キリスト者として今を生きる

風は冷たいけれど春の訪れを感じます。。。

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 教会に行くことが苦痛になりだしたのは、イラク戦争が起こってからでした。「テロに対する正義の勝

利」をブッシュ大統領が神に向かって祈り、「主の平和」と隣りの人とにこやかに挨拶しながらも、挨拶

する隣りの人がこの今起きている戦争を支持しているのか反対しているのかさえわからない。「主の平

和」と平和の挨拶を交わしながら、イラク戦争について何も立場を明らかにしないのはおかしいのではな

いでしょうか、と神父さまに尋ねたことがあります。神父さまは「そうですね。でも教会には色んな立場

の人、イラク戦争を支持する立場の人も反対の立場の人もいるから、司祭としてはどちらかにコミットす

ることはできないのですよ」とおっしゃいました。しかし、現実と切り結ぶことをしないかぎり、言葉は

生きた言葉とはなりません。私たちの住む世界で現実に起こっている戦争についてコミットしないで唱え

る「平和」とは何でしょうか。

 キリスト者の政治的な立場について、信仰のあり方という点から問題提起をすること自体を、「他人の

信仰を裁くことだ」として眉を顰める人は少なくありません。「政治的な立場がどうあれ、共に一つの神

にたいして祈るのです。」と言われたことがあります。しかし世界で戦争が起こり、国内で首相の靖国参

拝が行われ、憲法と教育基本法が「改正」されようとしている状況下で、それについてなんら判断を下す

ことなく、またキリスト者同士の対話もなく、「共に祈る」とはどういうことなのか私にはわかりませ

ん。「平和がありますように」と共に祈ることはできるでしょう。ブッシュ大統領だって小泉首相だって

祈っているでしょう。現実の選択にたいしてどうコミットするのか、イラク戦争を支持するのか反対する

のか、靖国参拝を支持するのか反対するのかに対する判断を抜きにした「平和への祈り」は最大公約数で

あったとしても空虚です。「判断すること」は他者を排除することではありません。判断を下すことなし

には対話も始まらないのです。「主にあっての対話」こそが「共に祈る」ために必要なのではないでしょ

うか。憲法について、靖国参拝について、「愛国心」について、イラクについて、教会内で語り合うこと

がタブーとならないような日が一日も早く来ることを祈ります。

 福音書では、イエスが十字架につけられるまでの出来事が、歴史的な事実であると同時に、時代と場所を越えて繰り返される人間的な事実として、圧倒的なリアリティを持って語られています。祭司長たちがねたみのためにイエスを引き渡したこと、イエスを「十字架につけろ」と叫んだのが群衆であったこと、兵士たちがイエスを侮辱しているうちにイエスを惨めな、侮辱して当然な存在だと思い込んでしまっただろうこと、善意の人ピラトの取った行動、敵対していたヘロデとピラトがイエスを送り返したことで仲がよくなったこと等々。歴史的には一回限りであるはずのそれらの出来事とパラレルな出来事を、私たちは私たち自身の現在、この場を生きることの中で経験し、それらの出来事の意味を私たち自身の生の真只中で考えます。「キリストの犠牲によって私たちは救われた」と言うだけでは、この出来事のリアリティ=私たち自身の生のリアリティもまた見えなくなってしまうように思います。また「罪」の具体的な姿も見えなくなってしまうように思います。あたかも靖国談話で小泉首相が「今日の日本の平和と繁栄が、その尊い犠牲の上に築かれていることに改めて思いをいたし…」というとき、「英雄死」とは到底いえないジャングルの中での兵士の餓死や、日本が他国に対して行った残虐行為、「非国民」を摘発する相互監視システム、沖縄戦での軍隊が住民に銃を突きつける戦争の実態などが見えなくなってしまうように。またどうして戦争への流れを止めることができなかったのか、どうしてイエスを十字架につけることになってしまったのかということの考察も不必要なものとしてしまいます。ましてその過去の歴史的事実を現在の日本のあり方や自分の生と重ねて考えることは、思いもよらないことになってしまいます。「尊い犠牲」への感謝は、その捧げ物が加害者としての罪をも負うものであるか、無実な「きずのないもの」であるかの違いにかかわらず、生のリアリティを覆い隠す効果を生み出しているのではないかと思います。

