| クリスチャンは聖書の中の次の箇所をどんなふうに読むのだろうか。 |
体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。(…中略) 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 (コリントの信徒への手紙 一. 12:12-26)
| 「教会の中には色々な人がいるが、それぞれに役割があり、みんな信徒でありキリストにつながっているのだから兄弟なのだ」ですか。悪いけど私はそんな「なかよしコミュニティ」で完結するほどヒマじゃないんです。この話を「教会内部の話」にするから、教会は退屈なんです。現実の社会では目が手に向かって「お前は要らない」と言って、リストラしてるじゃないですか。「体の中でほかよりも弱く見える部分」が、生活保護を打ち切られ、餓死しているじゃないですか。「一つの部分が苦し」んだって、黙殺しているじゃないですか。 |
| 改正教育基本法 第一章 教育の目的及び理念 (教育の目標) 第二条 |
二. 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
| 「みんなそれぞれ、なにかしら輝くものを持っている」「その個性をのばして自分にふさわしい職業をさがそう」…そういって幻想だけを与え、現実を整備せず、大量のフリーターばかりを吐き出しているではないですか。 |
| 勉強のできない子、スポーツも苦手な子にだってもちろん「輝くもの」はあり、能力はあります。「職業及び生活との関連を重視」するんなら、政府はちゃんと雇用を創出せよ!社会に受け皿も作らないで、きれいごとばかり言うんじゃない! |
| 猫も杓子も、分数のできない子も大学へ進学するのは、エリートしかこの社会で優遇されないからだと思う。分数ができなくてもアルファベットが書けなくてもまじめで、他人のことを思いやって生きてる子に、生きがいと居場所を確認できる仕事を与えてあげて下さい。エリートがさらに金を儲けるための道具じゃなくて。エリートは「ノーブレス・オブリージュ」を自覚して、人々のために奉仕して下さい。 |
| 子供たち思いの熱心な教師がなぜこの世の中に怒らないんでしょう。敬虔なやさしいクリスチャンがどうしてこの世の中に怒らないんでしょう。怒ってばっかりいるスターは、人間ができていないんでしょうか。。。 |
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