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公立中学校に勤めて驚くことがある。いじめに対する子供たちの「ハードル」の低さだ。去年はいじめ問題で日本列島揺れましたよね。あいつぐいじめ自殺、いじめに対処できない学校叩き、そして各界有名人や文科省、教育委員会の「いじめられている君へ」呼びかける数々の手紙。
そのことを思い起こせば起こすほど、日々目の前にしている中学生たちの「いじめ」にたいする抵抗感の少なさはなんなのだ、と思ってしまう。これまで勤めていた私立のお嬢さん学校では少なくとも「いじめ」や他人を貶め傷つける言葉が教師の目の前で投げつけられることはなかった。公立中学校では…「もう帰ってこなくていいよ」「うざい」
「死ね死ね死ね」と書いたメールをクラスメートのケータイに送ったり、バイキン扱いしたり、掃除のときに一人の子の椅子だけわざと机から下ろさなかったり。日常茶飯事だ。理由をきいてみると「気持ちワルイから」…教師にむかっておおっぴらにそう公言することになんら後ろめたさも躊躇もない。掃除が終わる直前、ひとつの椅子だけが前日と二日連続下ろされていなかったことに気づき、「あそこ下ろし忘れているから下ろして」と言ったら、掃除当番の誰も動こうとしなかったので、気づいたことだ。「朝、教室へ入って、自分の椅子だけ下ろされていなかったら、どう思う?」と私。「べつに。ふつう。」と掃除当番A君。「ふつう?ほんとに?」「たまたま下ろし忘れたんだと思う」と掃除当番A君。「たまたまじゃないでしょう?昨日も下りてなかったじゃない。意図的ですね。」A君「…」
朝教室に入って自分の椅子だけいつも下りていなかったら傷つくだろう、ということを納得させるのに15分かかった。(いや、そもそも納得したのだろうか。。。?)相手が傷つくからやったんだとしたら、「傷つくだろう」ということはわかっているわけだが。
英語の時間には、ペアワークのペアの友達を「こいつ、ぜんぜん答えらんないんだもん」「スリーまでしか数えられないんだぜ、こいつ」
放課後の部活では、「センパイにたいして敬語を使え!」「センパイがこれやって、っていったら返事をして、すぐに動いて!」
顧問で授業も教えている私は指摘した。「あなたたち3年生も先生にたいして敬語を使わないのに、どうして後輩に敬語を使うことを要求するの?」「○○中では生徒は先生にたいしてタメ口だけど、後輩はセンパイにたいして敬語を使ってきたから。ウチラも1,2年生のとき3年生にたいして敬語使ってきたし。」そう答える3年生の彼女は、授業中私が教科書を開けといっても開かない。返事もしない。「センパイがこれやって、っていったら返事をして、すぐに動いて!」と1年生に要求する。それでも返事がなかったので、私のいないときにケリを入れたらしい。
私立のお嬢さん学校ではこんなことは目にしなかったのに、公立中学校でこういうことが日常茶飯事であるのは、ひとつには、「とんでもない子とペアを組まされたり、一緒の部活になったりする」せいである。英語の時間にペアの相手がぜんぜん会話の相手にならないほどの学力が低かった場合は、たしかにメーワクであるし、「なんでオレはこんな目に遭うんだ」と思う。私立では学力の低い志願者は入試でハネている。入学した後も習熟度別クラスで学力の同じような子が一緒に学ぶ環境を整えている。公立中学校のクラスの中での学力差は、勉強のできる子に「こいつ、スリーまでしか数えられないんだぜ!」と堂々と友達を侮辱し、その侮辱を「もっとも」と周囲に受け入れさせるいらだちを育てているのだ。
部活で敬語を使えない1年生は、これまで敬語なるものを使ったことがなくて使えないのだそうだ。そして敬語以前におそろしく口が重い。おそらく「個別支援」スレスレの子供である。言葉を投げかけられても返事ができない。英語のペアワークはおろか、日本語でも対話が成立しない。クラスではバイキン扱いされ、部活ではセンパイに怒鳴られ、ケリを入れられる。どう働きかけても会話が成立しないことへのいらだちはわかる。
教師と生徒では立場が異なる。いらいらさせられる客観的条件はおそらく生徒たちの立場でのほうが大きい。私立でも男子校ではとくに陰湿ないじめはあったが、難しい入試で「選ばれ」、似たような家庭環境の子が集まる中ではエリート意識を共有し、互いに親近感を抱きやすい。「あちら側の人々」は常に向こう岸にいて、日常生活の中に侵入してくることはない。そういう「向こう岸の人々」には年に何回かのボランティアで「慈善事業」をしていた。
「愛の反対は憎しみではなく無関心だ」とマザー・テレサは言ったけれど、本当にそうなんだろうか。公立中学校に通う子供たちはお互いにたいして否応なく関心を持たずにはいられないような状況に置かれている。いじめはやはり「関心」のあらわれであるのだ。いじめをなくすとすれば、多少「無関心」になるほかはないのではないかと思わずにはいられない。「この子はこういう子だ」「普通の反応がもともとできない子なんだ」…「みとめること」「折り合うこと」はそうした「あきらめ」を通ってしか達せられない境地だ。それができないから「とうぜんの要求」をしつこく続け、要求に従わない相手がゆるせずケリを入れる。
「いじめ」への対処はいつもむずかしい。「いじめ」と認識することがそもそもいらだつ側のいらだちを理解しない大人の一方的「正義」と受け止められる。両方の言い分を聞き、仲裁して受け入れるよう働きかけても、当該生徒の「態度」が変わらないと、「こっちはこんなに努力して受け入れようとしたのに」と恨みを募らせ、無視と冷遇と虐待に正当化の根拠を加えてしまうのだ。
私も非力だが、他の教師も一様に非力であり、どこのクラスでも部活でもこんなことは起こっている。文科省も教育委員会も「いじめ撲滅キャンペーン」を張ったマスコミも非力である。無力とはいいたくないけど。どうしたらいいのか教えてください。。。
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