 「罪深い女」やペテロが赦され、救われた瞬間においては、キリストのまなざしとの出会い、キリストとの人格的な関わりがありました。ペテロはキリストの痛みと深い悲しみをキリストの深い愛とともに受け止めたはずです。私たちは痛みと悲しみに対するこのような感受性なしに「犠牲」を捧げ、犠牲に感謝することができます。「犠牲」として捧げられる人々がその中で生きてきたところのリアリティとなんら関わることなしに、彼らを「神」とし「感謝」することができます。ジャングルの中を幽霊のようにさまよい餓死していった兵士のリアリティ、南京で無抵抗な住民を虐殺し女性を強姦した「やさしい日本人」のリアリティ、強制連行され母国のためでない戦争に狩り出され死んでいった韓国・朝鮮人兵士のリアリティ、そして韓国・朝鮮人兵士が今なお加害国である国の「護国の英霊」として祀られることの痛み、そうしたリアリティや痛みのすべてを無視して「犠牲に感謝」することができます。靖国神社で捧げる小泉首相の「尊い犠牲への感謝」と「平和への祈り」が、表面的にはどんなに美しかろうとそこに「まがまがしさ」を感じるのは、感謝と祈りによって殺されるものを察知するからかもしれません。キリスト者の礼拝はどうなのでしょうか。

 福音書の中にはまだまだ私には読み取れない部分がたくさんあります。次の箇所は今日始めて発見したのですがどういう意味なのでしょう。
 「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。…祭司長とファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「…このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そしてローマ人が来て、われわれの神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」…この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」(ヨハネ11:45-53)

 高橋哲哉の『国家と犠牲』読みました。メチャメチャ面白かったです。このごろ自分がキリスト教に対して募らせつつあった違和感というストライクゾーンにスポッとハマって、靖国のこと、ナショナリズムのこと、キリストと共に生きること等々について深く考えさせられました。

 聖金曜日にあるプロテスタント教会(私はカトリック教徒)の礼拝に出席したのですが、なぜかとても苦しくて、そこで祈りつづけることは魂にとってよくないのではないだろうかとさえ思ったほどでした。その教会の礼拝が特に苦しかったというわけではありません。カトリックの聖金曜日のミサにあずかっても尚一層苦しかったような気がします。また聖金曜日ではありませんが、カトリックの告解の秘蹟は私の現在の魂が受け入れられないでいるものの一つです。告解しなければならないという義務は私の魂をしめつけます。そして魂がしめつけられるのは、「自分の罪と向き合い自分の罪を認めたくないから」ということではないという直感的確信があります。自分に罪がないなどとは思っていません。しかし私は自分の目下の最大の罪についてはたぶん気づいていない。罪というのはたぶんそういうもので、一方告解は「自分が気づいている罪」について告白し、ゆるしを請う儀式です。聖金曜日と告解の秘蹟に感じる同じ苦しさを「ヘブル人への手紙」の次の言葉にも感じます。高橋哲哉が『国家と犠牲』で引用している箇所です。

 「けれども、キリストは、…雄山羊と雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。…こうして、ほとんどすべてものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。…キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」(ヘブライ人への手紙 9:11-28)

 雄山羊と雄牛を「犠牲」として捧げることとキリストの十字架のちがいは、後者が「永遠の贖い」であり、「度々」(前掲25節)捧げなくてもよい、一回限りでよいということにすぎないのでしょうか。そこでいう「永遠の贖い」という言葉の意味も、雄山羊や雄牛の犠牲がもたらす期限つきのおゆるし(賞味期限やクーポンのような「おゆるし有効期限!」)でなく「無期限」という意味にすぎないのでしょうか。私には、上の手紙で語られる「罪の贖い」が、福音書のリアリティを欠いているように感じられるのです。聖金曜日の祈りと告解の秘蹟に感じる違和感もこの「リアリティのなさ」なのです。(まあ、パウロにたいしてあたしごときがナマイキな…。)福音書に描かれている「罪」とその贖いとはどんなものか見てみたいと思います。(えらそうだな。。。)

