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ホームレス中学生

たまたまこんな記事をみつけた。ホームレス中学生
記事のタイトルは「ホームレス中学生 格差の時代にさわやかな夢」

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人気お笑いコンビ麒麟(って知らない。。。)の田村裕って人が書いた本で、9月の発売からわずか2ヶ月でミリオンセラーとなり、今年の年間ベストセラー第二位に選ばれたそうだ。映画化も決定したそう。

今年の出版界最大の話題作かもしれない。壮絶な自叙伝の何が共感を呼んだのだろうか。
(中略)
14年前の大阪で中学生のホームレスが実在したことは驚愕(きょうがく)の一語に尽きる。少年は約1カ月で過酷な公園生活から脱するが、そこには少年を助けた友人やその家族のさりげない情愛があった。さらに少年の心を開いた教師の細やかな愛情、少年を最後まで支えた兄姉の深い絆(きずな)があった。大好きだった亡き母への思い、友人にも打ち明けられない思春期の葛藤(かっとう)が訥々(とつとつ)と語られるなかで、読者は現代社会が失ったものに気づくのである。
(中略)
所得格差は教育格差を生み、さらに就職、結婚と格差は格差を生み、固定化するといわれている。世相をみれば、セレブや三ツ星レストランがもてはやされ、あらゆる場面で「勝ち組」「負け組」に色分けされる反面、愛情や友情、人情を共有できないのが現実ではないだろうか。田村さんは自分を捨てた父親とすべての人に「感謝」の言葉を贈った。格差社会のなかで孤立する多くの読者は笑いと涙の中にさわやかな夢を見つけたにちがいない。

ベストセラーだから読みたくなるというほど元々素直でもないのだが、この書評を読むだけでこの本を読む気はなくなってくるのである。何が言いたいんだ?!格差社会は残酷だけど、その中でも「感謝」を忘れず笑顔で生きている人がいるんだよ、と言いたいのだろうか。「格差社会にさわやかな夢」ってどういうことなのか。読んでみればわかるのかもしれないけど、このキャッチコピーを読むと読みたくなくなる。


時折訪問するブログで、かつてアル中で精神を病んでいたという人が書いていたのだけど、障がい者にせよホームレスにせよ、「向こう岸」にいることを感じさせず、あっけらかんとその「壮絶さ」を綴るかぎりにおいて、彼等は「危険な存在」ではなくなり、私たちは「こちら側の岸」から拍手喝さいを送る、と。(この人の慧眼を私は尊敬している。)

何年か前に乙武ヒロタダが書いた『五体不満足』という本もベストセラーになったけど、「障がい者」であることのつらさとか悲しみとか社会にたいする怨恨とか抗議とかそんなことは何も書かれていなかった。「障がい者であることが僕の個性」、バスケットボールさえやっちゃうし、手足がないハンディはかえってわずかに残った腕で超低姿勢からのドリブルという得意技を生み出し、レギュラーに選ばれて試合出場さえした。早稲田大学に入学して小学校の先生にまでなった。(ってのは本出版後のことだけど。)究極のポジティヴ・シンキング。


こういう話がやっぱり万人に受け容れられるんだと思う。だけどやっぱり乙武さんは特殊な「障がい者」だ。手足がないことを除けばルックスはいいし、戸山高校から早稲田に入っちゃうくらい頭いいし、性格明るくて人に好かれるし。そして何より、よだれを垂らしたり、手足や口が麻痺して話すとき顔をゆがめて「へんな声」を出したりしない。乙武さんの本自体には感銘を受けた一人だけど、乙武さんのケースだけをもって、「障がいも個性。同情する必要もないし、前向きに生きるべきだ」と言うわけにはいかない。私たちの社会のあり方を問い直すことなく。個別支援急学級の生徒たちは卒業後、親の扶養なしに「自立」していくことはやはりできないでいるのだ。

