キリスト者として今を生きる

風は冷たいけれど春の訪れを感じます。。。

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 高橋哲哉の『国家と犠牲』読みました。メチャメチャ面白かったです。このごろ自分がキリスト教に対して募らせつつあった違和感というストライクゾーンにスポッとハマって、靖国のこと、ナショナリズムのこと、キリストと共に生きること等々について深く考えさせられました。

 聖金曜日にあるプロテスタント教会(私はカトリック教徒)の礼拝に出席したのですが、なぜかとても苦しくて、そこで祈りつづけることは魂にとってよくないのではないだろうかとさえ思ったほどでした。その教会の礼拝が特に苦しかったというわけではありません。カトリックの聖金曜日のミサにあずかっても尚一層苦しかったような気がします。また聖金曜日ではありませんが、カトリックの告解の秘蹟は私の現在の魂が受け入れられないでいるものの一つです。告解しなければならないという義務は私の魂をしめつけます。そして魂がしめつけられるのは、「自分の罪と向き合い自分の罪を認めたくないから」ということではないという直感的確信があります。自分に罪がないなどとは思っていません。しかし私は自分の目下の最大の罪についてはたぶん気づいていない。罪というのはたぶんそういうもので、一方告解は「自分が気づいている罪」について告白し、ゆるしを請う儀式です。聖金曜日と告解の秘蹟に感じる同じ苦しさを「ヘブル人への手紙」の次の言葉にも感じます。高橋哲哉が『国家と犠牲』で引用している箇所です。

 「けれども、キリストは、…雄山羊と雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。…こうして、ほとんどすべてものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。…キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」(ヘブライ人への手紙 9:11-28)

 雄山羊と雄牛を「犠牲」として捧げることとキリストの十字架のちがいは、後者が「永遠の贖い」であり、「度々」(前掲25節)捧げなくてもよい、一回限りでよいということにすぎないのでしょうか。そこでいう「永遠の贖い」という言葉の意味も、雄山羊や雄牛の犠牲がもたらす期限つきのおゆるし(賞味期限やクーポンのような「おゆるし有効期限!」)でなく「無期限」という意味にすぎないのでしょうか。私には、上の手紙で語られる「罪の贖い」が、福音書のリアリティを欠いているように感じられるのです。聖金曜日の祈りと告解の秘蹟に感じる違和感もこの「リアリティのなさ」なのです。(まあ、パウロにたいしてあたしごときがナマイキな…。)福音書に描かれている「罪」とその贖いとはどんなものか見てみたいと思います。(えらそうだな。。。)

 一つはペトロがキリストを三度「知らない」という場面です。
「ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」(マタイ26:74-75)
 この出来事より前にペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:33-35)と言っていました。こういうペトロが受難週の始まりの前にどういう告解をしたらいいのでしょうか。「わたしは決してつまずかないなんて私は思っていますが、そんなふうに思う私は傲慢なのだと思います。それこそ私の最大の罪です。こんな傲慢な私をおゆるしください。」という告解でしょうか。なんだかこういう「謙虚さ」こそウソの謙虚さだという気がします。「わたしは決してつまずきません」と言うペトロがすでに罪の中にいたとしても、その時点でペトロには気づきようもなかった。自分の罪に本心から気づいたときペトロは「激しく泣いた」のであって、鶏が鳴く前にいくら「自分の罪」に思いを馳せたところで「激しく泣く」心にはなれなかったでしょう。

 もう一つはルカ福音書の中の「罪深い女」と女に対するイエスの応答です。
 「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」(ルカ7-37-38)
 「罪深い女」(マグダラのマリア?)は鶏の鳴く声を聞いたときのペトロと同じように泣きますが、どんな思いで泣いたのかが、ペトロの場合より詳しく描写されているように思います。イエスの足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗る女に、イエスは「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ないものは、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」といわれた。(ルカ7-46-48)

 ユダについては、なぜ彼が罪をゆるされず自殺してしまったのか、強い問題関心を持っています。何か考えることがあったら教えてください。
 「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「われわれの知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。」(マタイ27:3-5)

