キリスト者として今を生きる

風は冷たいけれど春の訪れを感じます。。。

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長崎佐世保の銃乱射事件で明るみに出たこと。犯人が使ったのは散弾銃だったそうだけど、散弾銃は申請すればほぼ誰でも所持できて、中古品なら数万円で買えるらしい。現在、所持が許可されている散弾銃だけで全国で39万丁近くに上るのだそう。

(ライブドア・ニュースhttp://news.livedoor.com/article/detail/3433127/)

かんべんしてください。。。

昨日も中学三年生の男子生徒が暴れて、ストーブの中に竹箒を入れ、教室をボヤ状態にした。

それでもウチの中学はまだ荒れていないほうだ。おヨソの中学校では対教師暴力なんてざら。

そいでもって今年は臨時任用で来年から正規雇用だから、どっか他の中学に配属されると可能性が高い。

今日も空き時間に職員室で仕事してたら、「出動!」なんて言われて、みんなで三年生の男子を追っかけた。「三年生の担任団は甘い人が多いからね。厳しく叱る人いないし。」

スターはナメられがちだけど、それでも叱らないことはまずない。タイマン張りがちである。追っかけながら考えた。
「まあ、対教師暴力振るわれても、日本はイチオウ法治国家だからな。生徒に殴られてケガしたら労災出るでしょう。。。殺されることはないしね。」


TVがなくて新聞取ってないから知らなかったんです。「殺されることもある」って。かんべんしてください。。。


銃を取り上げろよ!全部没収しろよ!今すぐ全面禁止にしろ!じゃなきゃやってらんない。。。

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無我夢中であること

スターはいちおうインテリである。お金持ちとは言えないけど、その日暮らしをしないでも済む程度の蓄えはある。父ちゃんと母ちゃんは庶民だけど、お坊ちゃん学校やお嬢さん学校で教師をしていたこともある。だから上流階層のヒトビトの間に入ってもイチオウあわてふためかずに話を合わす程度のことはできる。だけど一番むずかしいのはそんなことじゃなくて、「自分を開く」っていうことだなあと最近シミジミ思う。公立中学校なんかで働いてるとシミジミ思う。


「お高くとまってる」という言い方があるけど、「お高くとま」れない境遇にある人たちがいる。イエスが親しく付き合ったのはそういう人たちだったなあと聖書を読んでいると思うのだ。病気持ちだったり売春婦だったり、金持ちだけど嫌われ者(徴税人)だったり。

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そしてイエスが愛する人たちは決まって「恥も外聞もなく無我夢中」なのである。涙でイエスの足を濡らして、長い髪でぬぐい、足に接吻して香油を塗ったり(なんてエロティック!)、チビだけどどうしてもイエスをひと目見たさに高い木に登っちゃったり、イエスにパンをくれとせがみ、イエスに「パンはイスラエルの民にあげるものだから異邦人のあんたにあげるパンはない」と言われると、「だけど小犬だって食卓から落ちたパンくずはもらうのだから、異邦人のあたしにもちょうだいちょうだい」とねばったり。

キリスト教の求道者っていうと、意志の固い禁欲的な清廉潔白居士をイメージするけど、福音書を読むかぎりではちがうんじゃないかなあと思う。イエスははっきり言っている。友だちだからあげるんじゃない、あんたが夜中にドンドン戸をたたいて「ちょうだいちょうだい」ってしつこいからあげるんだ、って。(ルカ11:5−13)追っ払われてもしつこくせがむのは禁欲的な清廉潔白居士とはちょっとちがう。



「てめえ、ぶっ殺してやる!」と言いながら心の奥底で必死に救いを求めているような少年をイエスは愛しているのだと思う。そんな少年は実際には教会に来ないけど、それは敷居が高くて「お高くとまった」教会のほうにきっと問題があるのだと思う。まあ、そういう人たちと人間的に付き合うのは難しいのだ。嘘もつくだろうし盗みもするだろうし、スター先生がいっしょうけんめい授業しても聞かないで立ち歩いたあげく、「死ね!」なんて言うし。スター先生はそのとき腹を立てればよろしい。スター先生もそうやってボロボロになりながら無我夢中になっていくのだ。人間はボロボロにならないと無我夢中にならないのだ。そしてそんなカッコ悪い人たちと一緒にイエスは宴会をしましたとさ。

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清少納言に倣って「いとわろきもの」
「股上の浅きジーンズを履きてウンコずわりしたるネエチャンの、尻の割れ目までみえたる、いとわろし」