 一つはペトロがキリストを三度「知らない」という場面です。
「ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」(マタイ26:74-75)
 この出来事より前にペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:33-35)と言っていました。こういうペトロが受難週の始まりの前にどういう告解をしたらいいのでしょうか。「わたしは決してつまずかないなんて私は思っていますが、そんなふうに思う私は傲慢なのだと思います。それこそ私の最大の罪です。こんな傲慢な私をおゆるしください。」という告解でしょうか。なんだかこういう「謙虚さ」こそウソの謙虚さだという気がします。「わたしは決してつまずきません」と言うペトロがすでに罪の中にいたとしても、その時点でペトロには気づきようもなかった。自分の罪に本心から気づいたときペトロは「激しく泣いた」のであって、鶏が鳴く前にいくら「自分の罪」に思いを馳せたところで「激しく泣く」心にはなれなかったでしょう。

 もう一つはルカ福音書の中の「罪深い女」と女に対するイエスの応答です。
 「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」(ルカ7-37-38)
 「罪深い女」(マグダラのマリア?)は鶏の鳴く声を聞いたときのペトロと同じように泣きますが、どんな思いで泣いたのかが、ペトロの場合より詳しく描写されているように思います。イエスの足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗る女に、イエスは「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ないものは、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」といわれた。(ルカ7-46-48)

 ユダについては、なぜ彼が罪をゆるされず自殺してしまったのか、強い問題関心を持っています。何か考えることがあったら教えてください。
 「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「われわれの知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。」(マタイ27:3-5)

 「罪深い女」のこのときの気持ちについては福音書の記述がすでに活き活きと描いているのですが、ペテロが自分の罪に気づく瞬間は、イエスがペテロを振り返っておられる姿が目に浮かびます。深い悲しみを湛えた静かなまなざし、すべてを鋭く見通しながらすべてをゆるしている憐れみを湛えた深いまなざし…。こんなまなざしに出会った時、私たちは自分の罪にハッと気づき、「激しく泣く」のではないだろうかと思います。それは罪の気づき、キリストの抱える痛みと悲しみに対する初めての気づき、痛みと悲しみを黙って耐えている深い愛に対する気づきです。
 己の罪への気づきと悔悟と赦しはほとんど同時に生起しているように思えます。罪深い女もペテロもこの瞬間に「激しく泣き」、キリストを深く愛したのではないでしょうか。自分が罪を犯したという自覚と悔恨だけでは、たぶんペテロや罪深い女のように泣くことはできないのではないかと思いました。まなざしに出会わなければ…。ユダは犯した罪を自覚して悔いたのに、どうしてペテロや罪深い女のように泣くことができなかったのか、(あるいはユダも泣いたのか)、私の中での大きな問いです。

 キリストは十字架の上で、十字架につけられる前にペテロを振り返った時と同じように、痛みと悲しみに耐え、同じ深いあわれみのまなざしを十字架につけろと叫んだ人々に注いでおられるように感じられます。このまなざしに「出会い」、激しく泣くことが、「救われた」ということではないのかと漠然と思います。その時、自分の犯した罪の重さよりも、キリストの愛の深さに触れた感動の方が大きく心を占めるのではないだろうかと思います。
私が描く罪からの解放のイメージは、重苦しい悔恨や罪とのきびしいたたかいのイメージではなく、福音書の次の箇所が描くイメージです。
 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(マタイ13:44-46)

