キリスト者として今を生きる

風は冷たいけれど春の訪れを感じます。。。

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テロ特措法と心の風景

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頭が痛くなってきた。どうにも入り込めない映画なのだ。「パイレーツ・オブ・カリビアン」。学校祭でクラスの生徒たちがこれをアレンジしたものを上演するというので、2巻のDVDを借りて観たけど、何が面白いのかわからない。しかしこの映画はメガ・ヒットで、ほとんどの子が映画館かDVDで観ているのだ。海賊が、呪いを解くために冒険をしたり、深海の魔物と闘ったりするのだけれど。ゲームにまでなってるらしい。

同じ冒険物でもミヒャエル・エンデ原作の『はてしない物語』やル・グウィン原作の『ゲド戦記』には、冒険を通じて子供が成長していくというテーマがあった。『ゲド戦記』は魔法使いの修行をする高慢な若者ハイタカことゲドが自分の高慢さから「影」をこの世界に招き入れてしまい、「影」に追われて世界の果てまで逃げていく。「影」をやっつけるためには、「影」の「ほんとうの名前」を言い当てなくてはならない。ゲドは世界の果てまで逃げて影と向き合ったとき、「影」のほんとうの名前を知る。「ゲド!」…その瞬間、影はゲドと一体になり、戦いは終わる。

私は『ゲド戦記』を読み直して、高慢な若者ゲドは、「テロリスト」と戦うアメリカではないかと思った。アメリカが「テロリスト」の本当の名前を言い当てたとき、戦いは終わるだろう。「The United States of America!」と。そのとき、「影」である「テロリスト」とアメリカは一体となり、戦いは終わるだろう。

『パイレーツ・オブ・カリビアン』では深海の魔物デイヴィ・ジョーンズはあくまで「他者」であり、軟体動物の姿をした化け物なのだ。だからデイヴィ・ジョーンズの心臓に剣を突き刺すことを海賊ジャック・スパローはためらわない。いつでもすぐに剣を抜き、戦闘シーンが始まる。

デイヴィ・ジョーンズを北朝鮮やイラクに置き換えてみれば、ジャック・スパローに扮した子供たちはすぐに剣を抜いてしまうのかもしれない。「テロ特措法」は子供たちの心の風景に違和感なく収まってしまうのだろうか。子供はかつて、遊びを通して他者を知り、他者との関係を築いていく練習をしたのではなかったのだろうか。ゲーム機でめいめいに遊んでいる子供たちは何を学んでいるのだろうか。

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みたことはない。TVでなんかのお笑い芸人が流行らせたんだろうけど、ウチにはTVがないから。でもなんか流行ってるらしいということは、中学生がよく口にするので、わかった。で、このセリフを口にするときの子どもたちがイヤなのだ。(あっあともう一つ、ブログの「アラシ」がこのセリフをよく「ターゲットブログ」に貼り付けてる。)「他人の目なんか関係ない。ボクはボクで自分でやりたいと思ったことをする。自分の人生なんだもの」なんていう決意はそこにはない。コミュニケーションの遮断であり、排泄物を撒き散らすような言い方である。「オッパッピー」がヒトをコバカにしている。

きのうの朝も教室の黒板にこの言葉がラクガキされていたので、私は怒った。「これを書いたのは誰ですか!このラクガキを書き逃げして日直に消させるつもり?」それでも名乗り出なかったけど、二人の男の子が「ボクじゃないけどボクが消します」といって前に出てきてさっと消した。かろうじて「世も末」ではない。

「オッパッピー」の処理を学校はしなくてはならない。子供は親の背中を見て育つというけど、「子育て」に一番関わっているのはテレビなんじゃないだろうか。子供たちをみていると誰に一番似ているかというと今のマスコミに似ていると思わずにはいられない。空気を読み、フクザツな問題を単純な犯人探しに還元し、自分のことは棚上げして叩けそうな奴を徹底的に叩く。相撲ファンだった私はかつてマスコミがどんなに若貴兄弟とその親子を「理想の一家」にまつり上げたかを覚えている。亀田のことはよく知らないけど。まつり上げた自分も世の中を混乱させたのではないかなんて微塵も反省しない。「でもそんなのカンケイない、オッパッピー♪」

