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ヤエさんは、出征していった守田さんの子どもを身ごもり、生活のために、嫌っていた戦争の絵本を描くことを引き受ける。描きあげて、編集者の薫子にいざ絵本を渡し、お金を受け取った瞬間、ヤエさんは後悔の念に襲われて、やっぱり絵本を返してほしいと頼む。すると薫子は言う。 「ヤエさん、もしもあなたがこの仕事を断ったとしても、他の誰かがおんなじような絵を描いて、ウチの会社はこの本を出すわ。今は皆が一致団結して、始まってしまったこの戦争を勝ち抜くこと、それに賭けていくこと。今の日本で戦争にかかわらずに生きていくなんて、誰一人として許されとらんの。」同じような言い訳をして、私は今の仕事を続けている。薫子がヤエさんに言ったことを私は自分自身につぶやき、英語を子どもや学生、会社員に教えている。 英語を子どもに習わせることは流行だけど、私はあんまり効果があるとは思っていない。英語が好きでやってくる子はそれでも得るものはあると思うけれど、あんまり興味がないんだったら無理やり習わせるものでもないと思う。ネイティブと週に1時間や2時間一緒に遊ばせたところで、生活の大半は日本語なのだから、帰国子女が生活の中で英語を身につけていくようなわけにはいかない。「アメリカ人の子どもは文法を習わずに英語をしゃべれるようになるのだから、文法は必要でない」…NOVAの宣伝チラシに書いてあったが、とんでもない暴論だ。文法を習わずに、英語を操れるようになるには、一定量の英語に日々さらされ、その中から文法を自ら発見していくプロセスがあってのことだ。この「一定量」は、いくらお金を払って英会話学校に毎日通わせたところで達せられる量ではない。スペルも文法も知らずに英語を丸暗記していくことの非効率。児童英語教育は効率が悪い。 今担当しているのは小学校5、6年生の英検コース。ネイティブの会話クラスと並行して文法を学ぶと、比較的効率はよい。おまけに英語が好きで楽しみながら勉強している子たちなので、吸収もよい。好きなら習ったらいい。それ以上でもそれ以下でもない。家計に負担をかけて、母親がパートに出て家を留守にしてまで習わせるほどのものではない。私がなにより良心のとがめを感じるのは、子どもたちが自由に遊ぶ時間を奪っているということだ。まあせっかく通ってくれているのだから、その時間を楽しく過ごさせてあげようとは思う。しかしそれはどうしたってオーガナイズされた活動なのだ。子どもは疲れている。学校から帰って、サッカーの少年チームの練習をし、そのあと英会話を習い、塾にも行く。ピアノを習っている子、バレエを習っている子、水泳を習っている子もいる。活動の全てが大人によってお膳立てされ、プログラミングされている。 子ども時代の貴重な経験というのは、そういうオーガナイズされた活動ではないだろう。私の子ども時代は、夕闇で石けりの石がよく見えなくなるまで夢中になって遊んだ。家の近くで遊んでいたから、「ごはんよ〜」という声で母親が呼ぶまで遊んでいた。勉強には興味がなかったけど、親は何も言わなかった。塾にも行かず、ピアノは習いたいと言って習い始めたが、根気が続かなくて数年でやめた。続けろとは言われなかった。今思うのは、今中年になって自分の中にある「生きる意欲」は、あの子ども時代に夢中になって遊んだ経験から育ったのだということである。高校生になってからは勉強が面白くて夢中になって勉強したが、夢中になって缶けりをした子ども時代がなかったら、そうならなかったかもしれない。高校でも非常勤で教えているけれど、毎回勉強してこない生徒に、「あなたにいっしょうけんめい勉強した後の爽快感を教えてあげたいわ」と言ったら、彼女は「小学校4年生の時に経験した」と言った。燃え尽き症候群。彼女にたいして、それ以上何が言えるだろう。 オーガナイズされた遊びが「魂」にとってあまりよくないものだということは、ミヒャエル=エンデの『モモ』に書かれている。オーガナイズされた活動で子どもたちを囲い込むのは、「灰色の男たち」だ。灰色の男たちはモモに言う。「もっとためになる遊びをしたまえ。」 灰色の男たちの持ってくる高価なオモチャは子どもたちの創造性を奪い、オーガナイズされた活動は、生きる意欲を枯渇させていく。石蹴りや缶けりやかくれんぼに、お金は必要なかった。けれどワクワクして、疲れを知らず遊んだ。無表情な顔をしてコンピューター・ゲームに没頭している甥を見ながら、あんまり今の時代に子育てしたくないなあと思った。(そんなこともあって子どもはいない。できなかったのだが、不妊治療までして作ろうとも思わなかった。) 私の勤める英会話学校のネイティブ講師は皆、ハイ(ハイ・テンション)だ。控え室に戻ってくるとぐったりしている。(「楽しいレッスン」を演出したために。)ネイティブや日本人講師である私に、たとえ子どもに対する善意と愛があったとしても、私たちは一義的にはお金のために仕事をしており、子どもたちは「お客さん」である。スイミング・スクールでもピアノ教室でも。子ども時代の活動のほとんどが「お客さん」として扱われる活動であるということは健全なことだろうか。 『モモ』の中の灰色の男たちとは誰だろう。利潤を追求する資本主義社会の中での企業とその歯車である一人ひとりの社員だと思う。「日本人が英語が話せないのは、学校英語ばかり習うからですよ。英会話スクールでネイティブと触れ合えば、ナマの英語が身について、話せるようになります」「子どもの時から英語に触れさせたら、バイリンガルになります」----本当は英会話スクールのもうけのため。 塾もウソ。塾や予備校に通って成績が伸びたというのは短期的にはあるかもしれない。けれど塾は本当に考える力を奪い、学力を低下させる。私は塾でもパートをした。時給4千円は捨てがたい。塾では、詳細なプリントが配られ、文法的に注意すべきところが全て下線を引かれ、あるいは穴埋め問題になってなっている。それをやっておけば、重要ポイントはおさえることができ、テストでもよい点が取れるのだ。 しかし学力とは、問題を発見する力である。まっさらなテキストに向き合い、そこから問題を発見する力、それが学力なのだ。何がポイントかを教えてもらい、、解き方を教えてもらうばかりの学生は、別のテキストを読解する力を養うことができないだろう。塾でも学校でも、私は教師として「わかりやすく楽しく教えるスキル」を磨けば磨くほど、生徒の学力=考える力を奪うことになる気がしてならない。 こんなことを考えながら、パートとしては結構な時給のために、仕事を続けている。 「もしもあなたがこの仕事を断ったとしても、他の誰かがおんなじような授業をして、ウチのスクールは生徒を集めるわ。今は皆が一致団結して、始まってしまったこの資本主義戦争を勝ち抜くこと、それに賭けていくこと。今の日本で戦争にかかわらずに生きていくなんて、誰一人として許されとらんの。」 (※この記事は白圭さん、NANAMIさんのコメントに応えて書きました。
白圭さんの、「政治体制も違う後代の人が、戦時中の人々を批判することは簡単ですが、北朝鮮のような戦前の日本の雰囲気の中で、自分が生きてみたらどうだろうかと考える感覚も大事なのではないでしょうか。」というコメント、NANAMIさんの「自分の中の弱みを見つめること」についてのコメント、白圭さん、こんなことを考えながら朝ドラを見ています。NANAMIさん、これが私の「弱み」の一つです。) |

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