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「闇金ウシジマくん」7巻から9巻、「宇津井シリーズ」は救いがあるのだった。 35歳フリーター宇津井優一はパチスロにはまって借金を重ねる。 実家に居候しているのに、母親を「ババァ」と呼び、時に家庭内暴力。 母親は早期退職した「無計画」な夫と無気力な息子との生活に将来の不安を感じ、内緒で株に手を出したことから闇金のカモになる。 母親の借金から宇津井家は持ち家を失うことになり、公団に移った両親にも拒絶され、優一はホームレスに転落する。 ここで宇津井は非行少年のホームレス狩に遭い、死んだかのように見える。 しかし宇津井はこの死の淵から這い上がり、更生するのだ。 「こんなオレでも雇ってくれる人手不足の介護の現場」に就き、訪問介護先の老人たちに慕われる存在となる。 おばあさんにもらった鶏肉で、貧しい公団で鍋を囲む宇津井家は幸せそうである。 自己破産した上、ウシジマの「慈悲」で月々5万円づつ一年間払えば借金がチャラになるという光明もあってのことだ。 ワーキングプアの問題が宇津井シリーズのラストで解決されたとは思わない。 それでも、宇津井の物語からは、人がこの社会でまっとうに幸せに生きていくとはどういうことなのかを考えさせられるのだ。(「まっとう」とか言うと途端に反発するヒトもいそうだけど。) 「まっとう」という言い方が気に入らないなら「しあわせ」でもいいけど、 しあわせになるために必要なのは、金でも能力でもポストでもないと思うのだ。 宇津井はたしかにカネがなくて、闇金に追われて「不幸」になったかのようだけど、 彼の不幸せは、まず第一に母親を「ババア」と呼んだ時点から始まったと思う。 親に寄生しているクセに、親を軽蔑している。 同じように派遣先の上司も同僚もすれ違う通行人も、すべての他者を宇津井は尊大に見下ろしている。 「この宇津井様がな、」と。 宇津井がパチスロと闇金にハマっていくのは、「他者」が存在しないためである。(「他者」を黙殺しているためである。) 他者は私たちの自由を制限するものとして現れ、私たちに限界を知らせる者として存在する。 それは不愉快なことにはちがいないが、この不愉快を引き受けることなしに、大人になっていくことはできないのだ。 宇津井を「ホームレス狩り」する非行少年は、そういう意味で宇津井の過去の姿であり、非行少年たちの行く末は彼らが痛めつけているホームレスの宇津井である。 非行少年たちはホームレスの宇津井を「存在しない者」にしようとするけれども、もし宇津井という他者をしっかり見つめるならば、自分たち自身の現在の立ち位置を認識させられたことだろう。 そこに「不幸」から「しあわせ」への扉があったはずなのだ。 尊大な者は他者の存在を認めない。 他者の存在を認めない者は、他者を鏡にして自分の立ち位置を知ることができない。 (今日は何だか説教くさい記事になってしまったけど、「ババア」なんて呼んじゃいけない。) 「闇金ウシジマくん」にはさまざまな不幸な人々が描かれているけれど、 彼らの共通点は「他者への想像力を持たない」ということだと思う。 「思いやり」とまでは言わない。「想像力」である。 風俗嬢に騙されたストーカー男にウシジマは言う。 「相手を思いやる想像力がねェーから、テメェーは風俗嬢に騙されンだ!!」 たしかに「思いやり」とは「相手の立場に立って考える」ことだけれど、 「相手の立場に立って考える」ことが、「相手の腑に落ちない言動」を見抜く洞察力にもつながる。 他者は時に「うざい」ものだけど、存在論的に有難いものなのかもしれないのだ。いや、きっと。
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