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福音書では、イエスが十字架につけられるまでの出来事が、歴史的な事実であると同時に、時代と場所を越えて繰り返される人間的な事実として、圧倒的なリアリティを持って語られています。祭司長たちがねたみのためにイエスを引き渡したこと、イエスを「十字架につけろ」と叫んだのが群衆であったこと、兵士たちがイエスを侮辱しているうちにイエスを惨めな、侮辱して当然な存在だと思い込んでしまっただろうこと、善意の人ピラトの取った行動、敵対していたヘロデとピラトがイエスを送り返したことで仲がよくなったこと等々。歴史的には一回限りであるはずのそれらの出来事とパラレルな出来事を、私たちは私たち自身の現在、この場を生きることの中で経験し、それらの出来事の意味を私たち自身の生の真只中で考えます。「キリストの犠牲によって私たちは救われた」と言うだけでは、この出来事のリアリティ=私たち自身の生のリアリティもまた見えなくなってしまうように思います。また「罪」の具体的な姿も見えなくなってしまうように思います。あたかも靖国談話で小泉首相が「今日の日本の平和と繁栄が、その尊い犠牲の上に築かれていることに改めて思いをいたし…」というとき、「英雄死」とは到底いえないジャングルの中での兵士の餓死や、日本が他国に対して行った残虐行為、「非国民」を摘発する相互監視システム、沖縄戦での軍隊が住民に銃を突きつける戦争の実態などが見えなくなってしまうように。またどうして戦争への流れを止めることができなかったのか、どうしてイエスを十字架につけることになってしまったのかということの考察も不必要なものとしてしまいます。ましてその過去の歴史的事実を現在の日本のあり方や自分の生と重ねて考えることは、思いもよらないことになってしまいます。「尊い犠牲」への感謝は、その捧げ物が加害者としての罪をも負うものであるか、無実な「きずのないもの」であるかの違いにかかわらず、生のリアリティを覆い隠す効果を生み出しているのではないかと思います。 |

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