主の食卓を囲み 命のパンを頂き 救いの杯を飲み 主にあって我らは一つ マラナタ マラナタ 主の御国が来ますように マラナタ マラナタ 主の御国が来ますように 待降節第一週です。私はカトリックなんだけど、今日は浅草の聖公会の教会へ行きました。聖公会はその昔、離婚して好きな女の人と結婚したかったヘンリー8世が、カトリックだと離婚できないのでカトリックを辞めて作ったイギリス国教会が基になってて、「離婚して再婚したかった」ということだけが動機なんで、プロテスタントなんだけど「礼拝はどっからどうみてもカトリック」です。だけどイチオウ宗派はちがうので、聖体拝領(ってキリストの肉であるパンと血であるぶどう酒をいただく儀式です)は「聖公会の洗礼と堅信」を受けてない私はしちゃいけなかったのかもしれないけど、「ここでどうしても聖体拝領受けたい」と思ったので、やっちゃいました。これって罪?なワケない、と確信しているstarです。 で、前に「上野公園でみたホームレスの礼拝」について記事を書いたんだけど、http://blogs.yahoo.co.jp/starstory60/37487400.html 浅草っていえば近くに山谷があって、ホームレス(野宿生活者)の人々が大勢いるのです。で、この教会では7年間のあいだ毎週日曜日に炊き出しを行なっているんだって。礼拝が終わって教会を出るとホームレスの人たちがズラーっと教会の入り口に並んでいました。炊き込みご飯が300食出たそうです。つまり300人。今週は少ない方なんだそう。 で、私がいいなあと思ったのは、上野公園でみたようにお食事の前に説教を聴くことなんか条件にしないでご飯を渡してること、それから順番待ちの列の数箇所に灰皿が置いてあったこと。教会(特にプロテスタント)は酒タバコに眉をしかめるところが多いんだけど、ホームレスの人々の中には煙草を吸いたい人多いよね、それで灰皿を行列の間に置いてるっていうのが「いいなあ」と思った。 こういうことを毎週している教会っていうのは生きてる教会って感じがして、私がカトリック教会で大ッキライな「主の平和」って言って隣近所の席の人と笑顔(これがまた作り笑顔にみえるのだ)で挨拶を交わす儀式もここではとってもよかった。「主の平和」って言って握手を交し合うのがとってもよかった。上の「マラナタ」の聖歌も聖餐式も、目の前のホームレスの人々と食事を分かち合ってこそ初めて生きてくる。 「クリスマス・パーティー」が私は大っ嫌いだ(大ッキライなものが多いワガママ者)。トンガリ帽子をかぶってクラッカー鳴らして、クリスマスケーキやチキンを食べてシャンパン飲んで、「メリー・クリスマース!」なんて騒ぐのが大っきらい。クリスマスのご馳走っていうのも嫌いです。 でも「一緒に食べて飲むこと」はキリスト教ではとても重要なことなのです。ミサの中心である「聖体拝領」はキリストの身体と血を信徒みんなで分け合っていただくことだし。「共にお食事をすること」の中に神さまもいると思います。 クリスマスの一日だけ、日本人みんながホームレスの人々と一緒に食卓を囲むことにしたら、世界的にも歴史的にも忘れられないクリスマスになると思う。炊き出しみたいに次々に渡して帰すのではなく、金持ちも貧乏人も一緒にお鍋でも囲むことができたら素敵だと思う。できればいつも寒気にこごえているホームレスの人々の方の空間で、ベツレヘムの星の下、暖かい焚き火をパチパチと燃やして。それは「恵んであげる」のではなくて私たちの魂にいつまでも残る糧を与えられる食事のように想像するのです。 クリスマスにそんな食事ができたら、すごくすごくステキなのに。。。 ※本当はホームレスの人々が自立できる雇用を創出できたらそれが一番いいのだと思う。 [ビッグ・イシュー]という雑誌は、東京や大阪などの首都圏の路上で、ホームレスの人々からしか買えない雑誌。政府も草取りやペンキ塗りなどの雇用を創出していて、新聞によると日給5800円くらいになるそうだけど、働き口にたいしてホームレスの人々の数が多すぎるので、一人当たりにするとひと月1万5千円くらいにしかならないそうです。
