| 今日は映画を観に行った。3連休だけどたまってた仕事はいっぱいあって遊んでるヒマはないんだけど、それでもここは遊ばないと精神の健康が保てないのである。ってそんなに追い詰められてるワケじゃ全然ないけど、「野菜をしっかり食べると元気」と同じ程度に、「やっぱ休日には仕事をうっちゃって後から睡眠不足になったとしても映画を観たり美術館へ行ったりすると元気」になるのである。「4分間のピアニスト」。女優2人は素晴らしく演技が上手で存在感があった。シューマンもいいなあと初めて思った。 |
| ところで池田晶子の『14歳の君へ』に、日ごろから感じていたことがそっくり書いてあった。 |
人を嫌いになるのはいけないことだ、と思っている人もいる。誰でも好きにならなくちゃ、誰とでも仲良くしなくちゃいけないってね。
その心がけは立派なことだけど、やっぱりちょっと無理があるよね。無理なことはよくないよ。大嫌いなピーマンを無理やり飲み込んで、君はお腹をこわすことになるかもしれない。じゃあ、どうしても嫌いな人に君はどういう態度をとればいいだろう。
君はこうすることができる。嫌いなものは嫌いだ。これはもうどうしようもない。そして嫌いなものはそこにある。これもどうしようもない。だからそのことを自分で認めてしまうんだ。そして、それ以上そのことにこだわらないことだ。そうすれば、嫌いなものは嫌いで、ほうっておくことができる。ピーマンさん、あなたがこの世に存在することは認めるけれど、あいにく私はあなたが嫌いです。だから私はあなたを食べませんって具合にね。
嫌いなものを無理に好きになろうとするのは、好き嫌いにこだわるまいとして、逆に好き嫌いにこだわっているんだ。でも、好き嫌いは好き嫌いとして、どうしても存在する。それなら、それはそれとして認めてこだわらないこと、これが「愛」というものなんだ。
君は意外だろう。嫌いが嫌いで愛だなんて、変だと思うだろう。愛というのは好きというのと同じことだと思っていただろう。だけど、愛と好きとは違うんだ。愛は感情じゃない。愛は、好き嫌いを超えたもの、それがそこに存在することを認めるということだ。受け容れるということだ。ピーマンが嫌いでも、ピーマンが存在することは認める。あの人は嫌いだけど、あの人が存在することは受け容れる。そうすれば、嫌いという感情を持ちながら、愛することができる。その人の存在を拒まずに受け容れることができるんだ。
| 私が休日は仕事をうっちゃっても映画を観に行くことと、上の引用と、中学校のイジメについて思うことは重なっている。私は日ごろ中学校で「かなり変わってて付き合いづらい子」にイヤガラセしたりイジメたりする「その他大勢」の子供たちに感じている。「なんでほっといてやらないんだよ。」 |
| 「ほっとく」というのは「シカト」ともちがう。「シカト」は思いっきり肩に力が入っている。意図的なんである。イジメと同じように対象にこだわっている。だから「シカト」はイジメの一種だ。「ほっとく」は「ピーマンは嫌いだから食べない」と同じことである。「別にムリに仲良くする必要はない。だけど『おはよう』くらいは言いな。」…クラスの子供たちに言っている。 |
| いじめる子供たちはいじめる対象の子供になんだか抗えない力で引き寄せられ、執着している。そのことを「不健康だ」と感じるのである。「いじめをやめなさい」は「仲良くしなさい」とはちがう。「誰とでも仲良くしなさい」なんてことを子供に言える大人が果しているのか。職員室で私の前の席の学年主任は私のことが嫌いらしくて、朝「おはようございます」と挨拶しても挨拶を返してくれない。飲み会の席で端から詰めなくちゃいけないと思ったから仕方なく隣に坐ろうとしたら、「そこは○○先生が後から来るからあけといて」と言われた。あいさつは返すべきだ。一方、飲み会の席でムリして隣に坐る必要はない。こっちもホッとした。気が合わないし、できるかぎり傍にはいたくないけど、まあ彼女は彼女で優秀な教師なんである。彼女は存在していいんである。できればいっしょの空間じゃない方がいいけど。 |
| どうしてこんなふうにやりすごせないんだろう、と子供たちをみていて思うのである。それはまず教師たちが「みんなと仲良くしなさい」と言うからだ。自分たちだってできもしないし、やろうともしていないくせに。第二に、休日に仕事をうっちゃって映画に行かないからだ。映画の中ではナチの時代に共産主義者の同性を深く愛した女性の話だとか、殺人犯がピアノを弾く話だとかが語られている。その世界は学校とはまったくカンケイがないのである。学校なんて、まあたまたま週の大部分の時間を費やしてはいるけど、世界の総体から見たら、ちっぽけな世界なんである。そんなふうに思えたら、別におトイレに一緒に行ってくれる友達がいなくても差し支えないし、話しかけてくれるトモダチがいなくて、かえって読書に没頭できるし、話しかけたいときは話しかけるけど、話したくなければ黙っていればよいのである。 |
