キリスト者として今を生きる

風は冷たいけれど春の訪れを感じます。。。

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大人のための憲法

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日本の青空という映画を観た。
どうせ細々と自主上映して観客もまばらなんだろうなあと思って時間ギリギリに入ったら、けっこう大きい会場がほぼ満席で、「前のほうが少し空いています」なんて言われたものだからびっくりした。


で、この映画は、鈴木安蔵という在野の憲法学者が書いた憲法草案が後のGHQ案の元になったということを訴えている、つまり「押しつけ憲法」論にたいする反論でもあるのだけれど、私はそもそも「押しつけ憲法、それが何か?」というスタンスなので、GHQ案がなんの下敷きもなしに出てきたのだとしたところで、護憲派であることには変わらない。っていうかあの会場を満杯にした人たちひとりひとりもそうだったんじゃないか。「そうだったんですか、鈴木安蔵さんが書いたんですか、だったら日本人の憲法ですね、今までGHQが書いたと思ったから改定したほうがいいと思ってたんですけど、日本人が草案作ったんだったら、話は別ですね、ぜひ9条を守りましょう」なんていう日本人がいるのか?(とは言え、映画にケチをつけているわけではない。まあまあいい映画だったよ。)

上のように言う日本人がまずいないんではないか、ということは、裏返していえば、「現行憲法はGHQの押しつけだ」といって反対している人も、それが本当の反対理由ではないんじゃないか、ということだ。だいたい「押しつけだからイヤダ」っていうのは、戦後60年以上を経過していまさら言うことではない。「戦後60年以上を経過して言うことではない」っていうのはどういうことかっていうと、たとえば私たちは「おしっこはそこらへんでするもんじゃなくトイレでするもんだってことを親から幼児のときに『押しつけられた』わけだけど、その親からの『押しつけ』をいまさら問題にするオトナはいないだろう」ということだ。人生ってすべてを自主的に選択するワケではないし、私たちはいろんなことを押し付けられながらオトナになっていくワケで、そのうちあとになって「トイレでおしっこ」のように「押し付けられて当然だよな」とか、あるいは「親の決めた結婚」のように「私が望んだ相手じゃないけど、長いこと連れ添ってきて、お互いになくてはならない相手になったわ」とか、オトナはさまざまに「押しつけ」を咀嚼して豊かに成熟していくのである。

だから戦後60年も経っていまさら「押しつけ憲法」なんて言うヒトが信じられないのである。そういうヒトはトイレでおしっこをすることまでも親による「押しつけ」だった、自分はパンツを履いたまま遊びながらおしっこしたかったんだから今もそうさせるべきだって言い張るつもりだろうか。

日本人は日本国憲法公布直後、文句を言わなかった。それはGHQにさからうと怖いと思ったからだろうか。そんな告白はいまだに聞いた覚えはない。

とにかく戦後62年が経った。オトナは「押しつけか自由意志か」ということを超えて「まっとうな生き方とは何か」を考える。そして自分の考える「まっとうさ」から逸脱しているものは、たとえかつて自分が選んだにせよ、反省して軌道修正する。逆にたとえかつて押しつけられたにせよ「まっとうな」ことは「まっとうなこと」として認め、あらためて自分自身の選択とする。戦後62年というのは、それだけの考察と反省と選びなおしをするに十分な長い時間だったのではないのか。私は戦争も改憲も「まっとうではない」と思うから反対する。そして映画「日本の青空」で描かれていたように松本案が通って、かつての「大日本帝国憲法」と変わらぬものが憲法になっていたとしたら、それがたとえ日本人の手になるものであっても「まっとうに」反対したことだろう。

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性教育

今日の「道徳」は性教育の時間。中学一年生の各クラスでビデオを見せた。「男子も女子も思春期になると毛が生えてきます」「女子は月経が始まります。パンツの中が血だらけになって、驚いたら初潮でした。」「メンスのときあてがうナプキンがおしめをしているみたいで気持ち悪い、と言った人もいました」「男子は夢精をします。朝起きるとパンツの中がグショグショになっていて、恥ずかしいので家族が起きる前にこっそりパンツを洗った、という人もいます」「自分の手で性器をこすって精液を出すと気持ちがいいのに気づいた人もいるでしょう。これをマスターベーションといいます」

