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やめたらいいと思うものその1…英語のスピーチ・コンテスト。わが副校長は元英語科教員で、「英語スピコン」で数々の入賞優勝生徒を輩出してきた「スゴ腕」。管理職になって直接の指導ができなくなったので、「栄光」の希望を今年このスターにゆだねたのがマチガイの元だった。「どういうスピーチ原稿が入賞を果たすか(スピーチは内容が勝負!)」をスターに詳しく伝授し、スターもそれは理解した上で生徒を「指導」したけど、いやあ、大変だった。もうやめてほしい。こういうものはドーピングを根絶できないオリンピックと同様廃止してほしい。。。
「人を感動させるスピーチ」「聞いてよかったと心から思えるスピーチ」を中学生に英語でやらせろ、というのだ。中学生本人にまかせておいてはできるわけがないので、そこを「指導」する。副校長に伝授された「コツ」は、「テーマが勝負!」とのことだった。テーマを見ただけで、スピコンで聴衆にアピールし、入賞を果たすものと、内容を聞くまでもなく落選のものがあるというのだ。テーマはもちろん語り手である生徒自身の直接体験と密接に結びついたものでなくてはならない。そのうえで「勝てるテーマ」を選ばせるとすれば、まず、「生徒が語りたい体験をではなく、他人にアピールする体験を選ばせる」「その体験の意味づけにまで教師が介入する」ことをしなくてはならない。これがいったい「指導」であるのか。
生徒は「ぜったいにやるな」と言ったことをやってくる。スピーチ原稿を日本語で考え、それを辞書やパソコンを使って英訳してくるのだ。関係代名詞すらロクロクわからない中学三年生がそれをするのだ。出来上がった英訳文は、文法もめちゃくちゃ、とんちんかんな英単語を和英辞典で調べてあてはめている。これをチェックしようとすれば、もはや生徒の原稿ではなく、英語教師が書き直した原稿、さらにそれをネイティヴのALT講師が書き直した原稿になる。ところどころ空白がある。「どう訳したらいいかわからなかったので」と言う。これを訳してあげるとすればいよいよこれは「英語教師の原稿」である。
「生徒の原稿」にしてあげるために、もともとの日本語の原稿を、生徒の英語力でも直せる日本文に直してあげた。長い和文を二つに分ける、「われに返った」などというそのまま英訳できるはずもない和文の表現の指す感情がどういう感情なのかを話し合って、近い意味の英単語をさがす。これだけでかなりのハードワーク。ようやく出来上がった原稿は、まあまあ自然な「中学生らしい」原稿には近づいたが、内容にインパクトがない。「人を感動させ」、「聞いてよかった」と思えるスピーチにはなりそうもない。友人の裏切りと友情を失った経験について書いた原稿は、生徒自身にとっては痛切な体験なのだろうけれど、どうして友人は彼女を裏切ったのか、どうして仲直りできなかったのか、どうすれば友情を失わずに済んだのかの掘り下げはイマイチピンとこないで、その経験の「意味」が第三者にはよく伝わらない。しかし教師がこれ以上、「手を入れる」ことができるだろうか。経験を掘り下げさせるために、質問はいくつかしてみる。それでもイマイチ思考は先に進まない。
あきらめのよいスターはここであきらめた。この原稿が生徒の現在である。その経験がどういう「意味」を持つのか、どういう「教訓」をそこから引き出すのか、それはその経験の担い手の現在のありようを如実に示す。すぐれた作家は、普通の人が経験しないような変わった経験をしているから感動を呼ぶ文章が書けるわけではない。「波乱万丈な人生」を送っているから、読み手に「気づき」を促すような文章を書けるわけではない。太宰治の心中未遂について第三者が書いている文章を読んだ。この文は「太宰治の経験について」書いているが、太宰治の文章ではない。第三者である作家のつづった「太宰の心中未遂の意味」は、太宰自身の「経験の意味づけ」ではないのだ。
副校長はしかし、この最終原稿に手を入れた。スピーチ原稿のタイトルが変えられた。「経験の意味づけ」が変えられた。原稿はたしかにインパクトを増し、聴衆の共感をよぶかもしれないものになった。文章は土壇場だったので教師が作った。ネイティヴ講師がさらに手を入れた。「ずいぶん変わっちゃったんですね」といいながら、生徒は従順に従う。スピコンは予選を突破するだろうか。しかしたとえ優勝したとしても、こんなスピーチコンテストにどんな意味があるのだろうか。
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