 雄山羊と雄牛の犠牲をキリストに移し変えるだけでは、このキリストのまなざしを捉えることはできません。キリストが私たちの罪のために十字架につけられ、死んでくださったから、私たちが罪をゆるされ救われるのだ、というのは何か直感的に「まがまがしさ」を感じます。またそんなことで私たちは救われるのでしょうか。罪深い女においてもペトロにおいても、「己の罪への気づき」はキリストのまなざしを通して、私たちのいる次元よりも高い次元から降りてくるように感じられます。一方、私たちは自分の立っている次元においても漠然と己の罪への不安感のようなものを感じ、この罪が報いを受けるのではないかという怖れを感じることはあるでしょう。この不安感と怖れから犠牲を捧げ、罰を免れたいと思うのならば、神は「怒れる神」「裁く神」であり、犠牲は「とりなし」です。キリストが「父なる神」の怒りをとりなし、裁きを免れさせて下さったという解釈を何度か聞かされました。そのようなキリストに対して捧げる感情はやはり「感謝」であり、愛ではありません。動物実験で犠牲になった動物に捧げるのと同じ「感謝」です。(高橋哲哉の言う、実験動物が「科学の発展のために犠牲になってくれた」という「感謝」の裏には、自分たちの目的のために動物を殺したという罪責感からくる漠然とした不安があるのではないかと思います。)私たちの罪に怒り、裁きを下す「父なる神」がいなければ、キリストもまた不必要だったにちがいありません。直感的に感じる「まがまがしさ」は、私たちの現在のありようを守るという目的のために、キリストを犠牲に差し出し、感謝の儀式によってキリストの痛みと悲しみを相殺するというプロセスゆえかもしれません。キリストの十字架を雄山羊や雄牛の犠牲と等価なものに(その有効期限が期限付きか無期限かのちがいがあるだけの等価なものに)してしまったとき、私たちの「現在」が「ゆるし」とともに固定され、キリストの痛みと悲しみが見えなくなってしまうように感じるのです。(後半に続く)

愛国心と神の愛

朝日新聞夕刊に加藤周一が『夕陽妄語』というコラムを連載している。3月22日のこのコラムのテーマは「愛国心について」であった。加藤はハイネの詩に触れ、次のように書いている。
「私は『愛国心』について考える。国の場合にかぎらず、その対象が何であっても----神でも、人でも、樫の木でも菩提樹でも、すみれでも野ばらでも、「愛」は外から強制されないものであり、計画され、訓練され、教育されるものでさえもない。ソロモンの「雅歌」にも「愛のおのずから起こる時まで殊更に喚(よび)起こし且(か)つ醒(さ)ますなかれ」という(第八章四)。「愛」は心の中に「おのずから起こる」私的な情念であり、公権力が介入すべき領域には属さない。愛国心も例外ではない。それを国家が「殊更」に「喚起」しようとするのは、権力の濫用(らんよう)であり、個人の内心の自由の侵害であり、「愛」の概念の便宜主義的で軽薄な理解にすぎないだろう。」
「愛国心の涵養」とそれに関連する国旗国歌について語られるとき、不思議と触れられない「愛とは何か」についての考察がここにある。愛について少しでも真剣に考えたことがある者なら思い当たるであろういたってシンプルな事実-----「愛とは強制することのできない捧げものである。」このシンプルな事実に思い至るには、複雑な思弁も論理も要らない。ひとりの男性あるいは女性を心から愛したことのある人ならば、その人を力づくに従わせたところで少しも心が満たされないということを知っているだろう。暴力で脅して、あるいは借金の肩代わりを条件に迫ったところで、手に入れられるのはせいぜい婚姻届の署名か「あなたの言うとおりにします」という心を伴わない空々しい服従の約束。ホリエモンがどんなに金持ちでも、そのことでたった一人の女性の心も「モノにする」ことはできないだろう。なぜなら打算はすでに愛ではないからだ。また『冬ソナ』で、サンヒョクが「僕と結婚してくれなければ死ぬ」と脅したところで、ユジンの心を得ることはできない。愛とは熱烈に求め、あるいは力を行使して手に入れられるものではなく、一種の贈り物なのだ。そこに失恋の悲しみとやるせなさがある。また「人間の尊厳」につながる、けっして意のままにはならぬ「他者」の手触りがある。愛が一種の贈り物なのだということ、それは愛の対象が異性でも祖国でも神であっても変わらない。