誰でもそれぞれ非はあるんですよ、自分だってそうでしょう?それぞれに難しい当事者の悩みだってあるんだし。だから軽々に他人を非難しないで、目の前の教室掃除をしましょうよ。とりあえず「オッパッピー」を消して、ゴミを拾おう。

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べろ出しチョンマ

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中学校の教室では、授業中に男の子が天井から机の上に降ってきた。休み時間に破れた天井板から天井へ上り、天井裏を駆けずり回って、授業が始まってもそのまま遊んでて、天井板を突き抜けて授業中「降って」きたのだ。腰壁の板も破れていて、壁の穴に飲み残しの牛乳の瓶を(前に返しに行くのがメンドーなので)、ぶっこんで、そのうちヘンな臭いがするので壁板をベリベリはがしてみたら、ウジがゾロゾロ出てきた。ウジを見たのは初めてだった。気の強い女の先生の国語の授業は誰も聞いていなかった。「静かにしなさい!授業を聞いている子に迷惑でしょう?!」と先生がどなったら、「誰も聞いてネエよ!」と男の子たちが吼えた。「starさんが聞いてるでしょ?!」と先生がどなった。(あんまりうれしくなかった。。。)2年生のときの担任の先生は初任で「小林先生」という名前だった。「コバヤシ」をみんな「ケバヤシ」、略して「ケバ」と呼んでいた。女の子たちは、休み時間や放課後に校舎の裏に集まって、シモネタ話をした。セックスをして子供ができちゃって堕ろした子のウワサをみんな興味津々で聞いてた。胸が大きくなり始めた女の子たちは、「ケバ」に「胸、さわりたい?」と胸を突き出して挑発していた。(ちなみに高校は女子高だったが、遅刻した子は遅刻理由をすべて「生理痛」で押し通していた。「生理よ、生理!そんなこと言わせるの?!」先生がもし記録を取っていたら、生徒たちの大多数がずいぶん「生理不順」だということになっただろう。10月2日も生理。15日も30日も生理…笑)

中学校の教師になりたいとはこれっぽっちも思わなかった。小学校はたのしかった。ドラエモンの「ジャイアン」そっくりの乱暴な男の子(顔はオバQに似ていた)を先生は「ひいき」した。「ジャイアン」は先生に心を開き、そのうちクラスの友だちにも心を開くようになって、落ちついていった。先生は子供たちに「百姓一揆」の寸劇をやらせた。子供たちはドングリを拾って「悪代官」にぶつける寸劇をしてたのしんだ。ドングリを投げつけるのが楽しかったんだけど、「先生は抑圧されている民衆の気持ちを想像させたいんだなあ」と子供ながらに「先生の気持ち」をどっかで感じとっていた。ベトナム戦争の話もしてくれた。ベトナム戦争でベトナム人の首を持って笑っている米兵の写真をみせてくれた。先生は初任で、いっぱい「空回り」してたけど、「先生はこんなことを伝えようと必死なんだなあ」ということは子供ながらに感じ取っていた。初任で不器用で「上手くない」先生だったけど、「先生の心」を感じた。

そんな小学校を卒業して入った中学校で、「心」はどこかへ行ってしまっていた。子供ながらにこまやかな心の交流をしていた友達が変わってしまったように感じた。「リーゼント」で学ランの下に赤いTシャツを着た男の子は私のことを「お嬢さん」と言って「いじめ」た。手出しをするわけではなかったけれど「お嬢さん」と何かにつけて言われるのがイヤでたまらなかった。教室でひとりで本を読んでいると「お嬢さん」と言うのだ。「朝鮮人!」とも言った。私は朝鮮人ではなかった。また在日韓国・朝鮮人が日本社会で差別されていることも中学生の私は知らなかった。卒業して、私をそういっていじめた男の子自身が在日朝鮮人であったことを知った。F君。

大人になって教師になってから、この母校の中学校を訪れ、F君と私の担任だったベテランの先生と話をした。「私はF君にいじめられたんですよ」…そう言ったら、元担任の先生は言った。「Fはオレには従ったんだ」


「Fはオレには従ったんだ」…今、自分自身が中学教師になってみて、何度も思い返す言葉である。
それが中学生だった私にとって一体なんだったというのだろう。。「Fはオレには従った」。クラスを掌握し、悪ガキどもも静かにさせておくことのできる力量のあるベテラン教師。生徒にバカにされ「ケバ」と呼ばせてしまったり、「誰も聞いてネエよ!」と生徒たちに吼えさせたり、をゆるさない「力量のある」教師。