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うしどしさん、「ホームレスの人々への炊き出しのお手伝いをお願いします」ってお寺が檀家に頼んだら、ホームレスの人々への世の人々の関心も自然に大きくなってくると思うのですが。そういう仏教だったら心から尊敬します。
2007/12/3(月) 午後 10:04
プリンプリンさんのお母様とおばあ様、素敵ですね。そんなお母様とおばあ様を見て育ったから、プリンプリンさんもそんな素敵な感性をお持ちなんですね。「施し」について聖書では「ただで与えられたのだからあなたもタダで与えなさい」と言っているのですが、施しとはそういうものだと思います。「本当は私のものなんだけどかわいそうだからあなたにあげる」っていうのはちがうのかも。「本当は私のものでもなんでもないのであなたがお召し上がりください」っていうのが施しなんじゃないかな。
2007/12/3(月) 午後 10:09
山谷が独り者のドヤだとすると、川を渡った墨田区高橋は世帯持ちのドヤ街です。ここに賀川豊彦が教会を作り、隣保活動を始めました。そこで学生時代セツルメント活動をしていたのですが、ここの住民とまさに寝食を共にするような生活をすることがありました。貧しい生活にみなぎる心の往来は、この世の付き合い、通常教会での交わりとは違った感激がありましたっけ。何も知らないで泊まった夜に、体中を南京虫に食われて、かゆ〜い、かゆ〜い思いをしたことも懐かしい思い出です。
2007/12/4(火) 午後 4:39
小諸通信さん、賀川豊彦の名前くらいは無論知っていたのですが、どういうふうに生きた人か、全く知りませんでした。こちらのサイトで初めて知りました。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E5%B7%9D%E8%B1%8A%E5%BD%A6
『死線を越えて』という自伝的小説、読んでみたいです。当時ベストセラーになったと書いてありますが、どのような世相でどうしてそんなにアピールしたのでしょうか。学生時代セツルメント活動をなさったんですか。私は野宿はおろかドヤに泊まったこともありません。もちろんそれが普通なのですが、野宿のつらさを一日でも体験したことがないで野宿者のことは語れないのに、と思います。
2007/12/4(火) 午後 10:18
star先生、クリスマスを発情期と勘違いしているワカモノ(バカモノ)にもコメントをお願いします(笑)。あ、今回は食事のお話でした。クリスマスの食事を発情前の腹ごしらえと・・・(以下同文)。
ビッグイシュー、友人・K子がたまに買っているそうです。中身もちゃんとしてるから読んでみたら、と言われたのですが、どうも急いでるときにしか売り子を発見しないので・・・。
2007/12/4(火) 午後 11:47
聖公会信徒のえこマッキーです。洗礼は、宗派に関係なく一生に一回のことなので、カトリックであろうとプロテスタントであろうと、聖公会に移籍しても洗礼を受けなおすということはありません。聖体拝領(聖餐)も、他宗派の人であろうと可能です。しかし、堅信を受けていない人が聖餐に預かることはできない仕来たりになっています。
私は、この排他的な仕来たりが大嫌いです。キリストの愛は、差別なく誰にでも注がれているはずですから、誰でも葡萄酒とパンに預かることができるようになるべきです。この仕来たりが、尊大で不遜なクリスチャンを作り出しているように感じます。
一方で、信仰などには関係なく炊き出しの食事を配ることは、とてもすばらしいことだと思います。イエスも、差別され抑圧されている人と一緒に食事をしました。ただし、そのようなホームレスを生み出している状況というものに対してラジカルに問うことをしないのならば、不正義を温存させることに加担するという危険性もあります。
2007/12/5(水) 午前 0:18