 「罪深い女」のこのときの気持ちについては福音書の記述がすでに活き活きと描いているのですが、ペテロが自分の罪に気づく瞬間は、イエスがペテロを振り返っておられる姿が目に浮かびます。深い悲しみを湛えた静かなまなざし、すべてを鋭く見通しながらすべてをゆるしている憐れみを湛えた深いまなざし…。こんなまなざしに出会った時、私たちは自分の罪にハッと気づき、「激しく泣く」のではないだろうかと思います。それは罪の気づき、キリストの抱える痛みと悲しみに対する初めての気づき、痛みと悲しみを黙って耐えている深い愛に対する気づきです。
 己の罪への気づきと悔悟と赦しはほとんど同時に生起しているように思えます。罪深い女もペテロもこの瞬間に「激しく泣き」、キリストを深く愛したのではないでしょうか。自分が罪を犯したという自覚と悔恨だけでは、たぶんペテロや罪深い女のように泣くことはできないのではないかと思いました。まなざしに出会わなければ…。ユダは犯した罪を自覚して悔いたのに、どうしてペテロや罪深い女のように泣くことができなかったのか、(あるいはユダも泣いたのか)、私の中での大きな問いです。

 キリストは十字架の上で、十字架につけられる前にペテロを振り返った時と同じように、痛みと悲しみに耐え、同じ深いあわれみのまなざしを十字架につけろと叫んだ人々に注いでおられるように感じられます。このまなざしに「出会い」、激しく泣くことが、「救われた」ということではないのかと漠然と思います。その時、自分の犯した罪の重さよりも、キリストの愛の深さに触れた感動の方が大きく心を占めるのではないだろうかと思います。
私が描く罪からの解放のイメージは、重苦しい悔恨や罪とのきびしいたたかいのイメージではなく、福音書の次の箇所が描くイメージです。
 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(マタイ13:44-46)

 雄山羊と雄牛の犠牲をキリストに移し変えるだけでは、このキリストのまなざしを捉えることはできません。キリストが私たちの罪のために十字架につけられ、死んでくださったから、私たちが罪をゆるされ救われるのだ、というのは何か直感的に「まがまがしさ」を感じます。またそんなことで私たちは救われるのでしょうか。罪深い女においてもペトロにおいても、「己の罪への気づき」はキリストのまなざしを通して、私たちのいる次元よりも高い次元から降りてくるように感じられます。一方、私たちは自分の立っている次元においても漠然と己の罪への不安感のようなものを感じ、この罪が報いを受けるのではないかという怖れを感じることはあるでしょう。この不安感と怖れから犠牲を捧げ、罰を免れたいと思うのならば、神は「怒れる神」「裁く神」であり、犠牲は「とりなし」です。キリストが「父なる神」の怒りをとりなし、裁きを免れさせて下さったという解釈を何度か聞かされました。そのようなキリストに対して捧げる感情はやはり「感謝」であり、愛ではありません。動物実験で犠牲になった動物に捧げるのと同じ「感謝」です。(高橋哲哉の言う、実験動物が「科学の発展のために犠牲になってくれた」という「感謝」の裏には、自分たちの目的のために動物を殺したという罪責感からくる漠然とした不安があるのではないかと思います。)私たちの罪に怒り、裁きを下す「父なる神」がいなければ、キリストもまた不必要だったにちがいありません。直感的に感じる「まがまがしさ」は、私たちの現在のありようを守るという目的のために、キリストを犠牲に差し出し、感謝の儀式によってキリストの痛みと悲しみを相殺するというプロセスゆえかもしれません。キリストの十字架を雄山羊や雄牛の犠牲と等価なものに(その有効期限が期限付きか無期限かのちがいがあるだけの等価なものに)してしまったとき、私たちの「現在」が「ゆるし」とともに固定され、キリストの痛みと悲しみが見えなくなってしまうように感じるのです。(後半に続く)

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祈ります。
祈ります。
祈ります。

2009/4/17(金) 午前 8:57 [ 近い人 ]

神がいてパンと血があれば
必ず生贄が要るんだよね。

それをキリストが一人で
やってくれたのがキリスト教

民が自らやるのが我々日本人
だから靖国神社とは十字架だ。

つまり個々人の生産と契約で
社会が成り立つ狩猟・遊牧民族と

個々人ではなく田んぼを守る
農耕民族の社会とでは

神に対する向き合い方が異なる。

2019/1/19(土) 午後 2:43 [ azv***** ]


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