みたくもないのにヒトのお尻の割れ目を昼日中公道でみてしまったときは、みたくもないものをみせるネエチャンを憎たらしいと思う気持ちにもちょっとばかりなるが、こういうネエチャンは逮捕されてほしいとか留置所に放りこんだらいいとまでは思わない。

しかしこういうネエチャンをタイホ、拘留することもできるらしい。ブログでお付き合いさせていただいてる司法修習生のCKさんが、軽犯罪法をわかりやすく解説してくれてるけど、それによると軽犯罪法第一条20項で、「公衆の目に触れるような場所で公衆にけん悪の情を催させるような仕方でしり、ももその他身体の一部をみだりに露出した者」は「拘留または科料に処す」とある。(ちなみに「こじき」も軽犯罪法違反だと知っておどろいた。)

私のこれまでのケイケンでも「シリの割れ目までみえちゃってるネエチャン」には3回ほどぶつかり、そのたびに不愉快な思いをしたのだから、かなりの頻度でこういうネエチャンは(特に夏場は)出没しているワケで、これが軽犯罪法違反ならお巡りさんが「シリの割れ目露出防止パトロール」をしてもよさそうなものだが、そういう話は聞かない。

CKさんが言うにこの「タイホ、拘留、科料」には情状酌量ってもんがあって、軽犯罪法の第二条に、

前条の罪を犯した者に対しては、情状に因り、その刑を免除し、又は拘留及び科料を併科することができる。

って書いてあるから、シリの割れ目を露出したネエチャンにムカついて私がお巡りさんに言いつけに行ったとしても、たぶんネエチャンはオマワリさんにお説教されただけで(何をどうやって説教するんだろう。。。)釈放されるんだろう。

じゃあどういうときにタイホ、拘留されるのかって言うと、多くは別件逮捕だとCKさんは言う。で、ここからが本筋なんだけど(この記事は「シリの割れ目をみせてるネエチャン」について書きたかったわけではないのだ)、ピザ屋のチラシをマンションのドアポストに入れても犯罪にはならないけど、共産党のビラを入れると犯罪になっちゃうのだ。廊下とかマンションの共用部分に入ることも「住居侵入罪」に当たるから、「シリの割れ目をみせてるネエチャン」と同じで「ドアポズトにチラシを入れてるピザハットの宅配員」もタイホされてしかるべきなんだけどタイホされない。だけどドアポストに入れたのがピザのチラシじゃなくて共産党のビラだったらタイホされる。

産経ネットニュース「共産党ビラ配り、僧侶に逆転有罪判決」
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/071211/trl0712111536004-n1.htm


3年前には東京の立川市でイラク反戦のビラを自衛隊宿舎のポストに入れた人が控訴審で逆転有罪判決を受けた。反戦ビラをドアポストに入れたからっていってマンションの住人はそう大きな被害を受けるわけじゃないじゃないかと言って無罪判決を出した一審を覆し、控訴審は、ビラ投函によって、入居者らが「軽微」とはいえない不安・不快感を抱いたからこそ、立ち入り禁止の掲示等各種の対策がとられたのだと指摘する。(ウィキペディア)


共産党のビラをマンションのドアポストに入れたお坊さんも、立川の自衛隊宿舎にイラク反戦ビラを入れた人たちも、「言論の自由」を主張するのだけど、「空気を読む」公立中学校で日々揉まれてるスターは、「この主張ってウマくないなあ、一般タイシュウの共感をよばないだろうなあ」と「空気を読む」のである。なぜかっていうと「言論の自由」っていう主張そのものにきっと多くの人は「軽微とはいえない不安・不快感を抱く」だろうからである。「言論の自由」って「権利」を主張した瞬間に、たぶん多くの日本国民は反発する。リクツを言われた瞬間に反発し、リクツで反論するっていう回路を、日本国民は中学生くらいから形成してるって、中学教師であるスターはイヤというほど思い知ってるのダ。実際、この判決をニッポン国民はどう受け止めているのだろうとブログ検索してみた。少なからぬブログが「こんな坊主は有罪判決を受けて当然だ」と書いていた。

人の迷惑顧みず、カルト共産主義を無理やり人々に布教しようとは・・・
これが僧侶という立場のマトモな思考の人物のすることか。押し付けやKYはハッキリいって迷惑だ。

フツーの人は「言論の自由」なんて言わない。そういうコトを言うのは政治的な主張を持ったトクベツな人間であり、トクベツな人間はフツーじゃないことを考えたりやったりしそうだから怖い。「『軽微』とはいえない不安・不快感」を掻き立てられる。ピザ屋は「言論の自由」なんて言わないから、ピザ屋のチラシはよろしい。シリの割れ目を見せてるネエチャンもよろしい。