賀川豊彦は、多くの慈善活動を行い、日本における農協や生協の基礎を作り、立体農業という今でいう有機農業のようなものを推進したりもしました。しかし、慈善事業に関しては上からの行為というか、差別的な意識があったことが批判されてもいます。
2007/12/5(水) 午前 0:19
CKさん、クリスマスを発情期と勘違いしているワカモノに一言ですか。「クリスマスを発情の口実に使うんじゃない!発情するなら口実なしで発情しろ!」クリスマスに「夜景の見えるホテルの部屋」なんて予約して、ワインを飲みながら夜景に見入っているカノジョの肩を抱いて、「ロマンチックだね」なんてささやく男の背中、ケリを入れたくなります。もし自分がそんな「しちゅえーしょん」で肩を抱かれたら、背中ではなく○ン○マにケリを入れてやります。(これ以上悪ノリすると読者がいなくなるのでやめときます。。。)
2007/12/5(水) 午後 9:16
えこマッキーさん、カトリック信者がプロテスタント教会の聖餐にあずかることはできるのですよね、聖公会はどうだか確信がなかったのですが。ところがプロテスタント信者がカトリック教会で聖餐にあずかることはできないのです。排他的ですよね、このへん。プロテスタントの洗礼を受けた人がカトリックに移籍する場合、洗礼ではなく堅信を受けることになります。逆もそうなのでしょうか。堅信を受けずに聖餐にあずかることはできない決まりになってるのでしょうか。ともかくイマイチ納得できないので、なまじ「カトリックなんですけど聖体拝領していいんでしょうか」なんて聞いて「ダメ!」といわれると悲しいので、きかずに聖体拝領しちゃいました。教会が炊き出しなどをしつつ、「ホームレスを生み出している状況というものに対してラジカルに問うことをしないのならば、不正義を温存させることに加担するという危険性がある」ということには同感です。社会に対する関心を持つこと、政治に対して働きかけていくことを信仰と相反する逸脱のようにとらえるクリスチャンがなお多数派であるように感じています。
2007/12/5(水) 午後 9:55
賀川豊彦は「慈善事業に関しては上からの行為というか、差別的な意識があったことが批判されて」いるのですか。知らずにコメントすることもできないのですが、こういう批判って一般的にあまり好きじゃありません。李朝の白磁を愛して民藝運動を起こした柳宗悦も「隠れた差別意識」を批判されたりしたけど、そういう批判って好きじゃありません。批判するくらいの高い視点を持った人ならば、自分で何かを生み出していく方向でそのエネルギーを使うべきだと思っています。
2007/12/5(水) 午後 9:59
賀川豊彦の「貧民心理之研究」は図書館にボロボロになったのがあって、読んだことがありますが、文語調で格調高い文章に打たれたことがあります。福祉を志す人には必読書だと思いました。高橋ドヤ街は江東区の深川でした。賀川の残された福祉法人「雲柱社」が、今も神愛児童館(保育園)をやっているはずです。
2007/12/5(水) 午後 10:36
小諸通信さん、そうなのですか。文語も賀川豊彦も次の世代には忘れられていくのでしょうか。昨日は布団の枚数が少なくて夜中に目がさめたら寒かったけれど、この寒い中で路上で寝ている人がいるのだと思ったら、その寒さはどんななのかと怖ろしくなりました。
2007/12/6(木) 午後 8:37
以前、starさんのブログで聖公会のホームレスへの炊き出しの記事を読みましたが、色々違和感があっても共に「食事」をとるということは非常に大切なことですね。イエスは殊の外「共食」を重要視したように思っています。でも、私自身は聖餐式等の儀式には、正直言ってついてゆけません。
2007/12/7(金) 午後 1:59 [ kabanotakara ]