声変わりがしているような男子は下を向いて、ビデオをムシしていた。男女隣り合わせで坐り、蛍光灯が煌々とついている教室で、ビデオを正視して感想を真剣に綴れと言ってもそれはムリだろうと思う。性教育は自分自身が思春期に受けたときも戸惑ったし、今だってこっ恥ずかしいのである。その「恥ずかしい」という感覚は正常な感覚であり、戸惑ったりうつむいたりしてしまう感覚こそ大切にしなければならないのではないかと思う。「恥ずかしい」のは性が汚らしいもの、後ろめたいものだからではない。だけどやっぱりどうしたって性は「秘め事」なのである。「秘め事」ってなんて的確な言葉でしょう。で、その「秘め事」を蛍光灯が煌々と照らしている教室で、男女制服を着ていつもお勉強したりお弁当を食べたりしている机の前で明かされなくてはならないということに、近代のカナシサをみるのだけど、「まあこうするより他にしょーがないんだな」とも思うワケである。ほっとくと、「おねがい、私を犯して」とか「やりまん女子高生」とか「パンティ売ります」ってなことになってしまうし。

でも「明るい性教育」っていうのもそれはそれでウソがあるのだ。「じゃあ、センセイはどうやってセックスするんですか」とか「初体験はいつですか」なんて質問に、「ウン、センセイはね…」なんて三単現のsを教えるような具合にアカルく答えられるワケはないからだ。しつこいけど、このためらいと戸惑いこそ大切にしなくてはならないと思う。「なんで性は恥ずかしいと感じるのか」「なんでうつむいてしまうのか」。このギモンには学校で蛍光灯の下で「明るい性教育」を受けたところで答えを見つけることはできないし、自分の個室にカギをかけ、女の子がハダカで悶えている週刊誌をマスターベーションしながら読んだところで見つけることはできないのだ。で、当然のことながら「明るい性教育」からはみ出てしまうものがあるので、「いやあ、ナットクしたなあ。そーだったのか。よし、これからは罪悪感を感じずに、オトナになって子供をもうける準備としてマスターベーションで練習するぞ」なんて思うワケもないのである。あいかわらず性は淫靡なものであり、その淫靡さは「明るい性教育」とのあいだに埋めがたい断絶を残すのだ。


じゃあお前はどうしろと言うのかと問われるならば、私の描く理想はこうである。思春期の少年たちがある日、村の壮年たちによって強制的に集められ、獣が夜闇から襲いかかってくるかもしれない危険な森を通って洞窟に押し込められる。洞窟の中には裸のたくましい壮年たちが、焚き火の向こうに厳しい顔つきで立っている。少年たちも素っ裸になるように命じられる。夜闇と危険な獣に囲まれた洞窟の中で、焚き火に映し出された真っ黒な顔の壮年の男たちが素っ裸にされた少年たちに厳しい顔つきで「謎」を明かす。少年たちはひとりひとりマスターベーションをするように命じられる。壮年の男たちはあいかわらず厳粛な顔つきであり、冷やかしたり貶めたりする者もいない。少年たちが絶頂に達し、射精した後、壮年の男たちはこの行為が何を意味するのか、その「謎」を厳粛に語る。少年たちは固唾を呑み、炎の向こうの壮年の男たちを凝視している。この厳かな親密さの中で、少年たちは自分たちの不安を打ち明け、自由に質問することができる。洞窟を後にするとき、少年たちは告げられる。これは秘め事であり、いのちの秘密なのだから、決して他人の目に触れてはならない、そしてその快楽には危険が伴うのだということを夜闇と獣の遠吠えの只中で諭される。村の娘たちは少年たちほど危険なところへは連れて行かれないが、やはり洞窟のような非日常的空間で、母から奥義を教えられる。母はこのとき照れ笑いしてはならぬ。厳粛に、また娘への慈しみをもって、母となることの神秘と女として与えられる快楽について語るのだ。そして同じように告げられる。洞窟を出たら、このことはけっして口外してはならない。他人の目に触れてもいけない。


