キリスト者として今を生きる

風は冷たいけれど春の訪れを感じます。。。

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僕らの希望は戦争

週刊誌「SPA」最新号の見出し。通勤電車の吊革広告にあったので立ち読みしようと思ったが、ネット検索してみたら話題をまいた元のブログ記事を読むことができた。ちょっと前に話題になったのだろう。私はずいぶん遅れて今頃知った。

「丸山眞男」を引っぱたきたい
 http://www7.vis.ne.jp/~t-job/base/maruyama.html
けっきょく「自己責任」ですか
 http://www7.vis.ne.jp/~t-job/base/maruyama2.html

この記事を書いている30代フリーターに「戦争はけっして弱者を救わない」「イラク戦争に狩り出されたアメリカの貧困層の悲惨な状況をみよ」と言うこともできるのだけれど、なぜかそんな反論をする気にはならなかった。記事を書いた赤木さんというおそらくインテリであるフリーターはそんなことはきっと重々承知なのだ。

サヨクの唱える「平和」が「持てる者の安定の継続」を意味し、初めから持たざる者以外の何者でもないポストバブル世代のフリーターを無視しつづけるかぎり、戦争という「国民全体が苦しむ平等を」という彼のキモチはわかるからだ。戦争が果たして「国民全体が苦しむ平等」なのかどうかというリクツはここではカンケイがない。「そういうキモチ」なのである。ネット右翼のキモチがわかるという彼の理解は多分正しいのだろう。ネット右翼がホンキで戦争を求めているのかどうか私は知らない。たぶんちがうような気がする。なぜならホンキで戦争をしたいんだったら、アメリカの外資と結びつくとか、ネオリベがやっているようにワーキングプアを生み出したりとか、そういうコスい手を使うと思うからだ。「ホンキで戦争をしたい人たち」は感情よりもそういう「利害」で冷静に動いているような気がする。会ったことないけど。ネット右翼は2チャンネルで韓国や北朝鮮や中国の悪口を言ったり、サヨクのブログにアラシとなって現れたり、よっぽどすることないときは私のブログにまでしつこいコメントをつけたりする。そんなことしたって戦争なんて起こらないからだ。

彼(赤木さん)は書いている。

戦争は悲惨だ。
 しかし、その悲惨さは「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる。
 もちろん、戦時においては前線や銃後を問わず、死と隣り合わせではあるものの、それは国民のほぼすべてが同様である。国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルである戦争状態と、一部の弱者だけが屈辱を味わう平和。そのどちらが弱者にとって望ましいかなど、考えるまでもない。
 持つ者は戦争によってそれを失うことにおびえを抱くが、持たざる者は戦争によって何かを得ることを望む。持つ者と持たざる者がハッキリと分かれ、そこに流動性が存在しない格差社会においては、もはや戦争はタブーではない。それどころか、反戦平和というスローガンこそが、我々を一生貧困の中に押しとどめる「持つ者」の傲慢であると受け止められるのである。
(…中略…)
それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す連中であっても、彼らが戦争に苦しむさまを見たくはない。だからこうして訴えている。私を戦争に向かわせないでほしいと。
 しかし、それでも社会が平和の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ、私のささやかな幸せへの願望を嘲笑いつづけるのだとしたら、そのとき私は、「国民全員が苦しみつづける平等」を望み、それを選択することに躊躇しないだろう。

彼は冷静であり、「戦争を希望する自分」をも客観視していると思う。この記事は『論座』にも載ったというし、識者の反論もあったと聞く。戦争はけっして国民全員が苦しむわけではない、金持ちは安全なところで甘い汁を吸い、君らのような貧乏人こそ前線に送り込まれるのだよ、と反論することも可能だ。しかし彼の気持ち、それは「金持ち(=強者)と庶民(=弱者)」という座標軸では「庶民(=弱者)」に自分たちを分類するような(たぶん私のような)安定的マジョリティに対する反感であり突きつけなのだろう。