同じように「ホームレス中学生」をもって、格差社会の弱者もさわやかに夢をもって生きろよ、と片付けるわけにはいかない。この記事を見つけたのはたまたまトヨタの過労死訴訟のニュースを検索したら、同じウェブページのgooニュースに載ってたのだ。この本が「読者の共感を呼んだ」って書いてあるけど、どういう人が共感したんだろう(ってベストセラーなんだから多くの人が共感したんだろうけど。)共感した人の中に「自動車絶望工場」で働いているトヨタの下請け労働者とか、会社がつぶれて失業したサラリーマンとか、破産して借金を抱えた中小企業の社長なんかもいるんだろうか。ところでまあ、読まないで云々するのもなんだから、今日教会の帰りに本買ってこよう。山積みされているのは見たから。読んで感想変わったらまた書きます。

ちなみに本の帯には「衆議院議員麻生太郎氏も推薦」と書かれている。


(加筆)
さっきこの本買って読み終えました。2,3時間でサラサラっと読んでしまえる本です。なんだか物足りないと感じるのは私だけだろうか。著者は自分を捨てたお父さんを恨まない。「お父さんにもお父さんの苦しみがあったんだろう」と想像する著者の人間の器が大きいのか、本を売るための戦略なのかわからないけれど、あまりリアリティを感じなかった。だから共感もしなかった。この本に出てくる著者を取り巻く人々は皆とびっきり温かい。実際世の中はこんなに温かくない。冷酷無情なグローバル経済が社会のセーフティネットさえ破壊している。地域社会もセーフティネットとしては機能しない。本の帯で「ここには、日本人として忘れてはならない何かがあります」と語る麻生太郎に「ケッ!」と思う私は、きっと著者より数倍性格が悪いのだろう。それがどうした?!
 

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過剰な敬語

職場帰りにかじりながら食べるために一口サイズのパンプキン・パイを3つ買った。計98円也。ちょっとオシャレなビニール袋に詰めてくれて、ちょっとオシャレな針金が通った紙紐で結んでくれる。

店員さん「手提げ袋をお付けしてよろしいですか」
私「あっ結構です」
店員さん「ありがとうございます」

この丁寧語おかしくないでしょうか。

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ビニール袋で十分な大きさ。バッグの中に軽々入ってしまう。手提げ袋はふつう必要ない。そして手提げ袋は「店の都合」ではなく「客の都合」で「あえて付けてもらう」ものである。店から客へのサービスである。そしてタダである。

「サービスをタダでさせていただいてよろしいでしょうか」と言うのは人と人との関係性においておかしい。

「手提げ袋お付けしましょうか」ではどうしてダメなのだろうか。
「手提げ袋つけてあげましょうか」「手提げつけてさしあげましょうか」はきっと「サービスをしてあげてるんだぞ」というニュアンスが感じられて反発する客がいるのだろう。「手提げ袋お付けしましょうか」もその延長線上でダメ。
「手提げ袋ご入用ですか」も「手提げ袋つけるのはアナタの都合だよ」ということを感じさせて反発をよぶのだろう。

手提げ袋はコストの上からも環境の上からも節約したいし、かといって手提げ袋をつけないで渡すと「手提げ袋もつけてくれないのね」と文句を言う客がいるかもしれない。そこでほしい客には渡すつもりで訊くのだけれど、客の反感を買ってはいけないと思って、「手提げ袋をお付けしてよろしいでしょうか」になるのだろう。

これはきっと応対した店員が敬語の使い方を知らなかったわけではないだろうとニラんでいる。なぜならこれに似た違和感のある丁寧語を何度かスーパーやお店で聞いたことがあるからだ。店員教育で教えられるマニュアル語なのだと思う。

言葉が狂っているのは人と人との関係性が狂っているからだと思う。客は「買ってやってる」のだから店員が一方的感謝すべきで恩着せがましいことは微塵も言ってはならない。

本当は客だってお店のおかげで手に入れられるのだからお店の人に「ありがとう」と言って当然なのに、そういう気持ちをちょっとでも持って買い物する人がそれだけ少なくなったということなのだろうか。

私はやっぱりきちんとした言葉を使いたいし、聞きたいし、ペコペコされるよりきちんとした人間関係をたとえ一時の買い物においても結びたいと願うのである。ちっちゃなことだけど。