| 嶽本野ばらの小説に『エミリー』というのがある。学校でイジメにあっている女の子が原宿でコスプレをする話だ。以前教えていた不登校の生徒もコスプレをしていた。こういう子たちの気持ちはとってもわかるような気がする。そして「学校的なるもの」が「私」を呑み込んでしまいそうな状況において、たぶん正しい対処の仕方なんだと思う。学校はエミリーを呑みこもうとするだけではない。いじめをするマジョリティの子供たちをも呑み込もうとするのだ。嫌いなピーマンに執着せざるをえないような内圧がかかっている。内圧があるところにイジメも妬みも醸成される。「公園デビュー」の若いお母さんたちの間にもきっと内圧があるんだろうと想像する。何年か前、同じ幼稚園に子供を通わせていたお母さん仲間を殺した事件があった。 |
| そうした内圧を弱めるために、私は休日には映画を観に行くのだ。そして採点の合間にブログをするのである。でも子供たちは休日にも部活をやってる。嫌いなピーマンといっしょに。好きな玉ねぎだって圧力釜で煮込めば変質しちゃうかもしれないのに。 |
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TOCKAさん、秩父雲竜さんならともかくTOCKAさんの口から「人格」という言葉が出てくるとは予想しませんでした(笑)。「共生」のコツですね。私は姑と同居し、学校の寮で生徒や他の教師と寝起きを共にし、ここらへんをかなり鍛えられました。キブツでやっていけるかどうか試してみようかしら。
2007/11/25(日) 午後 10:00
すたあびれさん、大阪っていいですねえ、関東を脱出して大阪へ移住しようかしら。「嫌いなヤツは嫌いで かまわん。でも、ちょっとだけ協力したれ」「まぁ、そう言わんと、適当に合わしたったらよろしいがな・・・」…いいなあ。。。北朝鮮の放送も大阪弁に通訳したらぜんぜん変わっちゃいますね。学校では全国、大阪弁を使うことを強制しよう。
2007/11/25(日) 午後 10:05
白カニさん、実社会に出て必要なのは、「誰とでも仲良くする」ことや「みんなに好かれること」「皆を好きになること」ではなくて、「気の合わないやつや波長の合わないヤツとどうやって一緒にやってくか」ということだと思うんですね。学校は「皆仲良くしなさい」と言うばかりで、そういう現実社会で本当に必要とされるスキルをホンキになって教えていないと思います。ってこういうスキル、教えられるものじゃなくて子供が遊んだり家の手伝いしているうちに掴み取っていったものだと思うんですが、きっと昔は。
2007/11/25(日) 午後 10:10
s mikachoさん、よくぞサバイバルなさいましたね。学校ってストレスフルな空間、まさに「サバイバル」ですよね。お笑いも少年ジャンプも読まないので、よくわからないんですが、たまに読むとひどいの多いですよね。ってか何が面白いのかさっぱりわからないです。何に笑うかって文化だと思うんです。
2007/11/25(日) 午後 10:15
そりの合わない相手がいることがいけないような雰囲気を作ってはいけませんよね。
同じように、悪いことをする、考える自分がいたらいけないような教育。どうなんだろうか。悪いことを考えたりやるのも人の性。それを認めたうえでそういう自分とどう付き合うかを教えてあげて欲しい。
大人になってもそりのあわない人はいて。。でも、そういう人とは、普通に挨拶できていればそれでよし、と思うことにしています。娘にもそういっています。息子には(敵を作りたがるお年頃(;^_^A )には、世の中に、敵は一人でもいないほうがいい、と言っています。。
子どもは、教師の建前論(うそ)にとても敏感ですよね。そういう子どもの性質をわかっている方がいい先生なのじゃないかなあ・・
starさん、これからも、いい先生でいてくださいね!応援してます。
2007/11/26(月) 午前 11:11