では立川反戦ビラで拘留された人たち、今回の共産党のビラをドアポストに入れて有罪判決を受けたお坊さんはどうしたらよかったのか。

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「でもそんなのカンケイねえ!オッパッピー♪」
と言えばよかったのだ、たぶん。そうしたら一般大衆の共感を呼んだかもしれない。

でもイラク戦争に反対する人たちも、このお坊さんもマジメなので、たぶんそうは言えない。この人たちを支援する人たちもマジメなので言えない。だからますます一般大衆から乖離するのである。

軽犯罪法第四条。

この法律の適用に当たっては、国民の権利を不当に侵害しないように留意し、その本来の目的を逸脱して他の目的のためにこれを濫用するようなことがあつてはならない。

これってどういう意味なんでしょう?ピザ屋には「この法律を適用」しないで共産党のビラを配布したお坊さんに適用する「本来の目的」はなんなのでしょう?法律の専門家であるCKさんにもこの条文のイミはわからないようです。


立川反戦ビラと言論の自由については、こちらのブログが詳しい。http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber/20050131.html

本当は、「言論の自由」を主張する反戦運動家や共産党シンパのお坊さんに反発するんではなく、戦争政策も含めて今の政治を批判する批判者を狙い撃ちする警察や検察のあり方のほうをモンダイにしないと、ニッポンはヤバイいんじゃないかと思うんですけど。

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主の平和

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キリスト教は十字軍をやったり新大陸侵略の手先になったりしてきたし、旧約聖書には戦争と血の匂いもするけど、「神の名においてなら戦争をしても異教徒や異民族を殺してもいい」なんてイエスは一度も言っていない。「テロリスト」を退治するためならアフガニスタンやイラクを攻撃してもいいとは言ってない。北朝鮮のミサイルから防衛するために軍備を持たなくてはならないなんて言ってない。軍備を持ち、集団自衛権を行使することが世界の秩序と平和を回復する道だなんて言ってない。

イエスは子ろばに乗ってエルサレムに近づき、エルサレムが見えたとき、エルサレムのために泣いて言うのだ。「もし、この日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…。」(ルカによる福音書19:41−42)

子ろば、なのである。馬ではないのである。ここからイエスが言う「平和への道をわきまえる」とはどういうことなのかが推察されようというものだ。ろばは従順に人や荷物を担って運び、汗して野良仕事をする人とともに歩き、庶民の暮らしを支える。しかし戦争をするのにろばに乗っていく兵士はいないだろう。軍馬でも戦車でもなく子ろばに乗ってイエスはエルサレムに入城した。そしてエルサレムのために泣いて言った。「もし、この日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…。」

平和への道は庶民の生活を支え、重荷を担うろばの歩みである。イエスは東京のためにもニューヨークとワシントンのためにも泣いて言われるのではないだろうか。「もし、この日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…。」

「主の平和」と平和のあいさつを交わすとき、教会は信徒にこのことを思い起こさせてほしいと願います。戦火におびえている人たちのために祈るのに加えて、給油活動をしたり軍備を増強しようとしている日本と世界の動きにたいして、「それは御心ではない」とはっきり確認してほしいと願います。教会が政治的な事柄について発言することを「教会のあり方ではない」と言うけれど、そうなのでしょうか。私は心から祈りたいのです。教会が生きた教会であってほしい、2000年前の中東という現実に身を置き、子ろばに乗って「力」と対峙したイエスのように現実と対峙する教会であってほしいと願っています。「主の平和」という挨拶を具体的な、生きた内容を伴った祈りとして交わしたいのです。

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ホームレス中学生

たまたまこんな記事をみつけた。ホームレス中学生
記事のタイトルは「ホームレス中学生 格差の時代にさわやかな夢」

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人気お笑いコンビ麒麟(って知らない。。。)の田村裕って人が書いた本で、9月の発売からわずか2ヶ月でミリオンセラーとなり、今年の年間ベストセラー第二位に選ばれたそうだ。映画化も決定したそう。