ペコペコさせてしまってごめん。
客を代表して謝ります、お菓子屋さん。
渋谷の東京ウィメンズプラザで催された「さらば戦争!映画祭」に、ずっと観たかった「パッチギ!2」を観に行った。朝から色々な映画とか講演をやってて、1日券だから早くから行ったほうがお得なんだけど、今週はメチャクチャ忙しいので、最後の「パッチギ!2」とその後の井筒監督のトークショーだけ。以下ネタバレあり。DVDも10月末に発売されたっていうことだから、これから「まっさらで観たい」と思う人は読まないで下さい。

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「パッチギ!1」に朝鮮高校の不良役で出てたアンソンの妹キョンジャが芸能界に入って、戦争映画のヒロインに選ばれて葛藤するって話なんだけど、「芸能界では在日が在日であることを隠す」っていうのは、「ヨンさまもイ・ビョンホンもステキだし、いまさら在日かどうかなんてカンケイない」ってわけにはいかないことの証拠なんだろう。山口百恵もにしきのあきらも(古い!)も上戸彩も井川遥も在日だって聞いたけど。誰が在日芸能人か、というこんなサイトをみつけた。
http://pcwbui.livedoor.biz/

「ペ・ヨンジュン」が在日なワケはないし、「筑紫哲哉」と「土井たか子」「辻元清美」が在日になってるのは、「反日」イコール「在日」って分類もアリなのかも。井筒監督も在日だ、という風説がネットを飛びかったそうだ。本名はキムだ、とかいやキムじゃなくてパクだ、とか。

「パッチギ!2」の中では、キョンジャは「青山涼子」っていう芸名で売り出して、在日であることは隠している。「なんで隠さなきゃいけないの?」と聞くと、センパイの在日芸能人は「そりゃあ、アンタ、在日だってことがわかったら『水戸黄門』なんてシラけちゃうじゃない?」ってなことを言う。なるほどね、都はるみが「ニッポンの心」を歌いながら、「キム ヨンジャ」なんて名前だったら「せっかくいい気持ちに浸ってた虚構が崩れる」というワケですね。(都はるみも在日だってウワサだけど。)この事実を考えると、「ニッポンの心」っていうときの「ニッポン」ってやっぱり在日韓国・朝鮮人や在日日系ブラジル人(ややこしいネーミングだ)や中国残留孤児の子弟なんかは含まれないんだなと改めて気づかされる。で、私のブログもなぜか「反日ブログ」にリストアップされてるんだけど、「反日!」って人を糾弾する一部のヒトたちの激しさを思うと、「ニッポンの心」っていうときの「ニッポン」っていう虚構はやっぱりある種のヒトビトにはとっても大切なものなんだなあと想像するワケである。なぜ虚構かっていうと、在日韓国・朝鮮人には帰化して日本国籍を取るという選択肢もあるわけだけど、たとえ日本国籍をとったとしても、「やっぱり血は韓国、朝鮮でしょ?」という科学的にはよくわからない決めつけをされて、芸能活動をする上ではどのみちあんまり変わらないんじゃないかと想像するからだ。「日本人」のアイデンティティってやっぱり「血」なんでしょうね。「血」って全然科学的じゃなくて、それ自体虚構だけど。皇室にはもともと渡来人の血が入ってるわけだけど、「悠仁さま」が将来、韓国人と恋におちてケッコンしたいと言ったら、やっぱり反対されるのでしょう。

戦争にとって「虚構」は欠かせないものなのかも。「パッチギ!2」ではキョンジャは在日であることを隠して戦争映画のヒロインに抜擢される。この戦争映画のモデルは昨年(だったか?)石原慎太郎がプロデュースした「俺は君のためにこそ死ににいく」だそうだ。
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「お国のために、桜の花のようにいさぎよく命を散らす」特攻隊員の悲壮さが涙をさそう(私は泣けないけど)ワケだけど、この特攻隊員の物語もまた虚構であることを井筒監督はトークの中でバラしていた。鹿児島県に徳之島っていう島があるけど、特攻機はここに不時着してしまい、特攻隊員は図らずも生き残ってしまった。しかし生き残りの特攻隊員が本土をブラブラ歩いていると士気がそがれるというので、徳之島に宿営を建て、生き残りの特攻隊員たちをここに幽閉したそうだ。