私の中学の頃を思い出しましたよ・・気に食わない数学の先生がいて、試験の時試験用紙に名前だけ書いて、一番最初に提出して皆が終わるまで鉄棒遊びをしていました。「オメー又白紙かよ〜」「オレあの先生気にクワね〜から」通信簿は数学の所だけ「オール1」結構学校で問題になったのを想い出した・苦笑★お袋も心配して私を攻めたが黙認!クラスの担任も来たが黙認!以後クラスメートも私に「どうしたんだよ?」心配してくれたが「皆・サンキューな」と会釈だけはした。後で判って面白かった事は「○○君は今反抗期ナノサ」でチョン!私は心の中で「学校なんてこんなもんか・・」と「諦め」たのだ。
理由は、部活の件で職員室に行こうとしたら、数学の先生が私を誹謗中傷している会話を2.3の先生としていたのでそのまま、わざと足音を「ドスンドスン」と帰ってきちゃったのです(苦笑)その先生達は私である事くらい解っていた筈・・。たったこれだけの事でも、私はその数学の先生を許せなかったんですよ!その先生の口癖が「いいか!お前達は人の悪口を絶対に云わない事!口は禍の元!判ったナ?!」と、お説教を得意毛にしていた先生だったのでした。
2007/11/26(月) 午後 6:57 [ sin*an_*6*322 ]
ぱーぷるさん、「よい子」を求めてしまうのは教師の性なのでしょうか。子供たちが心を開くのは教師の弱みもだらしなさも含めた人間性に対してなのであって、「完璧さ」に対してではないです。教師も親も妬みの心だとか人を嫌う気持ちだとか色んな気持ちを持っていて、葛藤も抱えています。その葛藤とどう付き合うかということこそ「たいした存在ではない大人」がその唯一子供より多く有している持ち物である「経験」を通して教えてあげられることなのではないでしょうか。「いじめをするな」とか「他人をいじめたい気持ちを持つ奴は人間のクズだ」とかではなく、「他人をいじめたいそのムラムラとした気持ちとどう付き合うか」ということ。これだけいじめが問題になっているのに、そういう方向でのアプローチは叫ばれないようですね。これから「も」なんて言ってくださって、励ましありがとうございます。
2007/11/26(月) 午後 10:20
sinranさん、教師って自分が出来もしないしやってもいないことを生徒に要求する場合があるんですよね。「人の悪口は絶対に言わないこと!」かあ。。。そんなこと私生徒に要求できないなあ。あんまし人の悪口は言わないほうだと思うけど、「絶対」じゃないもん。ブログのアラシの悪口、他のブロガーと言い合ってる(笑)。でもsinranさん、まっすぐな方ですよね。先生が気に食わないからって白紙答案出して自分に痛みとして跳ね返ってくるわけじゃないですか。そういうことする生徒って結構まっすぐな奴だと思うなあ。
2007/11/26(月) 午後 10:26
きら星さん、僕は小・中学校を通して教科の成績は抜群に良かったのに、学校は大っきらいでした。その一番の理由は、給食で食べられないものがたくさんあったからです。たとえば肉類は一切食べられなくて、食べると吐いてしまったのですが、先生は「食べるのが僕のためだ」と決めつけて、自ら正しいと信じることのために、僕を強引に矯正しようとするのです。毎日拷問を受けているような学校生活の中で、人の「正しい」との思い込みが、いかに他者を苦しめることがあるかを、この身に擦り込むように学んだのです。そこで僕は、自分とは違う価値観や感じ方を持つ他者の存在を、そのまま受け入れることの大切さを学んだのです。学校は生徒を一個の人格として認めることを知らない、点数と人数しか認識しない、異常な世界ではないかとさえ思うことがあります。そんな中で、学校を飛び出して自分の世界を持てる子はいいのですが、飛び出すことも出来ない「いい子」の方が、心を病むのではないかと心配です。
2007/11/26(月) 午後 11:14
4分間のピアニスト、見てみたくなりました。上のコメント全部読んでいないのでズレてたら悪いですが、「シカト」と違う「ほっとく」でも、ほっとかれたほうが構われたい時、ややこしくなるんですよ。たとえば片思いは一例でしょうか。ほっとかれた方がそれをイジメと受け取らないためには、自分も何かを(誰かを)ほっとく人にならないとだめですね。それは自律の1歩かもしれない。
2007/11/27(火) 午前 0:54
あるがままを認める。人として認める。私と世界観も性格も相性も合わなくても「あるがままを認める」そういう人間になりたいのですが、でも、「こだわっている」いつも人に拘り、何かに拘っている。あるがままを認められない偏狭さ。私の人間としての課題です。
2007/11/27(火) 午後 2:11 [ kabanotakara ]