神はだからこそ己を無になさったのである。神は人間の愛を欲し給うた。神は私たちひとりひとりを愛し、私たちひとりひとりが神を愛することを切望なさった。しかし愛は権威を振りかざし、恐怖や打算で人を駆り立てることによっては得られないものであることを「愛」そのものである神はご存知であったがゆえに、ご自身の「力」を封印された。罰を怖れる気持ちからではなく、天国で一等賞のご褒美をいただけるという打算からでもなく、ただ愛ゆえに愛することを私たちに望まれたのだ。全能の神でさえ愛の前にかくも無力であったということに私は感動する。かくも無力な者に成り果て給うたということこそ神の私たちへの、まごうかたなき愛の証である。

悪魔の誘惑は鮮やかである。悪魔の誘惑とこの誘惑を退けた神の子の物語は、神のみこころと愛の本質を逆照射する。
「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、”霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるよう命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ちあたることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」といわれた。
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」(マタイによる福音書第四章)

もしイエスが石をパンに変えたら、神殿の屋根から飛び降りて天使が支えたら、世のすべての国々を支配する帝王となったら、私たちはどのようにイエスに向き合っただろうかと考える。まちがいなく私たちはイエスに従ったのではないだろうか。これまでの人間の歴史を通して人間が時の支配者に従ったのと同じように、イエスに従ったのではないだろうか。しかしそれはけっして「愛」から従うのではない。従うことでパンを与えられるから、従わなければ罰せられ命を脅かされることもあるかもしれないという恐怖から、従うのである。神が望み給うたものはそのような従順ではなかっただろう。だからこそ神の子は悪魔の誘惑を退けたのではなかったのか。十字架にかかったイエスも十字架から飛び降りることができたはずなのだが、その力を封印して十字架にかかって死に給うたということに、大いなる愛のみこころを見る。

卒業式で教員が国旗に敬礼し、国歌を斉唱しなければ罰せられるという状況で、祖国に対するどのような「愛」を私たちは期待されているのだろうか。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(コリントの信徒への手紙一第十三章4−7)
愛は耐えること、待つことを要求する。国旗に敬礼し国歌を斉唱することができない人々を「祖国」は待ってはくれないのだろうか。美しい日の丸を何一つ曇りのない心で仰ぎ見るためには、私たちには乗り越えなければならない過去がたくさんあるのだ、向き合わなければならない人々の痛みがたくさんあるのだ、そのように考え国旗に敬礼し国歌を斉唱することを躊躇している人々に、その躊躇は間違っているから行動を変えよと強制し、従わなければ処罰するというのが「愛」だろうか。そのように強制し処罰さえ辞さない国家は私たち国民を「愛して」くれているのだろうか。それとも愛は国民が国家に一方的に捧げるものなのか。「祖国を愛することは自然な当然な感情だ」という。私は自然の野山を愛している。この風土を愛し、食べ物を愛し、温和な人々を愛している。弥生時代から連綿と続く稲作文化と田んぼとお米を愛している。朝鮮半島から訪れたたおやかな仏像を愛している。美しい日本語を愛している。その日本語で書かれたいくつかの文章を心の糧とし、その文を綴った人々の心とつながっている。先の戦争中治安維持法違反で逮捕され、「左脚がしょうゆだるのようにはれ上がるほど拷問を受けた」のち友人を裏切って釈放され、戦争に協力する詩を書いたことを悔やみ、低い小さな声で語った詩人と「同じ日本人」としてつながっている。「私は臆病な人間です。また戦争が起こったら同じ失敗を繰り返す気がします。そういう人間なんだという目で、いつも自分を見ていたい。」
祖国を愛することは自然で当然な感情だ。この感情の中には貴重なものがあり、抽象的な理論では覆いきれない生身の人間の息遣いのようなものがある。人間が人間になっていくということは、この息遣いの中で育てられていくということなのだと思う。だからこそ私は、隣国の人々の祖国に寄せる想いを「八紘一宇」「皇国臣民」の名のもとに踏みにじった「国家」の暴挙をゆるすことができない。朝鮮半島の人々の名前を変えさせ、言葉を奪った暴挙をゆるすことができない。私たち日本人が日本という祖国に寄せる想いは、中国や朝鮮の人々の祖国に寄せる想いとつながっている。同じ根っこから等しく私たちはそれぞれの祖国の風土を愛し、文化を愛し、自分たちの想いをのせる自分たちの言葉をたいせつにしている。それぞれの祖国をいとおしむ気持ちを大切にするということは、私たちがそれぞれの父母を大切にし、敬うのと同じようにけっして優劣を競い合うことではないし、父母の偉大さは成し遂げた「偉業」の社会的経済的評価にあるのでもない。父母は私の父母のように社会的に評価されない、経済的に貧しく名もない庶民であっても、また時に理不尽で子供を苦しめることの多い存在であっても、父母の思いと息遣いの中で私は育ち、父母の人生を私自身の人生といつも関わりのあるものとして生きてきたし、これからも生きていく。反発しながらも父母の欠点や弱さを自分自身の欠点や弱さと重ねて理解することができるようになり、欠点や弱さにもかかわらずその愛に感謝することができるようになったのも、父母の人生を常に自分の人生と重ねて生きてきたからだ。父母の尊さと祖国の尊さは、生きるということの重み、理屈では測られないその具体的な手触りに他ならないのだと思う。