彼は『論座』での斉藤貴男の反論に再反論する。

斎藤貴男氏は「戦時中の日本でも、金持ちや有力者の子弟には赤紙が配達されないケースが珍しくもなかった」と、徴兵の不平等さを強調する。しかし、私が社会の流動性を高めるために戦争に巻き込まれてほしいのは、そうした一部の権力者よりも、私たちのような貧困労働層を足蹴にしながら自身の生活を保持しているにもかかわらず、さも弱者のように権利や金銭を御上に要求する、多数の安定労働層なのである。
 金持ちや権力者が恵まれているのは、血筋や家柄という固有属性を持っているからであり、彼らが戦争で死んだとしても、その利権は、固有属性を持たない私には絶対に回ってこない。一方で、血筋や家柄を持たない安定労働層と、我々のような貧困労働層との交換可能性は非常に高い。安定労働層は、「たまたま」安定した生活を得られているだけである。念のために言っておくが、私は「努力」などという、結果から遡及してはじきだされた、彼らに都合がいいだけの言い分を認めるつもりはない。

アベシンゾーは「私」ではありえなかったし今後もありえないけれど、starとか○○とか△△のような「安定労働層」は、状況が状況だったら「私」でありえたはずだ、という思いが、「安定労働層も平等に苦しむ戦争というギャンブル」でもう一度勝負しようという「主張」に結びつくのだろう。

私は彼にたいして安易な反論をするのを差し控えたいと思う。彼(赤木)に反論するサイトもみたけど、かみ合った議論になっているとも思えなかった。彼の記事には「ウ〜ン」とうなった。今はそこにとどまりたいと思う。

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今日は映画を観に行った。3連休だけどたまってた仕事はいっぱいあって遊んでるヒマはないんだけど、それでもここは遊ばないと精神の健康が保てないのである。ってそんなに追い詰められてるワケじゃ全然ないけど、「野菜をしっかり食べると元気」と同じ程度に、「やっぱ休日には仕事をうっちゃって後から睡眠不足になったとしても映画を観たり美術館へ行ったりすると元気」になるのである。「4分間のピアニスト」。女優2人は素晴らしく演技が上手で存在感があった。シューマンもいいなあと初めて思った。


ところで池田晶子の『14歳の君へ』に、日ごろから感じていたことがそっくり書いてあった。

人を嫌いになるのはいけないことだ、と思っている人もいる。誰でも好きにならなくちゃ、誰とでも仲良くしなくちゃいけないってね。
その心がけは立派なことだけど、やっぱりちょっと無理があるよね。無理なことはよくないよ。大嫌いなピーマンを無理やり飲み込んで、君はお腹をこわすことになるかもしれない。じゃあ、どうしても嫌いな人に君はどういう態度をとればいいだろう。

君はこうすることができる。嫌いなものは嫌いだ。これはもうどうしようもない。そして嫌いなものはそこにある。これもどうしようもない。だからそのことを自分で認めてしまうんだ。そして、それ以上そのことにこだわらないことだ。そうすれば、嫌いなものは嫌いで、ほうっておくことができる。ピーマンさん、あなたがこの世に存在することは認めるけれど、あいにく私はあなたが嫌いです。だから私はあなたを食べませんって具合にね。

嫌いなものを無理に好きになろうとするのは、好き嫌いにこだわるまいとして、逆に好き嫌いにこだわっているんだ。でも、好き嫌いは好き嫌いとして、どうしても存在する。それなら、それはそれとして認めてこだわらないこと、これが「愛」というものなんだ。

君は意外だろう。嫌いが嫌いで愛だなんて、変だと思うだろう。愛というのは好きというのと同じことだと思っていただろう。だけど、愛と好きとは違うんだ。愛は感情じゃない。愛は、好き嫌いを超えたもの、それがそこに存在することを認めるということだ。受け容れるということだ。ピーマンが嫌いでも、ピーマンが存在することは認める。あの人は嫌いだけど、あの人が存在することは受け容れる。そうすれば、嫌いという感情を持ちながら、愛することができる。その人の存在を拒まずに受け容れることができるんだ。

私が休日は仕事をうっちゃっても映画を観に行くことと、上の引用と、中学校のイジメについて思うことは重なっている。私は日ごろ中学校で「かなり変わってて付き合いづらい子」にイヤガラセしたりイジメたりする「その他大勢」の子供たちに感じている。「なんでほっといてやらないんだよ。」

「ほっとく」というのは「シカト」ともちがう。「シカト」は思いっきり肩に力が入っている。意図的なんである。イジメと同じように対象にこだわっている。だから「シカト」はイジメの一種だ。「ほっとく」は「ピーマンは嫌いだから食べない」と同じことである。「別にムリに仲良くする必要はない。だけど『おはよう』くらいは言いな。」…クラスの子供たちに言っている。