イソップさん、「学校を飛び出して自分の世界を持てる子」…私たちの時代(と一括していいのか???)よりも厳しい状況に今の子たちは置かれているでしょうね。そういうエネルギーを持っている子は学校にNO!を突きつけることはできるけれど、他の居場所をみつけるには日本社会は経済的に厳しくなっている。「いい子」は「順調」にいけば「正社員」となりこの世を渡っていけるけれど、そこまで行くにはそしてその中で健全にやっていくには沢山の精神的軋轢でつぶされそうになるのをかいくぐらなくてはいけない。「自分とは違う価値観や感じ方を持つ他者の存在を、そのまま受け入れ」てしなやかに生きていくことがますます難しい時代なのだと感じています。
2007/11/27(火) 午後 10:08
グランピーさん、グループの中で居場所を確保することに汲々となっている子供たち。「ほっとく」ことも「ほっとかれる」ことも平気でいられるような自立したオトナにどうしたらなれるんだろう。彼らの「自立」を支える大人の目が周囲にあればいいんですけどね、親も教師もそういう助け手にはなれていない気がします。
2007/11/27(火) 午後 10:12
kaba先生にとっていまだに課題なのだとしたら、私にとって課題であるのは言うまでもありません。
2007/11/27(火) 午後 10:13
池田さんの言うことは正論なんですけどね。私も嫌いな人の存在は認めます。だって存在しない人を嫌うことはできないですから。でも、ある人の存在を受け容れて好き嫌いにこだわらないことと、愛とはちがうと思います。
私は嫌いな人は愛せない。私にできるのは、「嫌いな人にはかかわらない。黙って横を通りすぎる」ことでしょうね。スターさんの言葉を借りれば「ほっとく」。もっとも、嫌いな人はあまりいませんけど…。
2007/11/28(水) 午後 4:47
うしどしさん、池田晶子が「好き嫌いは感情だ」と言っていることを「そのとおりだなあ」と思うんです。「愛」ってやっぱり感情を超えたものだと思う。うまく言えないけど。「共感」とか「憐憫」の方が「愛」に近い気がします。自分の生きざまとか経験に対する振り返りとかそういうものを踏まえていないと、「共感」も「憐憫」も出てこないし、ひいては「人間愛」も出てこない気がするのです。「ゆるし」もそこから初めて出てくるわけですし。「好き嫌い」にはそんなものは必要ないんです。だから子供でも好きになったり嫌いになったりできる。「ほっとく」は「自分自身の好き嫌いという感情とも距離を置く」ことだと思っています。
2007/11/28(水) 午後 9:14
大変ごぶさたしております。ひげたまです。「4分間のピアニスト」、私も見ましたが迫力のある良い映画でしたね。最後まで「私である!」ということを捨てないまま、あのラストシーン。年配の主人公の雰囲気はメイ・サートンの「独り居の日記」を思い出しました。
2007/11/29(木) 午前 1:02 [ ひげたま ]
きら星さん、最近思うのは、多くの人が今の現状を客観的に見るあまりに、自分もそれを作っている一員であることを忘れているのではないか?と言うことです。子どもたちに、「こうすればいいんじゃないか!」と示すものがなければ、子どもたちは何をしていいのかわかりません。大人はそれを自分で示せないのなら、せめて子どもを自由にさせるしかないと思います。受け入れるとは、そう言うことではないでしょうか。
さらに言えば、現実社会には、不思議なほどしっかり自分を見つめて生きている人はいるので、そうした人を教えてあげるだけで、あとは子どもたちが自分で生き方を学ぶでしょう。少なくとも、そうした展望もない価値観の世界を、学校教育で子どもたちに押し付けるのは間違いだと思います。
2007/11/29(木) 午後 5:40
ひげたまさん、お久しぶりです。お元気でいらっしゃいましたか。「4分間のピアニスト」よかったですね。筋は取ってつけたところもあるように感じられましたが、主演女優2人の演技、ピアノ演奏の素晴らしさを堪能しました。「独り居の日記」ですか。その映画も観てみたいです。
2007/11/29(木) 午後 10:44
イソップさん、公立中学校はあらゆる意味で私にとってのカルチャーショックであり、日々「とらえなおし」を迫られています。以前勤めていた東北の田舎の学校には地域社会がまだ生きており、しっかり大地に根ざして生きているお百姓や山小屋のおじさんとの交流から生徒はスポンジのように「根源的なもの」を吸収していました。言葉だけで教えるのは、言葉の薄っぺらであることを感じている子供たちには無効ですね。
2007/11/29(木) 午後 10:47