「祖国」を「国家」と言い換えてしまったときに失われてしまうこの具体的な手触りについて考える。平板、単調、一枚岩になり、顔を持たない抽象的なものになってしまう「国家」と「国民」について。この平板さ、単調さは典型的には中国や北朝鮮の共産主義国家に見るのだが、昨今の日本で愛国心の大切さ、「日本人の自覚」が語られるとき、同じような平板さと単調さに気づく。治安維持法の冷たさと非人間性は、異なった考えを排除し一つの考え方を押し付けることだ。文化の豊かさは文化の土壌であるその地層の厚さにある。この地層の厚さの中で私たちはてんでばらばらな考え方をしているようで、つながっている。「日本人」である私たちを育む地層は、一つの考え方、一つの日本人像しか受け付けないほど浅いものではあるまい。戦争という出来事の中での日本人を考えてみても、そこでどのような思いを抱いて生き、死んでいったかということは、さまざまだろう。最近上映された映画『男たちの大和』の中で描かれた青年たちの思いも、熱帯のジャングルをトカゲやヘビを食べながらさまよい、マラリアにかかって死んでいった痩せこけた兵士の思いも、「皇軍」の活躍に歓喜して日の丸を振った町内会の男女の思いも、洞窟で軍人の銃剣に怯えながら小便を飲んで生き延びようとした沖縄の人たちの思いも、満州で「国家」に置き去りにされた中国残留孤児の思いも、すべて「日本人の思い」である。過去のすべての日本人の経験や思いとつながることは、私の中の心の地層と経験を掘り進んでいくようなひそやかな作業だ。心を耕さなくてはならないし、教養を高めなくてはならない。一つの歌を歌えばよいということではなく、一つの旗に向かえばよいということでもない。ざわわざわわと『さとうきび畑』の歌のむこうに沖縄の戦争で倒れていった人の悲しみに思いを馳せることも、「日本人であること」を深く受け止める行為なのだ。

心の地層と経験を掘り進み、心を耕すためには、心は自由でなければならない。卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱が、心を縛るものであってはならない。(まして処罰など…。)「愛国心」も「神への愛」も目的とするようなことではない。私たちがひとつひとつの日常を大切にし、ひとつひとつの経験の意味を深く考え、ひとつひとつの思いと向き合うことを大切にしていくのならば、自然と拓かれる地平のようなものである。


(2006年4月2日)

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