いじめる子供たちはいじめる対象の子供になんだか抗えない力で引き寄せられ、執着している。そのことを「不健康だ」と感じるのである。「いじめをやめなさい」は「仲良くしなさい」とはちがう。「誰とでも仲良くしなさい」なんてことを子供に言える大人が果しているのか。職員室で私の前の席の学年主任は私のことが嫌いらしくて、朝「おはようございます」と挨拶しても挨拶を返してくれない。飲み会の席で端から詰めなくちゃいけないと思ったから仕方なく隣に坐ろうとしたら、「そこは○○先生が後から来るからあけといて」と言われた。あいさつは返すべきだ。一方、飲み会の席でムリして隣に坐る必要はない。こっちもホッとした。気が合わないし、できるかぎり傍にはいたくないけど、まあ彼女は彼女で優秀な教師なんである。彼女は存在していいんである。できればいっしょの空間じゃない方がいいけど。

どうしてこんなふうにやりすごせないんだろう、と子供たちをみていて思うのである。それはまず教師たちが「みんなと仲良くしなさい」と言うからだ。自分たちだってできもしないし、やろうともしていないくせに。第二に、休日に仕事をうっちゃって映画に行かないからだ。映画の中ではナチの時代に共産主義者の同性を深く愛した女性の話だとか、殺人犯がピアノを弾く話だとかが語られている。その世界は学校とはまったくカンケイがないのである。学校なんて、まあたまたま週の大部分の時間を費やしてはいるけど、世界の総体から見たら、ちっぽけな世界なんである。そんなふうに思えたら、別におトイレに一緒に行ってくれる友達がいなくても差し支えないし、話しかけてくれるトモダチがいなくて、かえって読書に没頭できるし、話しかけたいときは話しかけるけど、話したくなければ黙っていればよいのである。


嶽本野ばらの小説に『エミリー』というのがある。学校でイジメにあっている女の子が原宿でコスプレをする話だ。以前教えていた不登校の生徒もコスプレをしていた。こういう子たちの気持ちはとってもわかるような気がする。そして「学校的なるもの」が「私」を呑み込んでしまいそうな状況において、たぶん正しい対処の仕方なんだと思う。学校はエミリーを呑みこもうとするだけではない。いじめをするマジョリティの子供たちをも呑み込もうとするのだ。嫌いなピーマンに執着せざるをえないような内圧がかかっている。内圧があるところにイジメも妬みも醸成される。「公園デビュー」の若いお母さんたちの間にもきっと内圧があるんだろうと想像する。何年か前、同じ幼稚園に子供を通わせていたお母さん仲間を殺した事件があった。


そうした内圧を弱めるために、私は休日には映画を観に行くのだ。そして採点の合間にブログをするのである。でも子供たちは休日にも部活をやってる。嫌いなピーマンといっしょに。好きな玉ねぎだって圧力釜で煮込めば変質しちゃうかもしれないのに。

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政府税調、配偶者控除を見直し、配偶者控除が廃止されようとしている。配偶者控除は年収103万円以下の配偶者がいる所得税納税者の税金が安くなる制度。この控除のことは知りつつ、いつも横目で眺めながら、年収200万円台のパート労働を続けてきた。240万円くらい稼がないと配偶者控除を受けるよりソンになるよ、と言われて少しでも収入を上げようと夜遅い派遣の仕事なども引き受けてきた。しかし英語という専門技能を要求される派遣、パートでさえ、年収200万から300万稼ぐのは容易でない。年収400万はどんなに頑張ってもムリだった。記事には、

「控除を受けようと、パートの主婦らが年収を103万円以下に抑制する傾向があり、答申は「女性の社会進出を妨げる」と見直しを求める。

とある。夫の税金を控除もされず「社会進出」してきた私は「そうだそうだ!今までずいぶん不公平だったワ!」と答申に諸手を挙げて同意しそうなものだけど、なんだかモヤモヤとナットクできないのである。そのモヤモヤをつきつめていくと、それは政府がまるで今まで「女性の社会進出」を応援してきたかのようなポーズを取るからだと気がついた。

私は一生けんめい「社会進出」しようと、英語スキルを磨き、資格を取り、「あんまりおいしくない」仕事も先々のことを考えて引き受けてきた。来年から公立中学校に正規採用されることが決まったけど、それはひとえにこれまで専任教員の経験があったことプラス運がよかったからであり、幸運に恵まれなかったら、まだ「いつ仕事がなくなるか」という不安に怯えながら、派遣とパートの仕事を続けていただろう。そうであった確率は、私の「努力」にかかわらず高い。パートや派遣の女性がどんなに努力して身を粉にして働き続けても、正社員として「社会進出」できる道は閉ざされており、「配偶者控除」よりもおトクな240万円程度の収入を得ることさえ容易ではないのだ。