さて、こんな記事に誰かコメントをつけてくれるのだろうか(笑)。あっことわっておきますけど、この記事にミョーなトラバをした場合、ヨーシャなく削除させていただきます。

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奥さんはパートに子育てでクタビレ果てているのに、毎夜午前様。休日ゴルフ。子育ては奥さんにまかせっきりで家庭を顧みない。「酒を飲むのもゴルフも仕事のうちなんだよ。」「お前たちの生活のためにこうやって骨身を削って働いているんじゃないか。」

こんなリクツが通るほど甘い家庭は今ないだろう。女はコミュニケーションを求めるのだ。今の女は結婚前に会社勤めをしたことがあったり、パートで働いてたりもするから、付き合い酒の必要性も、接待ゴルフの必要性も、それなりに理解はする。しかし「会社の付き合い」という妻からは実態が見えるわけもないことを持ち出し、こう大雑把な説明で「家庭をかえりみないこと」「子育てを担わないこと」を正当化されるのは理不尽である。わりきれない。奥さんを納得させたいのなら、付き合い酒の席上でどんな話をしたのか、どんな相槌を打ったのか、愛想笑いを浮かべながらどんなふうに感じたのか、リアルに語らなくてはならない。その場面描写がリアルなら、妻は「この人はホントにイヤなのに仕事で仕方なく飲んでるんだわ。かわいそうに。ご苦労さま。」と思うだろう。コミュニケーションとはそういうものだ。

テロ特措法の目的は、
「我が国が国際的なテロリズムの防止及び根絶のための国際社会の取組に積極的かつ主体的に寄与するため」
だそうだけど、海上自衛隊のインド洋でも給油活動がどんなふうに「国際的なテロリズムの防止及び根絶」に貢献しているのかについて、夫は妻に、じゃない、政府は国民に、なんにも具体的に説明していない。これで大金が消費され、家計、じゃない、国庫は苦しくなって、生活保護を出ししぶったり母子家庭への援助を削ったり、消費税を上げようとしたりしてるけど、どうしてこれが「お前たちのため」なのか、ぜんぜん説明してない。ってか説明が大雑把すぎてナットクできない。
保坂展人議員が国会で質問したけど、答弁はあいまいだ。
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a163029.htm

テロ特措法がらみで使われたお金は2001年から2007年6月末までに約564億円。

インド洋での給油っていうと、なんてことないようだけど、この油はアフガン空爆に使われて無辜のアフガン市民を大勢殺したって聞くし、油はアフガニスタンだけじゃなくてイラクの空爆にも使われたって聞くし、給油の受注は官製談合で特定の企業だけが防衛省とつるんでトクをしているんではないかってウワサも聞く。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-11-02/2007110215_01_0.html

アフガニスタンもイラクも明るい未来がぜんぜんみえない。テレビはあるけど(ウチにはないけど)、海上自衛隊が何をやってるのか、イラクで米軍が何をやってるのか、テレビは映し出してくれない。イラクもアフガニスタンもインド洋も遠い。子育てで外出もままならない妻にとっては会社もバーもゴルフ場も遠くて、夫の行動はぜんぜんみえない。来週も接待ゴルフだっていうんなら、なんでそうまでして家庭を犠牲にする必要があるのか、説明してください、アナタ!

国民にたいする愛情と信頼の問題です。


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今日は上野公園内の国立美術館に「フィラデルフィア美術館展」を観に行った。http://www.phila2007.jp/tokyo_access.html
たまにはこういうのを観に行くんだよ。グ○○ピーさん。。。だけど混んでた。


書こうとしているのは絵の話じゃなくて、美術館へ歩いていく途中でみた異様な光景のことだ。美しい歌声に惹かれてなんだろうと耳を澄ますと、賛美歌のようだった。教会が伝道のためにストリートで賛美歌を歌う光景はたまに見かけるけど、ふと歌声の方向をみると、驚くほどの人数の人々が集まっている。ギター伴奏でマイクで歌っている前の方の人を除くと、坐っている「信者」の中で口を開けて歌っている人は多くはない。よく見ると、坐って歌う格好をしている人のほぼ全員が初老の男性である。それでこの礼拝は上野公園内のホームレスの人たちを集めた礼拝なのだとわかった。

