わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。
(ヨハネによる福音書10:11−12)
| 昨日は「GAMA--月桃の花--」という、沖縄戦を描いた映画を観た。 |
| 沖縄戦で激しい空爆の中、日本軍も沖縄住民もガマ(洞窟)に逃れる。沖縄戦の総司令官であった牛島中将が自決し、日本軍が組織として壊滅した後も、沖縄住民はガマに潜み日本軍との同居を続ける。 |
| 軍人は、ガマの中で泣き叫ぶ赤ん坊をだまらせろ、と銃剣で脅す。「大きな声を出すとアメリカ軍に見つかるじゃないか!泣くのをやめないなら殺す。」 |
| ガマがアメリカ軍に包囲され、「危害を加えないからガマから出てきなさい」と投降を促すマイクの声が聞こえると、軍人は「出て行くな!」と制止する。そして手榴弾を配って自決するよう命じる。 |
| 「命令したのかどうか」が今問題になっているわけだが、私はそんなことはどうでもいいと感じる。問題は日本軍が沖縄住民を守るものとして存在したのかどうかということではないだろうか。 |
| 「ガマから出て来い、危害は加えないから」という米軍からの投降勧告が聞こえたとき、「出て行って投降したら鬼畜のアメリカに何をされるかわからない」という恐怖はあったであろう。「危害を加えない」と言うのが真実か罠かはわからない。ガマを出て投降することは「賭け」であったにちがいない。しかし追い詰められて勝算の全くなくなった戦争において、出て行かなければ死ぬしかない状況なのである。私だったらどうするだろうか。まちがいなく「賭け」に出るであろう。生きながらえることができるかもしれない唯一の可能性に賭けてみるにちがいない。「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」。 |
| 沖縄住民にそれができなかったとすれば、日本軍に「出て行ったら殺す!」と銃剣で脅されていたか、「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」と刷り込まれていたかどちらかなのである。しかし私が沖縄住民だったら「捕虜とならず日本人として立派に死ぬこと」に魂のすべてをささげられただろうか。沖縄方言を禁じられた戦争において。「自分のことば」を辱められた戦争において。 |
| 日本軍は沖縄住民を守る存在として沖縄にいたのかどうか。 |
| 自決命令を出したのか否かよりも重要な問題はそれではないだろうか。 |
| 沖縄住民が命を救う唯一の可能性であった投降をなぜ促さなかったのか。「投降したら鬼畜のアメリカにきんたまを抜かれる」のであれば、軍人がなぜまっさきに投降して「きんたまを抜かれる」かどうか自分自身が生贄になって試してみなかったのか。それで「きんたまを抜かれ」なかったら、「大丈夫だぞ、安心して出て来い!」と呼びかけられるではないか。 |
| 「よい羊飼い」は羊のために命を捨てる。羊飼いでない雇い人は羊のことなど気にかけていない。狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。牛島中将は逃げ惑う沖縄住民がその後どうなるかを考えずに自決した。組織的抵抗を失った沖縄戦は泥沼の中で続いていく。「赤ん坊が泣くのをやめないのなら殺す!」と軍人は銃剣を突きつけた。 |
| 「国家を守る」「国民を守る」と言っている政治家が「よい羊飼い」であるのかどうか、羊のことなど気にかけない雇い人にすぎないのかが問題なのである。そういう問題であるからこそ、防衛省も政府も正体を見破られるのを恐れ、「集団自決は軍命令」をあれほど否定しようと躍起になるのである。 |
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