私立学校で非常勤講師をしながら企業と民間の英語学校で英語を教え、学校の長期休暇には英語教材作りなどの在宅ワークをして、やっと年収300万円程度である。一箇所の事業所だけでは十分な収入を得られないのでカケモチすることになるが、カケモチは時間帯がかち合うことがあって、仕事の調整にいつも頭を悩ませる。学校は朝の2時間だけ、あとは電車を乗り継ぎずっと遠くの会社まで出かけていって夜のクラス2時間だけ、とか。移動の交通費は出るけど、移動の時間は労働時間に換算されない。労働時間帯の上でも移動の点でも、労働効率が非常に悪いのだ。だから総労働時間の割にはいつも疲れていた。たった2時間のクラスのために、電車で2時間もかけそぼ降る雨の中をテクテク歩いていったこともある。企業で英語を教えるという華のあるカッコイイ仕事、時給は4000円近くをもらっていたが、その実態はコレなのである。結局、いくらスキルを磨いてTOEIC満点を取ったり翻訳や通訳の学校を出たりしたところで、たいした事態の改善は見込めない、と見切りをつけた。

配偶者控除をなくせば「女性の社会進出」が行なわれるのか。きれい事を言うな!正社員への登用を極限まで抑えて、既婚女性を安価なパート労働者として便利に使い捨てながら、あたかも配偶者控除が「女性の社会進出」を阻んでいる元凶のように言う。同じ論理で、生活保護費も切り下げられようとしている。ワーキングプアの得ている給与より高額な生活保護費は勤労意欲を損なう、というリクツである。ワーキングプアを救済しようとする代わりに、こういうリクツで社会保障を切り崩そうとする。

タクシーに乗ったとき、タクシーの運ちゃんはこんなことを言ってた。「スーパーのレジのおばさんいるでしょ、たいていタクシー運転手の女房だよ。ダンナの給料だけでは暮らしていけないからね。」レジ係の年収が103万円を超えるのかどうかは知らない。けれど、手がかかる子供がいて、おじいちゃんおばあちゃんの面倒を看なければならなかったりしたら、働く日は一日おきにするとか時間を限るとかして、年収を103万円以下に抑え、配偶者控除を狙ったりもするんじゃないだろうか。配偶者控除が廃止されて一番痛手を受けるだろうなと想像するこういう女性の置かれた状況と、「女性の社会進出のために」配偶者控除を廃止しようとする政府税調の答申とは、オソロシクかけ離れているように思えるのだけど。
渋谷の東京ウィメンズプラザで催された「さらば戦争!映画祭」に、ずっと観たかった「パッチギ!2」を観に行った。朝から色々な映画とか講演をやってて、1日券だから早くから行ったほうがお得なんだけど、今週はメチャクチャ忙しいので、最後の「パッチギ!2」とその後の井筒監督のトークショーだけ。以下ネタバレあり。DVDも10月末に発売されたっていうことだから、これから「まっさらで観たい」と思う人は読まないで下さい。

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「パッチギ!1」に朝鮮高校の不良役で出てたアンソンの妹キョンジャが芸能界に入って、戦争映画のヒロインに選ばれて葛藤するって話なんだけど、「芸能界では在日が在日であることを隠す」っていうのは、「ヨンさまもイ・ビョンホンもステキだし、いまさら在日かどうかなんてカンケイない」ってわけにはいかないことの証拠なんだろう。山口百恵もにしきのあきらも(古い!)も上戸彩も井川遥も在日だって聞いたけど。誰が在日芸能人か、というこんなサイトをみつけた。
http://pcwbui.livedoor.biz/

「ペ・ヨンジュン」が在日なワケはないし、「筑紫哲哉」と「土井たか子」「辻元清美」が在日になってるのは、「反日」イコール「在日」って分類もアリなのかも。井筒監督も在日だ、という風説がネットを飛びかったそうだ。本名はキムだ、とかいやキムじゃなくてパクだ、とか。

