ぶ。

「おばあちゃん」と呼ばれて、ニコニコ温厚な笑顔を浮かべてフレンドリーに受け答えできるほど私は可愛い「おばあちゃん」になれそうにない。老人になったら可愛くならなければならない…これはこれまで「可愛い」路線から大幅にハズれて生きてきた私にとってはきっと至極むずかしいことである。これまでやってこなかったことを、タダでさえ順応性が弱くなっている老齢になってから身につけるというのは、「70歳を過ぎてからデングリ返しをマスターする」よりむずかしいことのような気がする。


「おばあちゃん」でないならば、自分が年取ったとき一体なんと呼ばれたいのか。
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朝の連続ドラマ『ちゅらさん』でみたような、「おばあ」なんて呼ばれ方は悪くないなと思う。『ちゅらさん』は沖縄の話で、「おばあ」もそれなりに可愛い老女なのだけれど、原始信仰が息づく沖縄の「おばあ」には巫女的要素もあって、電話がかかってくる数秒前にそれを予知したり、と不思議な力を持っている。老人はもともとこういう不思議な力と「知恵」とで敬われてきた存在だった。「もともと」っていきなり何千年もワープするけど、洞窟の中とかで火を焚いて、焚き火の周りに大人から子供まで集まり、「長老」の語る物語に耳を澄まし、心躍らせた、なんて光景が思い浮かぶのである。文字が発明される以前は、人間は聞き落とすまいと人の話をよく聴いたように思うし、文字に書き写して空間を持ち運びすることができないから、「知恵」は老人の身体に抜きがたく結びつき、老人は「知恵」の体現者だった。


「文字の発明」の話からさらに、技術は人間を幸せにしたかどうか考えるワケだけど、こと老人問題に関しては、トータルにいえばプラスよりマイナスのほうが大きかったような気がする。もちろん医療技術が発達したから寿命はここまで延びたわけだけど、それが「幸せ」をもたらしたかどうかは別問題である。短い間だったけど、姑を看取るまで介護して、老人は延命治療で何年でも生きながらえさせることができることを知った。姑は結局「老衰」で亡くなった。それまで「老衰」というのもどういう意味なのだかよくわかっていなかったのだけれど、どこか病気というわけでもないのに身体機能そのものが老いて衰え、食べ物や飲み物を呑み込む力、下腹をいきんで排泄をする力、など私たちが「力」とも特に考えていないような「力」さえ弱くなって死んでしまうことである。胃に入れるべき飲み物が誤って肺に入って肺炎を起こしてしまったり、うんこが自力ででなくて苦しかったり、気管支が細くなって呼吸が困難になったりする。現代医療はこの「老衰」した身体機能を機械で代替させることができる。たとえば飲食物を呑み込むことができなくなった場合、胃に孔を開けて、食べ物を人工の管から胃に直接(口と食道をとおさず)送り込むのである。そのようにしてでも生きていてほしいと願う近親者の情愛を軽視することはできないけれど、自分自身の将来を考えたとき、このような状態で生きながらえるのはイヤだ。姑を看取ったあと、私は「尊厳死協会」に問い合わせて書類を取り寄せ、自分が危篤状態に陥ったとき「延命治療をしないように」という生前遺書(リヴィング・ウィル)を書いた。


「老いる」ことを尊いこととしてみつめられない私。姑は最期のひと月を除いて自宅で介護したけれど、たいせつに心をこめて介護したとは言いがたい。私自身、日々ストレスと戦い、バランスを取ることで精一杯だったのだ。老人を大切にし敬う社会は、若い人たちにとっても幸せな社会なのだろうとは思う。なぜなら「老い」は若い人たち全てにとって「未来」であるから。「未来への希望」=「老いの意味」を根付かせた社会は、貧しくても幸せな社会だと思う。「知恵」が「知識」に代わり、「知識」が「情報」に取って代わられた社会で、私たちは年齢を重ねることの意味をどうしたら再び手にすることができるのだろうか。

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閉じる コメント(20)

私は、周囲から好かれたり、いたわられる老人にはなれないです。最期はのたうちまわって、自宅で孤独に死んでやります。ケッ

2007/9/17(月) 午前 11:22 うしどし

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30をなって、高校生のときにオッサンに思えた30歳の考えることが実は高校生とたいして変わらないのに驚きました。 その感覚は、恐ろしいことに50を超えてもあまり変わりません。 つまりいくつになってもこの感覚のままなのかなと…。 物忘れが激しくなっている、思ったように体が動かないというようなことはあっても、本質的なところはほとんど変わらないような気がしています。

2007/9/17(月) 午後 4:17 [ - ]

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私は、理想は長谷川町子の「意地悪ばあさん」なの。
年取っても あんなふうに、意地悪しまくって、元気にやりたい。
でも実際は老後なんて選べないものね・・・
どんどん、お肌がシミしわだらけになって、腰も伸びなくなって・・・それでも、意地悪したい。(笑)