今年の出版界最大の話題作かもしれない。壮絶な自叙伝の何が共感を呼んだのだろうか。
(中略)
14年前の大阪で中学生のホームレスが実在したことは驚愕(きょうがく)の一語に尽きる。少年は約1カ月で過酷な公園生活から脱するが、そこには少年を助けた友人やその家族のさりげない情愛があった。さらに少年の心を開いた教師の細やかな愛情、少年を最後まで支えた兄姉の深い絆(きずな)があった。大好きだった亡き母への思い、友人にも打ち明けられない思春期の葛藤(かっとう)が訥々(とつとつ)と語られるなかで、読者は現代社会が失ったものに気づくのである。
(中略)
所得格差は教育格差を生み、さらに就職、結婚と格差は格差を生み、固定化するといわれている。世相をみれば、セレブや三ツ星レストランがもてはやされ、あらゆる場面で「勝ち組」「負け組」に色分けされる反面、愛情や友情、人情を共有できないのが現実ではないだろうか。田村さんは自分を捨てた父親とすべての人に「感謝」の言葉を贈った。格差社会のなかで孤立する多くの読者は笑いと涙の中にさわやかな夢を見つけたにちがいない。

ベストセラーだから読みたくなるというほど元々素直でもないのだが、この書評を読むだけでこの本を読む気はなくなってくるのである。何が言いたいんだ?!格差社会は残酷だけど、その中でも「感謝」を忘れず笑顔で生きている人がいるんだよ、と言いたいのだろうか。「格差社会にさわやかな夢」ってどういうことなのか。読んでみればわかるのかもしれないけど、このキャッチコピーを読むと読みたくなくなる。


時折訪問するブログで、かつてアル中で精神を病んでいたという人が書いていたのだけど、障がい者にせよホームレスにせよ、「向こう岸」にいることを感じさせず、あっけらかんとその「壮絶さ」を綴るかぎりにおいて、彼等は「危険な存在」ではなくなり、私たちは「こちら側の岸」から拍手喝さいを送る、と。(この人の慧眼を私は尊敬している。)

何年か前に乙武ヒロタダが書いた『五体不満足』という本もベストセラーになったけど、「障がい者」であることのつらさとか悲しみとか社会にたいする怨恨とか抗議とかそんなことは何も書かれていなかった。「障がい者であることが僕の個性」、バスケットボールさえやっちゃうし、手足がないハンディはかえってわずかに残った腕で超低姿勢からのドリブルという得意技を生み出し、レギュラーに選ばれて試合出場さえした。早稲田大学に入学して小学校の先生にまでなった。(ってのは本出版後のことだけど。)究極のポジティヴ・シンキング。


こういう話がやっぱり万人に受け容れられるんだと思う。だけどやっぱり乙武さんは特殊な「障がい者」だ。手足がないことを除けばルックスはいいし、戸山高校から早稲田に入っちゃうくらい頭いいし、性格明るくて人に好かれるし。そして何より、よだれを垂らしたり、手足や口が麻痺して話すとき顔をゆがめて「へんな声」を出したりしない。乙武さんの本自体には感銘を受けた一人だけど、乙武さんのケースだけをもって、「障がいも個性。同情する必要もないし、前向きに生きるべきだ」と言うわけにはいかない。私たちの社会のあり方を問い直すことなく。個別支援急学級の生徒たちは卒業後、親の扶養なしに「自立」していくことはやはりできないでいるのだ。

同じように「ホームレス中学生」をもって、格差社会の弱者もさわやかに夢をもって生きろよ、と片付けるわけにはいかない。この記事を見つけたのはたまたまトヨタの過労死訴訟のニュースを検索したら、同じウェブページのgooニュースに載ってたのだ。この本が「読者の共感を呼んだ」って書いてあるけど、どういう人が共感したんだろう(ってベストセラーなんだから多くの人が共感したんだろうけど。)共感した人の中に「自動車絶望工場」で働いているトヨタの下請け労働者とか、会社がつぶれて失業したサラリーマンとか、破産して借金を抱えた中小企業の社長なんかもいるんだろうか。ところでまあ、読まないで云々するのもなんだから、今日教会の帰りに本買ってこよう。山積みされているのは見たから。読んで感想変わったらまた書きます。

ちなみに本の帯には「衆議院議員麻生太郎氏も推薦」と書かれている。


(加筆)
さっきこの本買って読み終えました。2,3時間でサラサラっと読んでしまえる本です。なんだか物足りないと感じるのは私だけだろうか。著者は自分を捨てたお父さんを恨まない。「お父さんにもお父さんの苦しみがあったんだろう」と想像する著者の人間の器が大きいのか、本を売るための戦略なのかわからないけれど、あまりリアリティを感じなかった。だから共感もしなかった。この本に出てくる著者を取り巻く人々は皆とびっきり温かい。実際世の中はこんなに温かくない。冷酷無情なグローバル経済が社会のセーフティネットさえ破壊している。地域社会もセーフティネットとしては機能しない。本の帯で「ここには、日本人として忘れてはならない何かがあります」と語る麻生太郎に「ケッ!」と思う私は、きっと著者より数倍性格が悪いのだろう。それがどうした?!
 

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