「パッチギ!2」の中では、キョンジャは「青山涼子」っていう芸名で売り出して、在日であることは隠している。「なんで隠さなきゃいけないの?」と聞くと、センパイの在日芸能人は「そりゃあ、アンタ、在日だってことがわかったら『水戸黄門』なんてシラけちゃうじゃない?」ってなことを言う。なるほどね、都はるみが「ニッポンの心」を歌いながら、「キム ヨンジャ」なんて名前だったら「せっかくいい気持ちに浸ってた虚構が崩れる」というワケですね。(都はるみも在日だってウワサだけど。)この事実を考えると、「ニッポンの心」っていうときの「ニッポン」ってやっぱり在日韓国・朝鮮人や在日日系ブラジル人(ややこしいネーミングだ)や中国残留孤児の子弟なんかは含まれないんだなと改めて気づかされる。で、私のブログもなぜか「反日ブログ」にリストアップされてるんだけど、「反日!」って人を糾弾する一部のヒトたちの激しさを思うと、「ニッポンの心」っていうときの「ニッポン」っていう虚構はやっぱりある種のヒトビトにはとっても大切なものなんだなあと想像するワケである。なぜ虚構かっていうと、在日韓国・朝鮮人には帰化して日本国籍を取るという選択肢もあるわけだけど、たとえ日本国籍をとったとしても、「やっぱり血は韓国、朝鮮でしょ?」という科学的にはよくわからない決めつけをされて、芸能活動をする上ではどのみちあんまり変わらないんじゃないかと想像するからだ。「日本人」のアイデンティティってやっぱり「血」なんでしょうね。「血」って全然科学的じゃなくて、それ自体虚構だけど。皇室にはもともと渡来人の血が入ってるわけだけど、「悠仁さま」が将来、韓国人と恋におちてケッコンしたいと言ったら、やっぱり反対されるのでしょう。

戦争にとって「虚構」は欠かせないものなのかも。「パッチギ!2」ではキョンジャは在日であることを隠して戦争映画のヒロインに抜擢される。この戦争映画のモデルは昨年(だったか?)石原慎太郎がプロデュースした「俺は君のためにこそ死ににいく」だそうだ。
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「お国のために、桜の花のようにいさぎよく命を散らす」特攻隊員の悲壮さが涙をさそう(私は泣けないけど)ワケだけど、この特攻隊員の物語もまた虚構であることを井筒監督はトークの中でバラしていた。鹿児島県に徳之島っていう島があるけど、特攻機はここに不時着してしまい、特攻隊員は図らずも生き残ってしまった。しかし生き残りの特攻隊員が本土をブラブラ歩いていると士気がそがれるというので、徳之島に宿営を建て、生き残りの特攻隊員たちをここに幽閉したそうだ。

人間って虚構がなくちゃ生きていけないんだろうか。クリスチャンにとっての「神」も虚構でしょ?という声が聞こえてきそうで、他人事ではなくマジメに考える次第です。

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不在なる神を待ち望む

内田樹はなんだか気が合うと思っていたら、こんなことまで書いていたのだ。(「『おじさん』的思考」晶文社、あとがき)そういえばレヴィナスの研究をしてるんだった、レヴィナスは聞いたことはあるけど読んだことはない。内田さんはクリスチャンじゃないんだろうけど、こういうのを読むと、多くのクリスチャン以上に自分と通じるなあと思ってしまう。(もしかして私の方が「クリスチャン」じゃないだけかもしれないけど。)

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「不在なる神を待ち望む」っていうのは私が哲学科の卒論で選んだシモーヌ・ヴェーユの代表作のタイトルでもある。私がクリスチャンであるギリギリの線はここなんである。ここを超えると私は「ついていけない」のである。で、たいていの教会はここを超えちゃってるので、「ついていけない」のである。

「神の不在」っていうのは、悪いことした人が天罰も受けずにのうのうと甘い汁を吸って生き続けていて、善人が泣きを見るような社会に私たちは生きてるってこと、「神も仏もない」ってことである。古今東西人間はその理不尽を解消するために「死後の世界」をこしらえあげて、善人は極楽へ行って、悪人は血の池地獄で苦しむというふうに考えようとしたんだと思う。だってそうでもしないと納得できないもの。