2007/9/17(月) 午後 7:08 すたぁびれ♪

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田舎の祖母が認知障害が進みました。時に反目しあいながら、家族で面倒をみています。以前は嫁とあまり仲が良くなく、「歳を取って、あの人に面倒みてもらうのは嫌だ」と私に語ったことがあります。ですから今の状況は不本意なのかもしれませんが、よく分かりません。私は41歳で死んだ母親の年齢を超えました。それ自体なんとなく不思議な気がします。

2007/9/17(月) 午後 8:53 och**obor*maru

うしどしさん、わかりますわ。それこそ「尊厳死」というものです。

2007/9/17(月) 午後 10:52 sta*sto*y60

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axbxcxさん、その感覚共有いたします。時代のせいなのか人間とはそもそもそういうものなのかが「現代」という時代にしか生きていない私にはわかりませんけれども。祖父母はいずれも70代で亡くなり、私が子供だったときは60代でした。今父母は70を越していますが、当時の祖父母よりはるかに若く感じられます。そして自分がかつての祖父母の年齢に達するまでもしかしたら「まもなく」なのかもしれないと考えると、どうにも妙な感覚に襲われます。

2007/9/17(月) 午後 10:59 sta*sto*y60

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すたあびれさん、「意地悪ばあさん」いいですね。イギリスで買った絵本に、「年取るのが楽しみだ。紫色のドレスを着て、もうろくしたフリをして、『若いときはやりたくても人目が気になってやれなかったこと』をしまくるの」というシャレたお話がありました。

2007/9/17(月) 午後 11:06 sta*sto*y60

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NANAMIさん、41歳で亡くなったお母様は子供のNANAMIさんにとっては老齢に近い大人と思えたでしょう?大学時代の自分と今の自分はたいして変わっていないと感じられるわけですが、私が大学生だったとき、母は今の私の年齢だったわけです。これはちょっとコワい発見です。自分自身が認知症になる日もそう遠くはないのかもという気がするワケです。「あの人に面倒を看てもらうのはイヤだ」…これはワガママだと思います(ゴメンナサイ、NANAMIさんのお祖母様なのに。)もしホンキでそう思うのならば、姿をくらまして孤独死する覚悟と実践がなければならない。残念ながら、今日の状況において老人介護とは介護する側とされる側双方の「せつなさの共有」なのだと思います。

2007/9/17(月) 午後 11:17 sta*sto*y60

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私は64歳。「老い」を日々感じる年齢となりました。自分の残された時間が限られている。そう思うようになりました。ここでは「ちゃん」づけを問題にしていますが、私の実家では幼い日から家族間では「お父ちゃん」「お母ちゃん」「お婆ちゃん」「お姉ちゃん」「お兄ちゃん」呼びあっていました。ですからStarさんのように抵抗は感じません。イエスは神のことを「アッパ」って呼びました。これは日本語で言えば「お父ちゃん」なのです。「お父さん」ではないのです。それはイエスにらとって神は極身近なものであったからですね。このことはとても大切だと思っています。私が大学生活をおくるため上京してからは、帰阪すると「お父さん」「お母さん」と呼ぶようになりましたが、それが親に対する最低限の礼儀と感じたからです。でも、そこにいつの間にか生じたプライドが潜んでいたのです。これは偽満でもあったのですね。「ちゃん」と呼べない自分の中に生まれた意識兄弟の中で私一人が「さん」と呼んでいる意識の変化。それはいつの間にか両親への自分の距離でもあったかと思ったりします。

2007/9/18(火) 午後 3:10 [ kabanotakara ]

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内緒さん、いつも「いつか死ぬこと」を考えているのですね。「無縁仏」っていいなあと私も思います(ってクリスチャンがこんなこと言っていいんでしょうか…笑)。死んだら全ての血縁や「家」、この世で結んだ全ての絆とも別れ、「無縁」となってあの世に逝くというイメージに心惹かれます。それはもしかしたら意外なことにキリスト教的かもしれません。イエスの十字架を悲しむ弟子たちに「これがあなたたちの母です」とマリアを指し示したイエス。。。「あなたは塵だから塵に帰るのです」というカトリックの灰の式のように、私も骨になり土に返るという「散骨」にあこがれたりします。

