| 書こうとしているのは絵の話じゃなくて、美術館へ歩いていく途中でみた異様な光景のことだ。美しい歌声に惹かれてなんだろうと耳を澄ますと、賛美歌のようだった。教会が伝道のためにストリートで賛美歌を歌う光景はたまに見かけるけど、ふと歌声の方向をみると、驚くほどの人数の人々が集まっている。ギター伴奏でマイクで歌っている前の方の人を除くと、坐っている「信者」の中で口を開けて歌っている人は多くはない。よく見ると、坐って歌う格好をしている人のほぼ全員が初老の男性である。それでこの礼拝は上野公園内のホームレスの人たちを集めた礼拝なのだとわかった。 |
| 興味が湧いたのでパンフをもらうと、「トポス上野公園教会」とあった。賛美歌とお祈りが終わると、説教になった。牧師らしき女性が話した。「寝ないでくださいと何回もお願いしました。おなかすいているよね、早く食事にしたいですよね、でもね、頭を下げていると、神様のよびかけて下さる言葉も頭の上を通り過ぎていっちゃうのよ。ここで頭を上げない人、このあとお食事はあげませんよ。」拍手するホームレスの人が二人くらいいた。他の人々は無反応だった。「あのブルーのケースの中身ばかり気になるんですか。あのブルーのケースなんてどうでもいいのよ。もちろん一生けんめい作りました。だけどあんなもの、一日でトイレに行けばなくなってしまうものなのよ。それより神様の言葉は本当の救いになる食べ物なのよ。」ホームレスの人々は何も言わず、なんの反応もみせずに、おとなしく坐って「聞いて」いた。 |
| この光景、私はめずらしくなんのコメントもつけずにそのまま記事にすることにする。なんのコメントもできないのだ。自分自身が熱心な教会員でない私は、「伝道」ということをどう位置づけていいのかわからないのだ。だからいちいちインターホンを押して一戸一戸訪問伝道をしている「エホバの証人」なんかを「すごいな」と思い、「でもこういう伝道の仕方に『ひく』マジョリティ日本人の気持ちはわかるな」と思い、「でもそんなに石投げなくてもいいよな、大多数に嫌われて冷たくあしらわれてもこれで信者になる人が少数いるから続けてるんだろうし」とも思う。私はカトリックだけどカトリックはこういう体当たりの「捨て身」の伝道はしない。カトリックはプロテスタントに比べて信者に豊かな階層が多い(気がする。)この3月まで勤めていた丘の上にある瀟洒なお嬢さん学校では、花壇の中に白いマリア像が立ち、大理石の廊下を歩いていくと、ステンドグラスに飾られた美しい礼拝堂(カトリックでは「お御堂」という)があった。娘をこの学校に入れたことをきっかけにミサや聖書の学びに参加するようになった父兄もめずらしくなかった。裕福な家庭の奥さまで、ガーデニングなんかに精を出しながら、「わたくしはカトリック信者なんですの。娘を○○女子学園に受け入れていただいて、そこのごミサに何度か出席させていただいたのがきっかけなんだけど。よかったら一度教会へいらっしゃらない?みなさまとても気持ちのいい方ばかりよ。」と何かの拍子に誘うのは、誘いに乗るかどうかは別として、日本社会では受け入れられるんだろうと思う。そこへいくと、創価学会とかエホバの証人とかの伝道は泥臭い。ふつうのプロテスタント教会(日本基督教団とかルーテル教会とか。。。)の伝道はその中間で、ちょっと泥臭さがある。(泥臭い、はダサい、と言いかえてもよい。これも死語かもしれないけど。) |
| むかし「イエスの方舟」という映画をビデオで観た。ビートたけしが千石イエスを存在感たっぷりに演じていた。「子供を誘拐したカルト教団」と大騒ぎになったこの事件に別の光を当てている映画で、なかなか面白かった。「結局プロテスタントとかカトリックとかエスタブリッシュメントだと許容されるけど、そうじゃないと「いかがわしい宗教」とみられるのね。」「神父がドイツ語もヘブライ語もギリシャ語も読めて、ドイツに留学してたりして信者の中に大学教授なんかいると一応一目置かれるけど、中卒だったり牧師の資格がなかったりするとキビシイのね。」と思った。芹沢俊介も『「イエスの方舟」論』という本を書いていて、この本も面白かった。 |
| で、結局私自身は伝道らしき伝道をしないし、このブログも「どこがキリスト者なんだよ!」状態なんだけど、世間のヒンシュクを買い、「オウム真理教」以後はとくに白い目でみられてる泥臭い伝道者たちをべつに否定はしないのである。「えらいなあ」なのかどうかはよくわからないのだけど。 |
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