興味が湧いたのでパンフをもらうと、「トポス上野公園教会」とあった。賛美歌とお祈りが終わると、説教になった。牧師らしき女性が話した。「寝ないでくださいと何回もお願いしました。おなかすいているよね、早く食事にしたいですよね、でもね、頭を下げていると、神様のよびかけて下さる言葉も頭の上を通り過ぎていっちゃうのよ。ここで頭を上げない人、このあとお食事はあげませんよ。」拍手するホームレスの人が二人くらいいた。他の人々は無反応だった。「あのブルーのケースの中身ばかり気になるんですか。あのブルーのケースなんてどうでもいいのよ。もちろん一生けんめい作りました。だけどあんなもの、一日でトイレに行けばなくなってしまうものなのよ。それより神様の言葉は本当の救いになる食べ物なのよ。」ホームレスの人々は何も言わず、なんの反応もみせずに、おとなしく坐って「聞いて」いた。


この光景、私はめずらしくなんのコメントもつけずにそのまま記事にすることにする。なんのコメントもできないのだ。自分自身が熱心な教会員でない私は、「伝道」ということをどう位置づけていいのかわからないのだ。だからいちいちインターホンを押して一戸一戸訪問伝道をしている「エホバの証人」なんかを「すごいな」と思い、「でもこういう伝道の仕方に『ひく』マジョリティ日本人の気持ちはわかるな」と思い、「でもそんなに石投げなくてもいいよな、大多数に嫌われて冷たくあしらわれてもこれで信者になる人が少数いるから続けてるんだろうし」とも思う。私はカトリックだけどカトリックはこういう体当たりの「捨て身」の伝道はしない。カトリックはプロテスタントに比べて信者に豊かな階層が多い(気がする。)この3月まで勤めていた丘の上にある瀟洒なお嬢さん学校では、花壇の中に白いマリア像が立ち、大理石の廊下を歩いていくと、ステンドグラスに飾られた美しい礼拝堂(カトリックでは「お御堂」という)があった。娘をこの学校に入れたことをきっかけにミサや聖書の学びに参加するようになった父兄もめずらしくなかった。裕福な家庭の奥さまで、ガーデニングなんかに精を出しながら、「わたくしはカトリック信者なんですの。娘を○○女子学園に受け入れていただいて、そこのごミサに何度か出席させていただいたのがきっかけなんだけど。よかったら一度教会へいらっしゃらない?みなさまとても気持ちのいい方ばかりよ。」と何かの拍子に誘うのは、誘いに乗るかどうかは別として、日本社会では受け入れられるんだろうと思う。そこへいくと、創価学会とかエホバの証人とかの伝道は泥臭い。ふつうのプロテスタント教会(日本基督教団とかルーテル教会とか。。。)の伝道はその中間で、ちょっと泥臭さがある。(泥臭い、はダサい、と言いかえてもよい。これも死語かもしれないけど。)

むかし「イエスの方舟」という映画をビデオで観た。ビートたけしが千石イエスを存在感たっぷりに演じていた。「子供を誘拐したカルト教団」と大騒ぎになったこの事件に別の光を当てている映画で、なかなか面白かった。「結局プロテスタントとかカトリックとかエスタブリッシュメントだと許容されるけど、そうじゃないと「いかがわしい宗教」とみられるのね。」「神父がドイツ語もヘブライ語もギリシャ語も読めて、ドイツに留学してたりして信者の中に大学教授なんかいると一応一目置かれるけど、中卒だったり牧師の資格がなかったりするとキビシイのね。」と思った。芹沢俊介も『「イエスの方舟」論』という本を書いていて、この本も面白かった。