2007/9/18(火) 午後 8:49 sta*sto*y60

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kaba先生、たいせつなことを気づかせていただいたように思います。「お父ちゃん」「お母ちゃん」「お婆ちゃん」「お姉ちゃん」「お兄ちゃん」と呼び合う人間関係いいですね。血縁の家族だけでなく、社会全体でこう呼び合えたら素敵です。そう心から思うということは私が上の記事で書いたことと矛盾しないのです。尊敬と信頼と愛情のない「ちゃん」づけは忌まわしく感じます。関わりあうことぶつかりあうことをしないで相手を「無害な老人」というこちら側で用意した枠に押し込め、「庇護される存在に甘んじていてほしい」という願いを一方的に押し付けているように思えるからです。この都会で見知らぬ年配者に発せられる「おじいちゃん」「おばあちゃん」には、老人の自己主張、自我なんて認めないぞという無自覚な差別を感じるのです。kaba先生が身を浸してこられた濃密な人間関係の中での「じいちゃん」「ばあちゃん」という呼称とは根本的にちがうのではないかと思います。

2007/9/18(火) 午後 9:02 sta*sto*y60

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starstory60さん。おはようございます。

お年寄りの仲に、主の御心としめしが多いんだなあって、あらため

て、思いましたよ。

竹文

2007/9/19(水) 午前 11:59 [ - ]

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私も医療技術の発達については疑問がいっぱいです。最後まで人間らしく生きた人の寿命はもっと短いはずだと思うからです。
「汝土より生まれいでし者なれば、また土に還るべし」私も土や海に散骨して欲しいと思っています。出来れば生まれ故郷の海。夫方先祖代々のお墓に入りたくない…というのもありますが(笑)。
生き方と同じくらい、死に方についてもきちんと考えておきたいです。
私の両親も危篤状態になったときは、延命治療拒否を唱えており、死後は地元の大学の医学部に検体として身を提供するように、そうした会に登録しています。

2007/9/23(日) 午後 9:00 [ - ]

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今まで人の死に多く出会いましたが、医学の発達を恐怖に感じました。
何年も病室で金縛り状態、いやですね。
また、反応がないから見舞いの人間が病人が意識がないと思っている。
しかし、身体が弱ると反応できないものである。
入力はできるが出力はできないものである。
自分の死の話を聞かされるわけである。いやですね。
そんな状態で何年も行き続けるのは、まさしく地獄ですね。

2007/9/25(火) 午後 4:06 [ tk_*ay* ]

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竹文さん、いまごろのレス、おゆるしください。自分が動けなくなったとき、色々なものを失ったとき、生かされていることの意味と御心とが迫ってくるのでしょうね、今はおぼろげにしかわかりませんが。

2007/9/25(火) 午後 11:03 sta*sto*y60

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kushipyさん、私も「死に方」についてきちんと考えておきたいと思います。人間ドックもここ数年受けていません。いったい世界の何パーセントの人がそんな贅沢な診断を受けているだろうかと思うからです。それで病気が発見されず「手遅れ」で死んだとしても、それは世界の圧倒的多数の人々と同じありようではないのでしょうか。「シッコ」という映画をみて、この映画の訴えたかったこととは別のことも考えてしまいました。

2007/9/25(火) 午後 11:08 sta*sto*y60

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tk kayaさん、老人医療の、老人自身にとっての悲惨は、本人の意思が家族によって無視されてしまうことだと思いました。姑は入院したくなかったのです。さいごまで家にいたかったのです。しかし病院のほうがよい手当てをしてくれて、延命の可能性があると主張する兄の意見で、入院させられました。人工呼吸器をいやがって払ってしまう姑の手をヒモでベッドの柵に縛り付けました。姑はそんなにまでして数ヶ月数年を生きたかったのだろうか、考えました。幸せな、自尊に満ちた死とはどんな死に方でしょうか。

2007/9/25(火) 午後 11:13 sta*sto*y60

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病院で死ぬとわかっている人を延命させる必要性がわかりません。
私は、自分の家で、ふとんに寝ていて、家族がまわりをかこんでいる状態で、医師が手首でみゃくをとり「ご臨終です」と言う死の方が極楽に行けるように思います。

2007/9/26(水) 午前 9:50 [ tk_*ay* ]

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自分がどういうふうに死にたいかと問われると、おっしゃるとおりです。人間はいつか死ぬのですしね。

2007/9/26(水) 午後 9:56 sta*sto*y60

夫や私の親は、孫の成長を楽しみに会いつつ、老いざまを子供達に見せてくれているありがたい存在です。
すでに80歳を超えたり近づいる祖父母達。私が「あと何回会えるかと思うのよ。」というと、とても素直に付き合う孫達。親には反攻しても祖父母には素直になりました。それなりに彼らも、老いてゆくじいじ、ばあばに感ずるところあり、なのかな、 と思ってみています。
友人の親族は、在宅介護中の老衰。訪問医療の いい医師に恵まれ、病院で管につながれることなく、娘達に見守られ今まさに枯れ木のごとくに生を終えようとしているそうです・・ああ、かくありたいもの、と思いました。

2007/9/28(金) 午前 8:31 ぱーぷるふぃんがー

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