キリスト者として今を生きる

風は冷たいけれど春の訪れを感じます。。。

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「めっきり寒くなった」「めっきり髪の毛が薄くなった」「めっきり痩せた」「めっきり弱った」

「めっきり暑くなった」「めっきり髪の毛が増えた」「めっきり太った」「めっきり元気になった」とは言わない。

「めっきり」って英語でなんていうんだっけ?と和英辞典を調べたら、very much,
a lot, remarkably(目だって)と出ていた。ようするに英語には訳せない言葉なんですね。


ところで「めっきり」って言葉を使うのはどのくらいの世代までなんだろう?あした学校へ行ったら生徒に尋ねてみよう。「めっきり」って言葉知ってる?


日本語を勉強している外国人に、「日本語ってハズカシイですネ」と言われて、「えっ?!」と聞き返したら、彼は「日本語ってムズカシイですネ」と言おうとしたのだった。「はずかしい」と「むずかしい」たしかに似ている。日本語ってむずかしい。。。

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内田樹は面白い

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内田樹(うちだ たつる)は面白い。この人は団塊のしっぽの方の世代で、当時サヨクからもウヨクからも嫌われたらしい。わかる気がする。このところこの人の本を読みあさっていて、『下流志向〜学ばない子どもたち、働かない若者たち〜』、『14歳の子を持つ親たちへ』、『狼少年のパラドクス』につづき、『「おじさん」的思考』を読み始めた。

サヨクからもウヨクからも支持されないだろうな、ある意味わかりやすいんだけど、このわかりやすさって「わかりづらい」んだろうな、と思うような憲法9条擁護論を展開している。




改憲論者たちは9条を「空論」だという。だから、
「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」を廃して、
「日本は陸海空軍を有し、自衛のため、国連安保理事会の議決にしたがって、武力を行使することができる」
というふうに変えようとしているけれど、
それって「人を殺さなければならない場合がある」
から「人を殺してもよい条件」をあらかじめ定めておきましょうよ
というのとおんなじだ、とウチダは言ってる。

で、改憲論者は「現に戦争が行われており、自衛の必要がある」から「戦争は必要ならばしてもよい」と主張している。そして、「もしどこかの国が侵略してきたらどうするのだ」と脅し、憲法9条は「空論」だから戦力の行使を認めろ、という。
それは
刑法199条があるにもかかわらず、毎日のように日本では殺人事件が起きていて、つまり刑法199条は「空論」だから、市民は銃器で武装すべきだと主張するのと同じロジックだ、とウチダは言ってる。

彼らもそんな愚かな主張はしないだろう。
改憲論者だって、市民が全員武装することによって新たに生じる危難の方がいま起きている危難より多い、ということくらいは予測できるからである。
だからこそ刑法199条が「空論」でないのと同じように、憲法9条は「空論」ではない。

憲法9条は「戦争をさせないため」に制定されている。
なぜなら「人間はほうっておけば必ず戦争をする」からである。


ここから先は護憲派が同意しかねる部分かもしれない。
「武は不祥の器也」。これは老子の言葉である。
武力は、「それが汚れたものであるから、決して使ってはいけない」という封印とともにある。それが武の本来的なあり方である。「封印されてある」ことのうちに「武」の本質は存するのである。「大義名分つきで堂々と使える武力」などというものは老子の定義に照らせば、「武力」ではない。ただの「暴力」である。

私は改憲論者より老子の方が知性において勝っていると考えている。それゆえ、その教えに従って、「正当性が認められていない」ことこそが自衛隊の正統性を担保するだろうと考えるのである。

自衛隊は「戦争ができない軍隊」である。この「戦争をしないはずの軍隊」が莫大な国家予算を費やして近代的な軍事力を備えることに国民があまり反対しないのは、憲法9条の「重し」が利いているからである。憲法9条の「封印」が自衛隊に「武の正統性」を保証しているからである。

改憲論者は憲法9条が自衛隊の正統性を傷つけていると主張している。
私はこの主張を退ける。逆に憲法9条こそが自衛隊の正統性を根拠づけていると私は考えている。


どうですか、このヒト。ウヨクからもサヨクからも嫌われるんだろうなあ、いまだに。
でもワタシ、キライじゃありません。。。

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空気を読む力を数値で判定するテストに一喜一憂

「空気読み力テスト」が話題となっている。これは、最近「空気嫁」や「KY」などのことばが様々な場所で取り沙汰されることを受け開発されたテスト。どれぐらい空気を読むスキルがあるか、もしくは「空気読めない」かを知ることができるのだ。(略) 判定ページに移ると「空気読み力」を構成する5つの要素??「空気支配力」「人間洞察力」「文脈把握力」「会話柔軟力」「TPO力」をレーダーチャートで教えてくれる。そして、総合店である「空気読み力」を「69(Aクラス/一般人)」「34(Bクラス/軽度KY(空気読めない))などを明らかにしてくれる。/このテスト結果をブログで報告する人たちは「軽度ということはまぁまぁ空気読めてるってことでしょうか」「軽度でよかった(ノ´▽`)ノ」「予想通り でも、ときどきみんなの輪に入っていけなくなるときがあります(ノ_<。)うっうっうっ」など、様々な感想を述べている。(以下略)