だけどレヴィナスは神や仏が「よいことをした人間には報償を、悪いことをした人間には罰を下す存在」、「正義の配分を行う存在」なんだとしたら、神や仏っていうのは人間をずいぶん幼児扱いしてるんじゃないですか、と言うのだ。(レヴィナスはユダヤ人なので「仏」のことは言ってないけど。)そして神っていうのは正しい人が苦しんでいるのを救いに来るんじゃなく、善が勝利し得ない世界における受苦を通して、「地上的不正の責任をすべておのれの身に引き受けるような人間の成熟をこそ要求する」のだと言う。内田さんはレヴィナスを解説する。

神に真に神的な威徳があるとすれば、それは「不義なるものが勝利し、義人が受難する」ような状況のもとでも、「人間が人間に対して犯した罪は人間が償う他なく、神といえども人間が人間に対して犯した罪を償うことはできない」と断言できるような、自立した人間の成立を要求したことである。

クリスチャンは「復讐」を神の領分だと考える。「自分で復讐しようとしてはいけない、復讐は神様のなさることだ」…そんなあからさまには言わないけど、「裁き」ってそういう発想だ。では「償い」はどうなんだろうか。イエス=キリストの十字架によって私の罪も他人の罪も償われたと考える点で、「償い」も神の領分としてしまっているのではないだろうか。

私にはレヴィナスと内田さんの言うことの方がしっくり来る。償いは「私」がする他はないのだ。日本人が戦時中にアジア諸国に対してしたことは、日本人自身が償うより他にない。では十字架はナンなんだと言われるかもしれないけど、十字架は「受苦」の象徴なんだと思う。他人の犯した不正は、私に苦しみをもたらす。規制緩和のせいでワーキングプアに転落した人たちとか、日本軍に踏みにじられた人たちとか、いじめられてる中学生とか。その苦しみゆえに私は「世界の不正」をヒシヒシとこの身体で感じ取るのだし、他者の苦しみをもかろうじて想像することができるんではないだろうか。そういう人間の立場に身を置くために、イエスは十字架にかかったんだと思う。

で、「世界の不正」は正されなければならない。神は世界の不正を容認してなんかいないと思う。ただ、世界の不正を正すのは神じゃなくて人間がしなければならないことだ。神が「万能の存在者」として世界の不正を正すのはある意味カンタンなことだろう。「怒りの神」は怖いから、どんなに権力を握り、威張って自己チューに振舞ってる人間だって、ひれ伏して、「ひぇ〜、ごめんなさい、もうしませんからおゆるしください」って謝るだろう。私だって子供の頃、父親に殴りつけられたときは、悪かったと思おうが思うまいがとりあえず謝ったし。だけどそれは心からの謝罪にはならないのだ。「心からの謝罪」は弱き者、権力を持たぬ者、ナメても大丈夫な相手、「謝らなくてもべつにソンしない相手」にたいして初めて行われるものだ。だからイエス・キリストは「十字架から飛び降りて自分を救う力さえも持たない無力な者」となって、「謝らなくてもべつにソンしない相手」を演じたのだと思う。

私たちが謝るべき相手は、絶大な権力を持った旧約聖書のヤハウェではなく、この十字架上のイエス・キリストだ。だからイエス・キリストを再び金キラキンに飾って礼拝しちゃっちゃ、せっかくイエスが「謝らなくてもべつにソンしない相手」を演じた意味がなくなっちゃうと思う。祭壇を飾るヒマがあったら、「いつもボーっとしているバイキンの山田君」に「おはよう」のひとつでも言ったほうがいい。自民党にテロ特措法に反対するメールを送るとか。あっめっちゃクリスチャンから反論食らいそう。。。

かまわずに続けると、「世界の不正を正す」っていうのも、ヤハウェのような権力者として恫喝して正すんじゃなくて(アメリカは恫喝してるな、イラクとかアフガニスタンとかを)、十字架上のイエスのような「不正を自分の身に受苦として引き受けているような弱き者、非力な者」として正すんである。もちろんそういう非力な者が「不正を正そう」なんてすると、ますますバカにされたり、嘲笑されたり、よけいイジメを受けたり、脅されたりすごまれたりするだろうけど、めげない。「ボクをいじめるな。いじめられるとボクは痛いんだ。ボクをいじめて喜んでるキミらの気持ちがボクは痛いんだ。」というふうに言って「不正を正す」のだ。もちろん時にはめげるけどまたヨロヨロ立ち上がるっていうのがレヴィナスのいう「人間的成熟」ってことだと思う。居丈高にもならず卑屈にもならず。


私は神さまを信じてるんでしょうか。信じてるんだと自分では思うんですけど。。。

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