人間って虚構がなくちゃ生きていけないんだろうか。クリスチャンにとっての「神」も虚構でしょ?という声が聞こえてきそうで、他人事ではなくマジメに考える次第です。

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「責任」という言葉

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「自己責任」という言葉にいつも引っかかりを覚えていた。この言葉が流布したのは、高遠さんたちがイラクで人質になったとき、「イラクの現状を知っていながら政府の止めるのも聞かずに行った自分たちが悪いのに、救出のための費用に税金を使うなんて!」という非難の嵐の中だった。数年後、姉歯容疑者が設計した欠陥マンションを買った人は不運だけど、そんな安いマンションを安い安いと喜んで買った自分が悪い、自己責任だ、と知り合いの国土交通省の役人は言った。自己責任という言葉は、「人生何が起こるかわからない、選択の結果がどうなるかわからない、ひとつのことを選択するのはその選択の結果をできるかぎり見据えた上でのことであるべきであり、選択したことの結果がどうであれ、それは自分自身の責任として引き受けなくてはならないのだ」というような意味合いで使われる。たとえば結婚した翌日に配偶者が事故死してしまったり、買ったばかりのマンションが地震で倒壊してしまったりした場合にも、そんな配偶者を選んだ責任、そんな場所にマンションを買った責任は当人にある、という具合に。

発行した学級通信が保護者にどのように受け止められるかはわからない、自分の発した言葉が意図しなかったし予想もしなかったような意味に受け取られ、トラブルを起こしたとしても、それは自己責任だ、と考えて、今改めてこの言葉について考え込んでしまった。副校長の言うように、たしかに言葉は独り歩きする。こちらが意図したようには言葉を受け取らない読者もいるのだ。その反応のすべてを予測し、トラブルのないようにと考えれば、黙り込むしかない。あるいはけっして言葉尻をとられないようなあたりさわりのない言葉を連ねるしか。学校が「責任」を取らされる時代だから、言葉にも慎重でなくてはならないのだ。

「責任」という言葉は本来そういう意味だったのだろうか。「責任」は英語でresponsibilityすなわちresponse(応答)のability(能力)である。神の呼びかけにたいして応答する能力、というのがresponsibility(責任)という言葉の本来の意味だったのだ。神の呼びかけは私が望んだことではないし、選んだことではない。しかし呼びかけられた以上、応答する責任があるのだ。いや、応答できる存在であるからこそ、人間はいかに生きるかということに責任を担うのである、と。

responsibility(責任)は、この言葉の本来の意味合いにおいて、私たちが世界にたったひとりで投げ出され、孤独のうちに「負う」ものではない。呼びかける者があり、その呼びかけにたいして応えるという関係性の構築こそが「責任」である。私たちと関係を持とうとする者があり、そのオファーを引き受けることが「責任」なのである。したがって孤独のうちに放り出されている者には「責任」はない。手を差しのべられ、愛されているからこそ、またその愛に応えうる存在と期待されているからこそ、「責任」が生じるのである。

責任をとらされることを怖れて、なるべくかかわりを持つまいとする風潮を見るにつけ、responsibilityについて考える。責任は本来応答であり、言葉もまた本来、対話であった。ソクラテスもイエスも書き言葉を自分自身では残さなかった。生きた具体的な関係の中でのみ言葉を発した。言葉が通じなさそうな相手には、イエスは比喩でのみ語った。「誰が読むかわからない言葉」と「生きた関係性や文脈から切り取られた言葉」には責任の取りようがない。

「自己責任」「学校の責任」、なんだかつらくなる言葉だ。責任を引き受けることがお互いのかかわりを深め、対話を深めていくような、そんな社会にしていくにはどうしたらいいのだろう。

※高遠さんたちは、イラクの人々からの呼びかけに応えたのかもしれない、人質になった高遠さんたちを「自己責任」という言葉で切り捨てようとした多くの日本人の方こそ、他者と世界への関心を閉ざし、呼びかけに対する応答を怠ったという意味で、「責任」を放棄したのではないかとも考える。

