吉本隆明:現代社会に生きる人は、若い人も壮年の人も老人も、皮膚感覚として、みんな裸のまま社会を生きていて、肌身に何かが直に突き刺さってくるような感じを受けているんじゃないかと思うんです。
内田樹:その肌身に突き刺さるという感じはよくわかります。吉本さんがよく使われている「社会的な個人」と「個人としての個人」という言葉を借りれば、昔は「社会的な個人」と生身の自分を剥き出しにした「個人としての個人」をうまく使い分けることができたのに、今の人はうまくその使い分けができなくなっている気がするんです。
『中央公論』9月号、特集「『親』が壊れている」より
| 小難しい言い方だけど、ようするに昔は、「親には親の立場があるし、教師には教師の立場があるし、まあそういうのはムリないわな。」とテキトーに聞き流せていた、というのが、「社会的な個人」と生身の自分を剥き出しにした「個人としての個人」をうまく使い分けることができたってこと。そこを親は親で過剰にしつこく子供の神経を逆なでするような言い方で説教しちゃったり、子供もそれを聞き流せないで殺意まで持っちゃうっていうのが「うまく使い分けできなくなった」ってこと。''' |
| 今の子供たちがひどく傷つきやすいということは、前々から感じていた。私も若い頃はひどく傷つきやすかった。だけど今はたいていのことには傷つかない。これは年を取ってよかったと思う最大の収穫だけれど、年をとっても傷つきやすい人はいるようだ。そしてそれはなぜなのか、なぜ私は傷つかなくなったのか、を考えると、上の「使い分け」ができるようになったってことだと思い当たるのだ。 |
| 教師なんて仕事をしていると、「仕事」での失敗を容易に「自分という人格の否定」と結びつけてとらえやすい。たしかに人間関係のスキルが必要な職業だし、人の心理を推し量ったりとか自分の感情のコントロールとかそんなことも必要な職業ではある。しかしそうしたスキルに円熟していないことを「自分という人間はダメなんだ」とまで思いつめるのは行きすぎというものだ。長所と短所は裏表である。一方で「自分は善意でこんなに一生懸命やっているんだから、わかってもらえないのはヒドイ」と叫ぶのもおかしい。善意だろうと一生懸命だろうと相手の求めることに応えてなければ評価も感謝もされないのだ。しかしまた翻って(くどくてごめん。。。)、世の中に評価されなかったとしても、それはニーズに応えていなかったというだけの話で、「人格」や「私の存在価値」とはカンケイがない。しかし(くどい。。。)、「人格や存在価値とはカンケイがない」からといってほっといてもイイワケではない。社会の中で居場所を確立し、食ってくためには、なんらか「評価され」「ニーズに応える」接点で世の中と関わっていかなくてはならない。 |
| この適度なバランスが、本人にとっても周囲にとっても居心地いいのではないか。「オレ様は本来こんなところでくすぶってる人間じゃないんだゾ。ホントはビッグなんだ!」とさけばれるのもウザいし、逆に外部評価を100パーセント自己評価としてしまっている人間も、順風満帆な時は「キャリア」や「地位」をかさにきて鼻につくし、失敗して評価を下げると自分を否定されたように思い、思いつめるほど傷ついたりする。 |
内田樹:今の若い人は、外部評価と自己評価の齟齬に対して忍耐力がない。離職・転職が多いのも、努力と評価が整合していないと思うと、その不条理に耐えられない。だから仕事をやめちゃう。
| ところで甥は大学受験を目前に控えながら、ぜんぜん勉強しないでバンドに夢中である。おばは英語教師なのに、ヤツの英語の成績は1である。それなのにヤツは「学校は勉強するところだよ」と言う。嘘は言っていない。ヤツは客観的な事実を語っているのみである。授業中寝てばかりいることを教師に叱られたとしても反抗はしないが、態度を改めもしない。「社会的な個人」と「個人としての個人」の使い分けができてるヤツだ。ヤツがどういうふうにこれから先、世間の荒波をくぐっていくのか見物してやろう。 |
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