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朝日新聞夕刊に加藤周一が『夕陽妄語』というコラムを連載している。3月22日のこのコラムのテーマは「愛国心について」であった。加藤はハイネの詩に触れ、次のように書いている。
「私は『愛国心』について考える。国の場合にかぎらず、その対象が何であっても----神でも、人でも、樫の木でも菩提樹でも、すみれでも野ばらでも、「愛」は外から強制されないものであり、計画され、訓練され、教育されるものでさえもない。ソロモンの「雅歌」にも「愛のおのずから起こる時まで殊更に喚(よび)起こし且(か)つ醒(さ)ますなかれ」という(第八章四)。「愛」は心の中に「おのずから起こる」私的な情念であり、公権力が介入すべき領域には属さない。愛国心も例外ではない。それを国家が「殊更」に「喚起」しようとするのは、権力の濫用(らんよう)であり、個人の内心の自由の侵害であり、「愛」の概念の便宜主義的で軽薄な理解にすぎないだろう。」
「愛国心の涵養」とそれに関連する国旗国歌について語られるとき、不思議と触れられない「愛とは何か」についての考察がここにある。愛について少しでも真剣に考えたことがある者なら思い当たるであろういたってシンプルな事実-----「愛とは強制することのできない捧げものである。」このシンプルな事実に思い至るには、複雑な思弁も論理も要らない。ひとりの男性あるいは女性を心から愛したことのある人ならば、その人を力づくに従わせたところで少しも心が満たされないということを知っているだろう。暴力で脅して、あるいは借金の肩代わりを条件に迫ったところで、手に入れられるのはせいぜい婚姻届の署名か「あなたの言うとおりにします」という心を伴わない空々しい服従の約束。ホリエモンがどんなに金持ちでも、そのことでたった一人の女性の心も「モノにする」ことはできないだろう。なぜなら打算はすでに愛ではないからだ。また『冬ソナ』で、サンヒョクが「僕と結婚してくれなければ死ぬ」と脅したところで、ユジンの心を得ることはできない。愛とは熱烈に求め、あるいは力を行使して手に入れられるものではなく、一種の贈り物なのだ。そこに失恋の悲しみとやるせなさがある。また「人間の尊厳」につながる、けっして意のままにはならぬ「他者」の手触りがある。愛が一種の贈り物なのだということ、それは愛の対象が異性でも祖国でも神であっても変わらない。
神はだからこそ己を無になさったのである。神は人間の愛を欲し給うた。神は私たちひとりひとりを愛し、私たちひとりひとりが神を愛することを切望なさった。しかし愛は権威を振りかざし、恐怖や打算で人を駆り立てることによっては得られないものであることを「愛」そのものである神はご存知であったがゆえに、ご自身の「力」を封印された。罰を怖れる気持ちからではなく、天国で一等賞のご褒美をいただけるという打算からでもなく、ただ愛ゆえに愛することを私たちに望まれたのだ。全能の神でさえ愛の前にかくも無力であったということに私は感動する。かくも無力な者に成り果て給うたということこそ神の私たちへの、まごうかたなき愛の証である。
悪魔の誘惑は鮮やかである。悪魔の誘惑とこの誘惑を退けた神の子の物語は、神のみこころと愛の本質を逆照射する。
「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、”霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるよう命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ちあたることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」といわれた。
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」(マタイによる福音書第四章)
もしイエスが石をパンに変えたら、神殿の屋根から飛び降りて天使が支えたら、世のすべての国々を支配する帝王となったら、私たちはどのようにイエスに向き合っただろうかと考える。まちがいなく私たちはイエスに従ったのではないだろうか。これまでの人間の歴史を通して人間が時の支配者に従ったのと同じように、イエスに従ったのではないだろうか。しかしそれはけっして「愛」から従うのではない。従うことでパンを与えられるから、従わなければ罰せられ命を脅かされることもあるかもしれないという恐怖から、従うのである。神が望み給うたものはそのような従順ではなかっただろう。だからこそ神の子は悪魔の誘惑を退けたのではなかったのか。十字架にかかったイエスも十字架から飛び降りることができたはずなのだが、その力を封印して十字架にかかって死に給うたということに、大いなる愛のみこころを見る。
卒業式で教員が国旗に敬礼し、国歌を斉唱しなければ罰せられるという状況で、祖国に対するどのような「愛」を私たちは期待されているのだろうか。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(コリントの信徒への手紙一第十三章4−7)
愛は耐えること、待つことを要求する。国旗に敬礼し国歌を斉唱することができない人々を「祖国」は待ってはくれないのだろうか。美しい日の丸を何一つ曇りのない心で仰ぎ見るためには、私たちには乗り越えなければならない過去がたくさんあるのだ、向き合わなければならない人々の痛みがたくさんあるのだ、そのように考え国旗に敬礼し国歌を斉唱することを躊躇している人々に、その躊躇は間違っているから行動を変えよと強制し、従わなければ処罰するというのが「愛」だろうか。そのように強制し処罰さえ辞さない国家は私たち国民を「愛して」くれているのだろうか。それとも愛は国民が国家に一方的に捧げるものなのか。「祖国を愛することは自然な当然な感情だ」という。私は自然の野山を愛している。この風土を愛し、食べ物を愛し、温和な人々を愛している。弥生時代から連綿と続く稲作文化と田んぼとお米を愛している。朝鮮半島から訪れたたおやかな仏像を愛している。美しい日本語を愛している。その日本語で書かれたいくつかの文章を心の糧とし、その文を綴った人々の心とつながっている。先の戦争中治安維持法違反で逮捕され、「左脚がしょうゆだるのようにはれ上がるほど拷問を受けた」のち友人を裏切って釈放され、戦争に協力する詩を書いたことを悔やみ、低い小さな声で語った詩人と「同じ日本人」としてつながっている。「私は臆病な人間です。また戦争が起こったら同じ失敗を繰り返す気がします。そういう人間なんだという目で、いつも自分を見ていたい。」