kaba先生、無教会の学校ではもちろん聖餐式などありませんでした。そのかわり生徒も職員も一つのテーブルを囲み、一緒に毎日の食事をいただきました。「私はカトリックで、この僻地の学校にいて、ミサの聖餐にあずかれないのは悲しいと思っていたけれど、今ではこの皆で一緒にいただく食事が聖餐なのだと思っています」と言ったら、無教会の先生たちは真意を深く受けとめて下さいました。カトリックという無教会とは正反対の宗派の信者である私が、このようにして無教会の先生たちに真心から受け容れていただいたことは大切な思い出です。
2007/12/8(土) 午前 11:04
素敵な教会ですね。
宗教って本来そういうものであって欲しいですね。
先日夫が縁あってうちの遠縁のお寺の檀家になったのですが(お墓の関係もあるので)・・・なんだか お金大好きそうなお寺で、あまり得意じゃないな・・なんて苦々しく思っている私。
法人格で税を逃れられていることをもっと重く感じて 人を救う仏の道を もっと探って欲しいと願っています。
2007/12/10(月) 午前 9:56
聖餐式は、未信徒は遠慮するように注意するのがふつうでしたが、今行っている教会では、誰でも参加してくださいという扱いになっています。もう慣れましたが、こういう信仰理解もあるのだなと感じるようになりました。聖餐式の度になんとなく流れる妙な空気がなくなり、自然さが確保できている気がします。カトリックとプロテスタントの間もエキュメニカル運動以来ずいぶんと風通しが良くなってきている印象を受けていますが。世界宗教家平和会議('70京都)に白柳枢機卿が日本代表の一員であったこともありますし。
2007/12/11(火) 午後 1:05
ぱーぷるさん、私もお寺は好きですよ。道端のお地蔵様なんて思わず手を合わせたくなります。ただ高いお金を出せばよい戒名をつけてもらえる、という考え方に抵抗を感じます。今はなくなったと思いますが、被差別部落の部落民に「畜生」などの差別戒名をつけたお寺もありましたね。お金にたいしてどう距離を置くか、というのは、すべての宗教の試金石だと思います。
2007/12/11(火) 午後 9:17
小諸通信さん、聖餐式に未信徒を遠慮させる慣習のもとは、パウロのコリント信徒への手紙の中の「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」なのでしょうか。「ふさわしくないまま」を「洗礼を受けないままで」と教会は解釈したのでしょうね。洗礼を受けさえすれば「ふさわしい」といえるのか、という問題はあるにしても、ここを崩すと洗礼の意味が白紙に戻されてしまうと教会は危惧するのでしょうか。「誰でも参加してください」というラディカルな教会が存在するとは知りませんでした。「小犬も主人の食卓から落ちるパンくずをいただくのです」と言った女の信仰をイエスは褒めたことを思い出します。
2007/12/11(火) 午後 9:42
素晴らしい教会ですね。恵みと喜びを、貧富の差を越えて分かち合う。
クリスマスという言葉そのものの神聖な意味とその起源を理解しないまま、お祭り騒ぎをしている日本のクリスマスは私も苦手です。息子の通っている教会学校(プロテスタント)のクリスマス会は、一応厳粛なクリスマス礼拝のあと、ケーキのデコレーションコンテストやら豪勢なプレゼントをもらえるのですが、違和感がぬぐえず、今年は参加しない事にしました。食べ物に執着のない子供達の残す大量のケーキの残骸や、投げ捨てられたプレゼントの包装紙を片付ける私たち大人。話は変わりますが、共食、食事を共にしない家族が多いですが、その当たりも世の乱れに繋がっているのではないかと私は思うのですが…。
2007/12/16(日) 午後 0:37 [ - ]
kushipyさん、教会のクリスマス礼拝のあとのお茶会も豪華ですよね。私はアメリカのファンダメンタルなキリスト教会って苦手なんですが、「若草物語」で楽しみにしていたクリスマスのごちそうをたまたま見かけてしまった貧しい人に(涙をのんで)持っていくところ、心に残っています。食事を共にするということには宗教的な意味があると思います。たとえ無宗教者の家族であろうと、家族が集まる食卓の上には何か「働く」ものがあるような気がします。
2007/12/16(日) 午後 7:20