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空気を読む力を数値で判定するテストに一喜一憂

「空気読み力テスト」が話題となっている。これは、最近「空気嫁」や「KY」などのことばが様々な場所で取り沙汰されることを受け開発されたテスト。どれぐらい空気を読むスキルがあるか、もしくは「空気読めない」かを知ることができるのだ。(略) 判定ページに移ると「空気読み力」を構成する5つの要素??「空気支配力」「人間洞察力」「文脈把握力」「会話柔軟力」「TPO力」をレーダーチャートで教えてくれる。そして、総合店である「空気読み力」を「69(Aクラス/一般人)」「34(Bクラス/軽度KY(空気読めない))などを明らかにしてくれる。/このテスト結果をブログで報告する人たちは「軽度ということはまぁまぁ空気読めてるってことでしょうか」「軽度でよかった(ノ´▽`)ノ」「予想通り でも、ときどきみんなの輪に入っていけなくなるときがあります(ノ_<。)うっうっうっ」など、様々な感想を述べている。(以下略)

http://netallica.yahoo.co.jp/news/12399


「安倍KY内閣」なんて命名もあったりして今年の流行語大賞にも選ばれそうな「KY」ですが、私はどうもこの「空気を読めよ」「空気が読めない奴だな」のような物言いが嫌で嫌でたまらない。最近は小学生でも平気で使うらしいけど、そんな言葉が飛び交うクラスはあまり想像したくありません。

たしかに、いわゆる「空気を読む」という能力があったほうが、さまざまな場面で便利であり、生きやすいんでしょう。ただ近年では、それが「社会を生きるうえで必要な能力」として、一般化して語られる傾向がある。それが無条件に「正しいもの」とされるようになってきている。
しかしながらそれは、言語の本質であるロゴスによって正しい判断を導くという作業なしに、単に場を支配する「空気」に合わせて行動したり発言したりすることを強制することにつながりやすいと思います。

もともとこうした傾向が日本の精神的風土に根強いことは、“偽ユダヤ人”イザヤ・ベンダサンこと山本七平が『「空気」の研究』(文春文庫)の中で詳細に指摘しているし、“うるさい日本の私”こと中島義道らによっても繰り返し論じられています。しかしそれらのように「空気を読む」という行為を相対化することなしに、善であることを前提にしているのが昨今の風潮。

思えば、2年前の「郵政選挙」は「民営化に反対する者は守旧派」とのレッテルが貼られる中で、空疎な祭りの「空気」に浮かされて与党が肥大化した異常事態でした。
同様のことは、現在も進行中。光市母子殺害事件裁判の報道では、事件の実態を最初から洗い直して事実を明らかにしようとする弁護側に対し、異常なまでのバッシングが展開されました。それを情緒的に後押しするのが、世間の「空気」。

弁護団に対して「一審の主張を覆して、今さら勝手なことを言っているのは許せない」などと批判する人のうちどれだけが、たとえば「旧一審の被告人質問の記録をいま見ると、彼は『(被害者の)家にも上げてもらえるとはまったく思っていませんでした』あるいは『大声を出されて何とか静かにしてもらおうと思っていたら首を絞める羽目になりました』と、いま(検察から)事実認定されていることとは違う事実を言っている」(今枝弁護士)、「もうすでにはっきりしていると思うが検察が主張するような事実は(被害者の)遺体にはないんですよ。それはおそらく今後の法医鑑定で明らかになってくるだろうと思いますし、私からすると一審の記録の中にもすでにあった」(安田弁護士)のような、事実に基づく弁護側の主張について検討しているのか。
しかしTVの報道番組などが「世間の空気が読めない」報道を行えば、面倒な事態になるのは目に見えています。かくして「世間の空気を読んだ」報道ばかりがあふれ返った結果、一体どんなことになっていくか。

正誤や善悪に対する個人としての判断よりも先に、「空気」を重視しようとする風潮は恐ろしいと思います。

KYで何が悪い!!

転載元転載元: 半哲学的談笑


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