http://netallica.yahoo.co.jp/news/12399


「安倍KY内閣」なんて命名もあったりして今年の流行語大賞にも選ばれそうな「KY」ですが、私はどうもこの「空気を読めよ」「空気が読めない奴だな」のような物言いが嫌で嫌でたまらない。最近は小学生でも平気で使うらしいけど、そんな言葉が飛び交うクラスはあまり想像したくありません。

たしかに、いわゆる「空気を読む」という能力があったほうが、さまざまな場面で便利であり、生きやすいんでしょう。ただ近年では、それが「社会を生きるうえで必要な能力」として、一般化して語られる傾向がある。それが無条件に「正しいもの」とされるようになってきている。
しかしながらそれは、言語の本質であるロゴスによって正しい判断を導くという作業なしに、単に場を支配する「空気」に合わせて行動したり発言したりすることを強制することにつながりやすいと思います。

もともとこうした傾向が日本の精神的風土に根強いことは、“偽ユダヤ人”イザヤ・ベンダサンこと山本七平が『「空気」の研究』(文春文庫)の中で詳細に指摘しているし、“うるさい日本の私”こと中島義道らによっても繰り返し論じられています。しかしそれらのように「空気を読む」という行為を相対化することなしに、善であることを前提にしているのが昨今の風潮。

思えば、2年前の「郵政選挙」は「民営化に反対する者は守旧派」とのレッテルが貼られる中で、空疎な祭りの「空気」に浮かされて与党が肥大化した異常事態でした。
同様のことは、現在も進行中。光市母子殺害事件裁判の報道では、事件の実態を最初から洗い直して事実を明らかにしようとする弁護側に対し、異常なまでのバッシングが展開されました。それを情緒的に後押しするのが、世間の「空気」。

弁護団に対して「一審の主張を覆して、今さら勝手なことを言っているのは許せない」などと批判する人のうちどれだけが、たとえば「旧一審の被告人質問の記録をいま見ると、彼は『(被害者の)家にも上げてもらえるとはまったく思っていませんでした』あるいは『大声を出されて何とか静かにしてもらおうと思っていたら首を絞める羽目になりました』と、いま(検察から)事実認定されていることとは違う事実を言っている」(今枝弁護士)、「もうすでにはっきりしていると思うが検察が主張するような事実は(被害者の)遺体にはないんですよ。それはおそらく今後の法医鑑定で明らかになってくるだろうと思いますし、私からすると一審の記録の中にもすでにあった」(安田弁護士)のような、事実に基づく弁護側の主張について検討しているのか。
しかしTVの報道番組などが「世間の空気が読めない」報道を行えば、面倒な事態になるのは目に見えています。かくして「世間の空気を読んだ」報道ばかりがあふれ返った結果、一体どんなことになっていくか。

正誤や善悪に対する個人としての判断よりも先に、「空気」を重視しようとする風潮は恐ろしいと思います。

KYで何が悪い!!

転載元転載元: 半哲学的談笑

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やっとこさ出した前期の英語の成績に、保護者からクレームがついた。「無理ないよなあ。私が親でもクレームをつけるよなあ。」と思うクレームである。「中間テスト99点、期末テスト100点でどうして4なのか納得いきません。」…私も納得がいかない。でもそうなってしまうのである。

どうしてそうなってしまうかというと、公立中学校は今、「観点別評価」というもので総合成績を出しているからである。「ペーパーテストの点だけで成績をつけるのはやめましょう。ペーパーテストの成績が悪くても意欲や関心のある子はいるし、一生けんめいがんばっている子もいる。授業中積極的に発言する子もいる。そうした色々な面を多角的に見て、総合的に成績をつけましょう。」ということで、評価を4つの観点から行い、その4観点の総合で成績をつけるのだ。英語でいうと、「関心・意欲・態度」「表現」「内容理解」「言語・文化」である。テストの成績がモロ反映するのはそのうち2観点だけだから、3455だったら成績「4」になってしまうのだ。

