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中学校の教室では、授業中に男の子が天井から机の上に降ってきた。休み時間に破れた天井板から天井へ上り、天井裏を駆けずり回って、授業が始まってもそのまま遊んでて、天井板を突き抜けて授業中「降って」きたのだ。腰壁の板も破れていて、壁の穴に飲み残しの牛乳の瓶を(前に返しに行くのがメンドーなので)、ぶっこんで、そのうちヘンな臭いがするので壁板をベリベリはがしてみたら、ウジがゾロゾロ出てきた。ウジを見たのは初めてだった。気の強い女の先生の国語の授業は誰も聞いていなかった。「静かにしなさい!授業を聞いている子に迷惑でしょう?!」と先生がどなったら、「誰も聞いてネエよ!」と男の子たちが吼えた。「starさんが聞いてるでしょ?!」と先生がどなった。(あんまりうれしくなかった。。。)2年生のときの担任の先生は初任で「小林先生」という名前だった。「コバヤシ」をみんな「ケバヤシ」、略して「ケバ」と呼んでいた。女の子たちは、休み時間や放課後に校舎の裏に集まって、シモネタ話をした。セックスをして子供ができちゃって堕ろした子のウワサをみんな興味津々で聞いてた。胸が大きくなり始めた女の子たちは、「ケバ」に「胸、さわりたい?」と胸を突き出して挑発していた。(ちなみに高校は女子高だったが、遅刻した子は遅刻理由をすべて「生理痛」で押し通していた。「生理よ、生理!そんなこと言わせるの?!」先生がもし記録を取っていたら、生徒たちの大多数がずいぶん「生理不順」だということになっただろう。10月2日も生理。15日も30日も生理…笑)
中学校の教師になりたいとはこれっぽっちも思わなかった。小学校はたのしかった。ドラエモンの「ジャイアン」そっくりの乱暴な男の子(顔はオバQに似ていた)を先生は「ひいき」した。「ジャイアン」は先生に心を開き、そのうちクラスの友だちにも心を開くようになって、落ちついていった。先生は子供たちに「百姓一揆」の寸劇をやらせた。子供たちはドングリを拾って「悪代官」にぶつける寸劇をしてたのしんだ。ドングリを投げつけるのが楽しかったんだけど、「先生は抑圧されている民衆の気持ちを想像させたいんだなあ」と子供ながらに「先生の気持ち」をどっかで感じとっていた。ベトナム戦争の話もしてくれた。ベトナム戦争でベトナム人の首を持って笑っている米兵の写真をみせてくれた。先生は初任で、いっぱい「空回り」してたけど、「先生はこんなことを伝えようと必死なんだなあ」ということは子供ながらに感じ取っていた。初任で不器用で「上手くない」先生だったけど、「先生の心」を感じた。
そんな小学校を卒業して入った中学校で、「心」はどこかへ行ってしまっていた。子供ながらにこまやかな心の交流をしていた友達が変わってしまったように感じた。「リーゼント」で学ランの下に赤いTシャツを着た男の子は私のことを「お嬢さん」と言って「いじめ」た。手出しをするわけではなかったけれど「お嬢さん」と何かにつけて言われるのがイヤでたまらなかった。教室でひとりで本を読んでいると「お嬢さん」と言うのだ。「朝鮮人!」とも言った。私は朝鮮人ではなかった。また在日韓国・朝鮮人が日本社会で差別されていることも中学生の私は知らなかった。卒業して、私をそういっていじめた男の子自身が在日朝鮮人であったことを知った。F君。
大人になって教師になってから、この母校の中学校を訪れ、F君と私の担任だったベテランの先生と話をした。「私はF君にいじめられたんですよ」…そう言ったら、元担任の先生は言った。「Fはオレには従ったんだ」
「Fはオレには従ったんだ」…今、自分自身が中学教師になってみて、何度も思い返す言葉である。
それが中学生だった私にとって一体なんだったというのだろう。。「Fはオレには従った」。クラスを掌握し、悪ガキどもも静かにさせておくことのできる力量のあるベテラン教師。生徒にバカにされ「ケバ」と呼ばせてしまったり、「誰も聞いてネエよ!」と生徒たちに吼えさせたり、をゆるさない「力量のある」教師。
それが私にとって何だったというのだろう。中学生たちは教師によって態度を変えた。友達によって態度を変えた。空気を読み、力ある者についた。そのこと自体がイヤだった。
小学校のときの担任の先生は『べろ出しチョンマ』という童話を読み聞かせて下さった。教頭先生も自習の時間、有島武郎の『ひと房のぶどう』という本を読み聞かせて下さった。虐げられる者のかなしさ、持たざる者のせつなさ…子供は子供なりにそんなこまやかな感情さえ理解することができるのだ。そして他人の痛みを想像し、自分の心を耕すことだって、子供にはできるのだ。でも中学校の三年間、「心」はどこへ行ってしまっていたのだろう、と今不思議な縁で中学校教師になってしまった私は過去を振り返って思うのだ。
みなさまの中学校時代はどんなでしたか。よかったら教えてください。
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