で、結局私自身は伝道らしき伝道をしないし、このブログも「どこがキリスト者なんだよ!」状態なんだけど、世間のヒンシュクを買い、「オウム真理教」以後はとくに白い目でみられてる泥臭い伝道者たちをべつに否定はしないのである。「えらいなあ」なのかどうかはよくわからないのだけど。

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「責任」という言葉

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「自己責任」という言葉にいつも引っかかりを覚えていた。この言葉が流布したのは、高遠さんたちがイラクで人質になったとき、「イラクの現状を知っていながら政府の止めるのも聞かずに行った自分たちが悪いのに、救出のための費用に税金を使うなんて!」という非難の嵐の中だった。数年後、姉歯容疑者が設計した欠陥マンションを買った人は不運だけど、そんな安いマンションを安い安いと喜んで買った自分が悪い、自己責任だ、と知り合いの国土交通省の役人は言った。自己責任という言葉は、「人生何が起こるかわからない、選択の結果がどうなるかわからない、ひとつのことを選択するのはその選択の結果をできるかぎり見据えた上でのことであるべきであり、選択したことの結果がどうであれ、それは自分自身の責任として引き受けなくてはならないのだ」というような意味合いで使われる。たとえば結婚した翌日に配偶者が事故死してしまったり、買ったばかりのマンションが地震で倒壊してしまったりした場合にも、そんな配偶者を選んだ責任、そんな場所にマンションを買った責任は当人にある、という具合に。

発行した学級通信が保護者にどのように受け止められるかはわからない、自分の発した言葉が意図しなかったし予想もしなかったような意味に受け取られ、トラブルを起こしたとしても、それは自己責任だ、と考えて、今改めてこの言葉について考え込んでしまった。副校長の言うように、たしかに言葉は独り歩きする。こちらが意図したようには言葉を受け取らない読者もいるのだ。その反応のすべてを予測し、トラブルのないようにと考えれば、黙り込むしかない。あるいはけっして言葉尻をとられないようなあたりさわりのない言葉を連ねるしか。学校が「責任」を取らされる時代だから、言葉にも慎重でなくてはならないのだ。

「責任」という言葉は本来そういう意味だったのだろうか。「責任」は英語でresponsibilityすなわちresponse(応答)のability(能力)である。神の呼びかけにたいして応答する能力、というのがresponsibility(責任)という言葉の本来の意味だったのだ。神の呼びかけは私が望んだことではないし、選んだことではない。しかし呼びかけられた以上、応答する責任があるのだ。いや、応答できる存在であるからこそ、人間はいかに生きるかということに責任を担うのである、と。

responsibility(責任)は、この言葉の本来の意味合いにおいて、私たちが世界にたったひとりで投げ出され、孤独のうちに「負う」ものではない。呼びかける者があり、その呼びかけにたいして応えるという関係性の構築こそが「責任」である。私たちと関係を持とうとする者があり、そのオファーを引き受けることが「責任」なのである。したがって孤独のうちに放り出されている者には「責任」はない。手を差しのべられ、愛されているからこそ、またその愛に応えうる存在と期待されているからこそ、「責任」が生じるのである。

責任をとらされることを怖れて、なるべくかかわりを持つまいとする風潮を見るにつけ、responsibilityについて考える。責任は本来応答であり、言葉もまた本来、対話であった。ソクラテスもイエスも書き言葉を自分自身では残さなかった。生きた具体的な関係の中でのみ言葉を発した。言葉が通じなさそうな相手には、イエスは比喩でのみ語った。「誰が読むかわからない言葉」と「生きた関係性や文脈から切り取られた言葉」には責任の取りようがない。

「自己責任」「学校の責任」、なんだかつらくなる言葉だ。責任を引き受けることがお互いのかかわりを深め、対話を深めていくような、そんな社会にしていくにはどうしたらいいのだろう。

※高遠さんたちは、イラクの人々からの呼びかけに応えたのかもしれない、人質になった高遠さんたちを「自己責任」という言葉で切り捨てようとした多くの日本人の方こそ、他者と世界への関心を閉ざし、呼びかけに対する応答を怠ったという意味で、「責任」を放棄したのではないかとも考える。

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