そしてまたこれが重要なことなのだけれど、このように保護者からクレームや質問が出た場合に備えて、それぞれの評価は「主観的」であってはならず、「客観的」にあとから説明できるものでなければならない。(ある生徒がたまたま気に入らないからといって「関心・意欲・態度」に悪い点をつけることはゆるされない。)

満点に近い点を取った彼は、ノートを提出していなかった。授業中は真面目にやっているが特に手を挙げて積極的に発言するという性格でもない。それで「関心・意欲・態度」が5段階評価で3だったのだ。伺いたいのだが、「関心・意欲・態度」なんてどう「客観的」に数字化するのだ?「客観的な評価」が不能なので、「ノート提出」という外側に見える形のもので仕方なく点をつけることにした。(ってか先輩教員たちもそうしている。)そのほかに「発言カード」というものを作り、授業中の発言回数をつけて「発言」を成績にカウントしている教師もいる。(といっても、そんなこと授業者が授業をしながらいちいち記載できるはずもないので、カードを生徒に渡して、自分が1回発言するたびに○を1個つけさせる。いかさまをしてももちろんわからない。)私はさすがに気が乗らないので、これはやらない。「印象」で「なんかいっぱい発言してた気がする」でプラス点を上乗せしてる、これだけは。

で、彼はテストがほとんど満点だったのに、「4」になってしまった。ノートを提出しなかったのとあんまりモノを言わなかったせいで。だいたい満点を取っているのだから、教師の命じたとおりのやり方でノート整理なんかしなくたって、理解しているのである。それで満点を取ったのだからノート整理は不要なのである。ノートに書かなくたって彼の頭の中に全て納まっているのである。だから彼の場合、ノートを提出しなくても「よし」にしようかな、と実はずいぶん迷った。しかしそうすると「評価の客観性」が崩れる。

だいたい「関心」と「意欲」がなくては満点なんて取れるものではない。発言が少なかろうが声が小さかろうがノートがどうだろうが、彼が「関心」をもって「意欲的」に勉強したであろうことはテストの点が証明している。しかしそれは「別観点」なのだ。「テストの点で関心や意欲は測れない」から。

もっと「実態を反映した評価材料」を用いれば、「適正な評価」ができたのだろうか。そうかもしれないけど、ものすごい労力がかかる。週たった3時間の英語の授業で、どうやってそんな「多角的な評価」ができるというのだ?「多角的」かつ「総合的」かつ「客観的」な評価が。

これまで勤めた私立の場合はじつにカンタンだった。定期テストの点だけをエクセルにぶちこみ、中間テストと期末テストの点を合わせて平均し、その平均点で「90点以上は5」「80点以上は4」とか自動的につけていた。小テストや単語テストは毎週やっていたが、いっさい成績には加えない。授業態度も加えない。発言も加えない。ノート提出はさせるけど、成績には加えない。みごとに「ペーパーテストの点だけで」成績をつけていた。そういうシステムだった。観点別評価は文科省の命令なので、いちおう文科省提出用にざっとつけるけど、完ぺきツジツマ合わせで、30分くらいでチョロっとつけてた。ペーパーテストの点をもとにつけた成績が5だった子に観点別評価のAをテキトーに振り分けてつけてた。かんぺき文科省提出向け。教師も生徒も「観点別評価」なんて気にしていなかった。テストがすべて。

「ペーパーテストの点だけで関心や意欲は測れない」「ペーパーテストの点だけで人間性は測れない」

では伺いたいのですが、どうやって人間性を測るのですか。

「どうしてウチの子の人間性が3なんですか?」…そう保護者から突っ込まれた場合に備えて、「説明可能な客観的な評価材料と評価基準を用意しろ」と文科省は言うんだろうか。「道徳」の教科化ってそういうことだ。

子供たち若者たちの色々な側面を「多角的に」「総合的に」かつ「客観的に」評価しようとなると、教師はエラく大変で、そのあげく何だかワケがわからなくて、こんだけ苦労してるのに子供にも保護者にもなんだか不満なことになる。

「成績はペーパーテストの点だけでつけるけど、ペーパーテストの点だけで、キミの全てが測られるわけじゃない。だからよくても悪くてもそう気にするな。」おしまい。

じゃダメなんだろうか。。。。

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シッコ

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HPはこちらhttp://sicko.gyao.jp/

話題の映画『シッコ』を観た。

ボウリング・フォー・コロンバイン』、『華氏911』に続くマイケル・ムーアの新作ドキュメンタリー。アメリカの医療制度をムーアが笑いとともに鋭く突く。
なんとアメリカの健康保険充実度は世界37位、泣く子もだまる超大国が、先進国中最下位だ!!