祖国を愛することは自然で当然な感情だ。この感情の中には貴重なものがあり、抽象的な理論では覆いきれない生身の人間の息遣いのようなものがある。人間が人間になっていくということは、この息遣いの中で育てられていくということなのだと思う。だからこそ私は、隣国の人々の祖国に寄せる想いを「八紘一宇」「皇国臣民」の名のもとに踏みにじった「国家」の暴挙をゆるすことができない。朝鮮半島の人々の名前を変えさせ、言葉を奪った暴挙をゆるすことができない。私たち日本人が日本という祖国に寄せる想いは、中国や朝鮮の人々の祖国に寄せる想いとつながっている。同じ根っこから等しく私たちはそれぞれの祖国の風土を愛し、文化を愛し、自分たちの想いをのせる自分たちの言葉をたいせつにしている。それぞれの祖国をいとおしむ気持ちを大切にするということは、私たちがそれぞれの父母を大切にし、敬うのと同じようにけっして優劣を競い合うことではないし、父母の偉大さは成し遂げた「偉業」の社会的経済的評価にあるのでもない。父母は私の父母のように社会的に評価されない、経済的に貧しく名もない庶民であっても、また時に理不尽で子供を苦しめることの多い存在であっても、父母の思いと息遣いの中で私は育ち、父母の人生を私自身の人生といつも関わりのあるものとして生きてきたし、これからも生きていく。反発しながらも父母の欠点や弱さを自分自身の欠点や弱さと重ねて理解することができるようになり、欠点や弱さにもかかわらずその愛に感謝することができるようになったのも、父母の人生を常に自分の人生と重ねて生きてきたからだ。父母の尊さと祖国の尊さは、生きるということの重み、理屈では測られないその具体的な手触りに他ならないのだと思う。
「祖国」を「国家」と言い換えてしまったときに失われてしまうこの具体的な手触りについて考える。平板、単調、一枚岩になり、顔を持たない抽象的なものになってしまう「国家」と「国民」について。この平板さ、単調さは典型的には中国や北朝鮮の共産主義国家に見るのだが、昨今の日本で愛国心の大切さ、「日本人の自覚」が語られるとき、同じような平板さと単調さに気づく。治安維持法の冷たさと非人間性は、異なった考えを排除し一つの考え方を押し付けることだ。文化の豊かさは文化の土壌であるその地層の厚さにある。この地層の厚さの中で私たちはてんでばらばらな考え方をしているようで、つながっている。「日本人」である私たちを育む地層は、一つの考え方、一つの日本人像しか受け付けないほど浅いものではあるまい。戦争という出来事の中での日本人を考えてみても、そこでどのような思いを抱いて生き、死んでいったかということは、さまざまだろう。最近上映された映画『男たちの大和』の中で描かれた青年たちの思いも、熱帯のジャングルをトカゲやヘビを食べながらさまよい、マラリアにかかって死んでいった痩せこけた兵士の思いも、「皇軍」の活躍に歓喜して日の丸を振った町内会の男女の思いも、洞窟で軍人の銃剣に怯えながら小便を飲んで生き延びようとした沖縄の人たちの思いも、満州で「国家」に置き去りにされた中国残留孤児の思いも、すべて「日本人の思い」である。過去のすべての日本人の経験や思いとつながることは、私の中の心の地層と経験を掘り進んでいくようなひそやかな作業だ。心を耕さなくてはならないし、教養を高めなくてはならない。一つの歌を歌えばよいということではなく、一つの旗に向かえばよいということでもない。ざわわざわわと『さとうきび畑』の歌のむこうに沖縄の戦争で倒れていった人の悲しみに思いを馳せることも、「日本人であること」を深く受け止める行為なのだ。
心の地層と経験を掘り進み、心を耕すためには、心は自由でなければならない。卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱が、心を縛るものであってはならない。(まして処罰など…。)「愛国心」も「神への愛」も目的とするようなことではない。私たちがひとつひとつの日常を大切にし、ひとつひとつの経験の意味を深く考え、ひとつひとつの思いと向き合うことを大切にしていくのならば、自然と拓かれる地平のようなものである。
(2006年4月2日)
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ちょっと文字がたくさ〜〜んで、読むのが大変でした。 が、要は「心の地層と経験を掘り進み、心を耕すためには、心は自由でなければならない」・・なんですよね? アーメンです。 だからこそ福音が必要なんですよね。 新しい記事を書きました。 一応TBしておいきますね。 STARさん・・・祈ってますよ!!
2006/9/15(金) 午前 7:11
福音が必要なのは言うまでもありませんが、まがいものの愛の強制が行なわれようとしているとき、キリスト者はこの世とたたかわなくてなはらないのではないでしょうか。「心の自由」は各人にゆだねられるものではなく、現実に心の自由を侵されようとしている人々がいるときに、その人々と連帯してたたかうことが福音に立った生き方だと思います。
2006/9/15(金) 午前 8:41
starさんの福音理解に、私も依拠したいと思っています。トラバさせて頂きました。
2006/9/16(土) 午後 11:51 [ - ]