それが私にとって何だったというのだろう。中学生たちは教師によって態度を変えた。友達によって態度を変えた。空気を読み、力ある者についた。そのこと自体がイヤだった。

小学校のときの担任の先生は『べろ出しチョンマ』という童話を読み聞かせて下さった。教頭先生も自習の時間、有島武郎の『ひと房のぶどう』という本を読み聞かせて下さった。虐げられる者のかなしさ、持たざる者のせつなさ…子供は子供なりにそんなこまやかな感情さえ理解することができるのだ。そして他人の痛みを想像し、自分の心を耕すことだって、子供にはできるのだ。でも中学校の三年間、「心」はどこへ行ってしまっていたのだろう、と今不思議な縁で中学校教師になってしまった私は過去を振り返って思うのだ。


みなさまの中学校時代はどんなでしたか。よかったら教えてください。

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「風吹けば桶屋がもうかる」じゃないけど、

問題:石油の値段が高くなったので、パンの値段も高くなった。どうしてか説明しなさい。


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答え:ガソリンの価格が高騰したので、ガソリンに代わる燃料であるバイオエタノールへの需要が増した。バイオエタノールはトウモロコシを原料にしている。「トウモロコシはもうかる」というんで、今までパンのための小麦を作っていた農家が、バイオエタノールのためのトウモロコシ生産に切り替えた。で、小麦の供給が減り、パンの値段が高くなった。それから豚肉の値段も高くなる。どうしてかっていうと、豚の飼料はトウモロコシで、バイオエタノール人気でトウモロコシの値段自体が上がってるから。

バイエオタノールってなんだ?「週刊こどもニュース」がわかりやすい。
http://www.nhk.or.jp/kdns/nattoku/06/0923.html


小麦・原油高騰、食卓に波及 即席麺やファミレス値上げ
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/econpolicy/82617/
家計痛撃!今後も続く食料品などの値上げ
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/business/retail/75468/



きのう銭湯で、「食料輸入に依存するのは良いことか悪いことか」って討論番組をみてた。どうして銭湯かっていうと、ウチにはテレビがないから。お風呂はあるけど。風呂上りに銭湯のソファに坐って、フルーツジュース飲みながら、ずーっとみてたら、番台のおじちゃんに途中で野球放送にチャンネル切り換えられちゃったんで、おしまいまでは見てない。


で、湯上りポカポカのアタマで「う〜むむむむ。。。」と思ったことは、「食糧自給率の低下は食糧安全保障上好ましくない」でも「国土保全のために国内農業は守らなくてはいかん!」でも「今後中国が食糧輸入国になったら世界で食の奪い合いになるのでは?」でもない。


この討論番組は農民とか商社とか主婦とかがパネラーとして出演し、それぞれに賛成・反対意見を述べあうんだけど、「視聴者のみなさまも電話で賛成か反対かご意見をお寄せください。ケータイからも受け付けてます」とかで、「視聴者のみなさま」の賛否がそのつど数字で画面に映し出されるのだ。で、番台のおじちゃんに「お客さん〜、いつまでダラダラいるんですか、そろそろ帰ってくださいよ〜」と野球放送に切り替えられちゃたとこでは、食料輸入に依存することは

良いことである…800なん人。
悪いことである…6000なん人。

この数字をみただけで、この討論番組が意味ないってことがわかる。(「そんならなんで湯上りでダラダラみてるんですか〜、お客さん〜」←番台のおじちゃんの声)

食糧自給率が40パーセントを切り、多くの食糧を輸入に頼っていることの問題点をいくら挙げたって、意味はないのだ。だってすでにこの状態を「よくない」としている人は「いいんじゃない?」と言っている人の7倍か8倍いるんだから。モンダイは、「よくない」って思ってる国民がこんなにいるのに、それでも食糧を輸入に頼るのがやめられないのはどうしてかということじゃないんだろうか。



経済は民意では動かない。ディベートでも動かない。
経済は「最大の利潤を上げる」という本来のゴールをめざして回転する。「食料輸入はよいことだ」と答えたパネラーの商社マンが言ってたことがすべてを表している。「私も国内の生産者にがんばってもらいたいと思っています。だけど現状では食糧を輸入に頼らざるをえません。しかたがありません。」…「しかたがない」は「よいことだ」の理由にはぜんぜんならないし、「しかたがない」から「よいことだ」にはならないけど、

