| 読書感想文とか作文とかいうものが子供の頃は好きではなかった。書きたいことなどまったく心に浮かばず、なるべく句読点を多くして原稿用紙の規定枚数に達するよう腐心していた。今は「書け」とも言われないのにブログ記事を書いてるのに(笑)。 |
| 「それでも君は子供の頃作文や感想文を強制的に書かされたから、今こうして自分の感じることを言葉にできるようになったのだよ」と言われればはっきりと反論はできない。自分がどうして大人になったのかをはっきりとは説明できないように。 |
| 中学校という場所に私は戸惑っている。中学校では学期の初めに「学年目標」や「生活目標」を作り、画用紙や模造紙に書いて廊下や教室に貼り出す。行事のたびに「振り返り」(反省)を書かせ、学期の終わりには勉強態度や生活態度全般に対する反省を書かせる。ビデオを観ても「道徳」で短いお話を読んでもその都度「感想」を書かせる。生徒たちも書かされることに慣れっこになっているので、誰も異議を唱えない。しかし私はひとりひそかに辟易するのだ。 |
| 言葉が熟するまでには、言葉にならない思いを「時が来るまで」抱え続けていなければならないのではないか。時には何年も。言葉にならない思いを私はことあるごとに反芻し、別の経験を重ね、しだいに思いのありかを突きとめていく。そして「時」が来たとき、思いは言葉に結晶する。子供たちを取り巻く大人がしなければならないことは、子供たちが「言葉にならない思い」を長い時間抱え続けていけるように、言葉にならないその思いを受けとめ、黙って見守ることではないかと思うのだ。 |
| 「言葉にならない思い」を抱えた子供にむりやり何かを書かせるならば、「大人の期待する言葉」を自分の思いとして作文や感想文や「反省」に綴るだろう。そのように仕向けることで、教師たちはたくさんの「言葉」を殺しているように感じられてならない。また子供自身がほんとうに感じていること考えていることが脇へ押しのけられ、忘れ去られてしまうように。 |
| だから本を読んだら、即座に読書感想文など書かずに、その読書の余韻に浸っていればいいのではないかと思うのだ。心を漂わせる時間、余韻を味わう時間を今の子供たちはどれだけ持っていることだろう。本を読んだら感想文、ゲーム、ケータイメール、部活、塾、テレビ。 |
| ただ野山を歩いたり、風に吹かれたり、風の匂いをかいだり、雲の動いていくのを眺めたり、星を見上げたりしているうちに、言葉は「時」に向かって熟していく。(あるいは言葉にしなくたって別にいいじゃないか。) |
| 言葉が熟するのをたすける静かな時間。心をただよわせる時間。無為の時間。 |
| 以前数年間働いていた東北の片田舎の小さな高校では、宗教や思想の書物の言葉を教師は黙ってただ黒板に書いていった。生徒たちは黒板に書かれた言葉をひたすらノートに書き写していった。解説も何もない、それだけの授業である。私が勤めはじめたのより数十年前のコピー機もまだなかった時代のことである。教師のよけいな解説に邪魔されず、生徒たちはひたすらノートに書き写す時間の中で、魂をただよわせ、書き写す「言葉」と一人で向き合っていただろう。黒板にチョークを持って立つこの高い志の教師が逝って、この授業を継ぐ者はいなくなった。黒板に黙ってただ思索と祈りの言葉を書き、ひたすら書き写す生徒の魂をめざめさせる教師は、テクニックや熱意を超えた深みを持つ人でなければならないからだ。 |
| 便利な世の中になり、コピー機もパワーポイントもビデオも利用できるようになって、授業はより多様に、工夫を凝らしたものになっていったけれど、沢山のプリントや沢山のグループワークや沢山の研修はなんだか教師がバタバタ動いているだけのように感じられる。 |
| 静かな、シンプルな、素朴な「味わう」ということに渇くあわただしい中学校の教室で。 |
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