先進国で唯一国民健康保険制度のないアメリカ。6人に1人が無保険で、毎年1.8万人が治療を受けられずに死んでいく。しかし、『シッコ』はちゃんと保険に入っている人々についての映画だ。

アメリカの医療保険の大半はHMO(健康維持機構)という、民間の保険会社が医師に給料を支払って管理するシステム。
保険会社は、治療は不必要と診断した医者には、「(無駄な)支出を減らした」という旨の奨励金を与え、加入者には何かと理由をつけて保険金を払わない。さらに多額の献金で政治家を操り、都合のいい法律を作らせる。そんな政治家たちは公的医療保険を求める動きに対して、「国による健保の管理は社会主義への一歩だ!」と完全につぶれるまで恫喝する。結局、国民は、高い保険料を払っても、一度大病を患えば、治療費が支払われずに、病死か破産だ。
「I am sick of it!(もう沢山だ!)」とムーアは叫ぶ。

ムーアの批判精神とユーモアが炸裂する映画。仕事中に事故で指2本を切断された中年の大工。健康保険を持っていない彼に、医師は聞く。「薬指をくっつけるのは1.2万ドル。中指は6万ドル。どっちにしますか。」大工は安いほうの薬指を選ぶが、ムーアはユーモアを忘れない。「彼はロマンチストだったので、エンゲージリングをはめる薬指を選んだ。」


治療費を払えないからといって、寝巻きのまま路上に文字どおり棄てられる患者。

医療保険を民間にゆだねるとどうなるか。民間保険会社は利益を上げることが最大の目的だから、保険料を払わなくてもすむよう、徹底的に努力するのだ。たいしたことない既往症を(たいしたことない上、治療済みだ)申告し忘れていたとすると、「病歴を隠していた」と難癖をつけ、金を払わない。「その治療は必要ない」と言い張ってまたしても金を払わない。

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秀逸なのは、ムーアがグアンタナモ基地に拡声器を持ってボートで出かけていくところ。あんなにヒーロー扱いされた9.11のボランティアの救助隊員たちは今、塵埃を吸った後遺症で重い症状に苦しんでいる。その手当てすら国はしていないのだ。ムーアは彼らをボートでグアンタナモ基地の傍まで連れて行く。なぜならグアンタナモ基地はアメリカで唯一タダで治療が受けられ、そこに収監されている囚人はその恩恵にあずかっているからだ。「9.11の英雄に容疑者たちと同じ治療を受けさせてくれ!」とムーアは叫ぶ。



これは他人事か?

·マイケル・ムーアはインタビューで『日本の医療制度はすばらしい、だが、政府はそれをつぶそうとしている』と発言している。 
·リスクが高く診療報酬の低い小児科や産婦人科には医者のなり手がなく、急患患者のたらい回しが起こっている。
·郵政民営化で、アメリカ資本と日本政府はグルになり、国民の汗と涙の結晶である郵貯と簡保の345兆円が外資に流れる。
·来年4月から「後期高齢者医療保険制度」が実施される。「年寄りは死ねと言うのか」と怒りも炸裂している。
後期高齢者医療保険制度については中日新聞 http://www.chunichi.co.jp/article/living/health/CK2007091402048665.html


もっとも、ムーアの主張に100パーセント同意するわけではない。カナダやフランス、イギリスの医療制度のいいところばかりをクローズアップしているけど、これらの国の医療制度に問題はないのか。医療技術がこれだけ進歩してかつての「不治の病」すら治せるようになった今、「そういう治療を国民全員にタダで受けさせろ」と要求するのもいかがなものか。入院病棟を訪れると、入院患者のほとんどは高齢者だ。老人ホームより病院の方が安いし、自宅で面倒を看る手間が省けるから、追い出されるまで入院させておこうと家族は思うらしい。「延命治療」は胃に穴を開けてチューブでつなぎ、人間を何年でも(ってのは大げさだろうが)生きながらえさせることができる。健康保険で?

医療制度がパンクしているのはたしかだろう。しかしパンクしたから民間に丸投げ、とか一律保険料アップとかは乱暴すぎるだろう。セーフティ・ネットとはネットワークだ。国民がどこまでお互いに助け合っていけるかが基本であり、相手を助けるとは自分の欲望を多少なりとも抑えるということだ。こら、酒をしたたか飲んでいながら、痛風の薬をもらうんじゃない!(どっかの誰かさんへ)

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