「食料の輸入依存はよくないこと」にもかかわらず、そうならざるをえないのはなぜなのか

ということは真剣に考えなくちゃいけないんじゃないか。そしてそれを考えて、「営利追求」という経済の本質を踏まえたうえで、「風吹けば桶屋がもうかる」の風向きを調節するのが政治の役目だ。


環境保護とCO2排出削減をいくら訴えたところで、企業は環境を守るために営利追求を控えようなんて思わないだろう。「わが社は環境にやさしい製品作りをこころがけています」「障害者を積極的に雇用しています」とかいっても企業のイメージアップが最大のねらいである。コンビニやファミレス、スーパーの賞味期限切れ食品の廃棄は、国内食物生産量と同じくらいの量にのぼるそうだけど、それがどんなにもったいなくても、「余って棄てるのはバチ当りなので、少なめに作りました。だからお客さん、ごめんねえ。。。今品切れなんですぅ」なんてコンビニが言うわけない。そんな中でバイオエタノールとハイブリットカーは、「営利追求」と「環境保護」を両立させられる魔法の杖だったので、企業はみんな飛びついたのだ。


それを非難するのだったら「資本主義の転覆」しかない。企業は営利で動く。
消費者は何で動いているのかな。「安くて安全で高品質の品物」を求めて動く。

ムリないじゃない?そして企業と消費者がそういう原理で動くのだとしたら、「風吹けば」のもとの「風」のところをONにしたりOFFにしたり向きを変えたりするのが政治の役目だ。輸入食品が国内食品の3分の1の値段だったとき、それでも国内食品を選ぶのはかなりの意志と努力を要する。討論番組で「食糧を海外輸入に依存しすぎるのはよくない」に手を挙げたとしても、輸入カボチャが100円で、国内産カボチャが350円だったら、やっぱり100円のほうに手を伸ばしてしまうのだ。若干の後ろめたさを感じながら。。。だから外国産の食料に関税をかける(元の風のところをいじる)ような、政治の介入が必要なのだ。「電化製品が壊れたら、修理代のほうが新製品を買うより高くても、ゴミを出さないように修理して使うようにする。修理しても直らなくて修理代だけムダに取られちゃうかもしれないけど、環境のほうが大切だからそうする」なんてことができるのは一体何パーセントの消費者だろう。「もったいない」なんていくらキャンペーンしたって。だから修理代のほうが新製品購入より安くなるように「元の風のところを調節する」のが政治の役目なのだ。


そういう政治の本来の役目を放棄して、「規制緩和」で「市場の自由」にすべてをゆだね、「環境保護」を企業責任と消費者の意識に丸投げしている政治家は、なまけものなんじゃないだろうか。「リサイクル」「ゴミの量を減らしましょう」…そんな標語をつくることが政治家の役目だろうか。「美しい国づくり」で「わが国の良さ、素晴らしさを国民が再認識する機会を作る」ことなんかが政治家の役目だろうか。(このくだらない会議のために、たった2回の会合に4900万円を使ったそうだ。)
http://blogs.yahoo.co.jp/jinne_lou/51598214.html


食糧を海外に依存しすぎている現状はよくない、と日本のほとんどの人が感じている。
環境は守らなくちゃいけない、と世界のほとんどの人が思ってる。

だのに「歯車」を止められないのはなぜなのか。「意識がまだまだ低いからだ」なんてことで済まさないでほしい。「子供たちにもっと環境教育をほどこせば変わるはずだ」なんてごまかさないでほしい。中学校では夏休みの宿題に、子供たちに「環境保護のたいせつさ」をうったえるポスターや作文をかかせたけど、冬休みの宿題にも春休みの宿題にもかかせたら、CO2の排出量は減るのか。子供たちのポスターを街中に貼ったら、コンビニやファミレスのゴミ廃棄量が減るのか。


あたりさわりのないことで誤魔化すのはいいかげんにやめて、政治家は本来のお仕事をしてください。

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ご報告。
「めっきり寒くなった」の「めっきり」って言葉聞いたことある人?!

今日、中学一年の教室で手を挙げさせてみた。誰も手を挙げなかった。「じゃあそんな言葉聞いたたことない人?!」って言ったら、クラス全員が手を挙げた。

「めっきり」は死語だった。。。

お宅のお子さんはいかがでしょう?

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